第29話 女王禍・前編

 魔物図鑑に図解が載っていなかったため、クイーンホーネットの真の姿を知らなかった。

 巨大な女王蜂と聞いて、なんとなくお腹が大きく膨れ上がった醜悪な見た目を想像していた。

 ――だが、実物はそんな“生易しいもの”ではなかった。

 

『――ギギアアアアアアアアァァァ!!!』


 怪物の咆哮がリースの森に木霊する。

 大気の震えが全身を包み、耐え難い轟きが耳を劈(つんざ)いた。


「……あれが、クイーンホーネット?」


 そう、一言を絞り出すのが精一杯だった。その恐竜のごとき威容に本能が慄いた。

 大型の10tトラックに比肩しうる規格外の巨躯。それらを覆う重厚な外殻は黒と橙の警告色に彩られ、目にする者全てを怯ませてしまうほどの威圧感を放つ。その反面、背中から生えた広大な二対の翅は、マジナイト鉱石の表面にも似た虹色の光彩を放ち、残酷なほどの美しさを誇っていた。

 また、その姿かたちは“巨大な女王蜂”というより“カマキリのバケモノ”といった方がしっくりくる。象の足の如き四脚がその巨体を支えながら大地を踏みしめ、胴体から先は天を衝くように反って立ち上がり、四脚とは大きさも形状も異なる、腕の役割を担うかのような二対の脚が折りたたまれている。

 そして、胸部の末端には新女王と殆ど変わらない小さな頭部があって、憎しみに満ちた漆黒の複眼で周囲の人間たちをひとりひとり見下ろし、睨みつけていた。


「ひ、ひいいいいい!」

「あ……あっ……あ……あ」


 家と子供たちを理不尽に奪われた彼女の底無しの怒りの矛先が、これから自分たちに向けられようとしている。ある者は恐怖で喚き、ある者はその場で力なく座りこんだ。

 幸か不幸か。女王が解放されるやいなや、あれほど集結していたホーネットたちは、何故か蜘蛛の子を散らすように散り散りに去っていった。今や我々の脅威はクイーンホーネットただ一匹。だが、こんなバケモノに比べればホーネットの群れなど幾分マシであったろう。

 

「なんという……ことだ……」


 女王のプレッシャーの前に、さしものライアン様すら気圧されてしまっている。

 歴戦の猛者でさえ身が竦むというのに、青二才である俺が平然としていられるはずもなく、気づけば足がガタガタ震えていた。

 せめてスカーレットだけは手放さないよう、握りしめる手に力を込めるしかなかった。

 

「なぜ動かない……? 封印櫃の後遺症……?」


 こんな土壇場でもエミリィさんは思考を止めず、クイーンホーネットの不気味な静寂に疑念を抱く。

 たしかに彼女の言うとおりだ。クイーンホーネットは明らかに我々に敵意を向けているが、一向にアクションを起こす気配がない。まるで“何かを待っている”かのようだ。


「……! これは!? 奴の体内で超高濃度の地と風の魔力が圧縮撹拌されているッ!!」

「――なんだって!?」


 ゲイリーさんの鬼気迫った言葉に俺はハッとする。地と風の混成……つまり“酸属性”。新女王が放った赤い酸ブレスと同じ代物のはず。

 だが新女王は未成熟でろくに使えなかった。……でも、それが完全成長を遂げたクイーンホーネットなら……?

 その結論に至った時、すでに出遅れていた。

 クイーンホーネットは空を仰いでいたのだ。


――噴水。


 その単語と、“それが意味する恐るべき事態”が頭をよぎった瞬間。考えるよりも先に叫んでいた。


「――“酸の雨”だあああああ!!!」

「ッ!! 総員、女王から離れろッ!!」


 俺の咄嗟の言葉からいち早く意図を汲んだライアン様は、全団員に撤退の指示を飛ばす。

 外縁部隊全員は難なく離脱した。

 だが、クイーンホーネットと距離が近い内縁部隊は間に合わない。

 クレアン様が団員二人を抱えて全力で離脱する。

 ライアン様は一人の元へ駆けつけた。


「カズキくん! そっちは頼む!」

「はいッ!」


 俺は残るゲイリーさん、アンナ、エミリィさんを守るため、魔法を発動した。


「――トーチカッ!」


 上空にかざした両手から岩の塊が出現する。それらは次々と生成されてゆき、やがてドーム状の壁を構築した。

 『トーチカ』は防御系の地属性魔法。分厚い岩の壁を築き、あらゆる物理的障害から身を護る。


『ジュオオオオオオ!!』


 トーチカが展開されて視界が覆われる寸前、独特な音とともにクイーンホーネットの口から紅い液体が火炎放射のように上空へ噴射されたのが見えた。


「――来るッ!」


 やがて空に打ち上げられた膨大な量の酸は、その全てが重力に従って自由落下し、女王の周囲一帯に無慈悲に降り注いだ。


「っ!?」


 無数の酸の塊が絶え間なく外側を打ち、マシンガンの銃弾を弾くような音がドーム内に反響し続ける。

 それら全てが内側に到達することはないが、正直生きた心地がしない。


「大丈夫。外側は溶解するでしょうが、カズキさんがトーチカを絶えず生成し続ければ確実に凌げるはずです」

「は、はいっ!」


 不安に支配された心境を目敏く察してくれたエミリィさんのフォローのおかげで、俺は平常心を取り戻し、トーチカの維持に努める。

 しばらくすると酸の雨の音が止む。気を抜いて解こうとしたが、すんでのところでゲイリーさんに止められる。


「――駄目だ。まだ解除するんじゃあない。外はまだ酸属性の色が充満している。上気した酸だ。肺が灼かれちまうぞ」


 ゲイリーさんの言うことが本当なら、今ここでトーチカを解除すれば全滅は免れない。

もしこの場に彼が居なかったら、気づかず解除してしまうところだったと思うとゾッとする。

 今のところ奴がこちらへ攻撃してくる気配もない。上気した酸が霧散するまで、ひとまずは落ち着いて状況整理する時間ができたといえよう。


「――最悪の事態になってしまいました。まさかクイーンホーネットが封印から解き放たれてしまうなんて……」

「ああ。奴はこの場にいる全員を皆殺しにしようとするだろうな。そして、俺たちには太刀打ちできるような戦力はない」

「……」


 重い空気がのしかかる。

 開口一番に前向きな発言をするであろうアンナでさえ口を噤む有様だ。


「とにかくこの状況で取れる手段はただひとつ」

「撤退……しかないでしょうね」

「……逃げ切れますかね?」

「さぁな。奴は俺たちが死ぬほど憎いはずさ。それこそ地の果てまで追いかけるだろう。怒りに任せ、行きずりに破壊の限りを尽くしながら、な」


 ゲイリーさんの言葉に押し黙っていたアンナが口を開いた。


「逃げるなんてできない……。どれだけ被害が出るかわからないよ」

「ならばここで死ぬか?」

「それは……」


 アンナの言いたいことも分からないでもない。被害が広がる前にここで食い止め続けるか、あるいは討伐するのが理想だ。

 しかしライアン様も言っていたように、今のボナハルト騎士団にはアレを倒せるほどの戦力は持ち合わせていない。策もなく突っ込めば徒に命を落とすだけだ。


「この酸の雨で自滅してる可能性はありませんか? 怒りで我を忘れているんですよね?」

「……それは無いと思います。彼女が封印櫃から出た直後大人しくしていたのは、おそらく他のホーネットたちを“この攻撃に巻き込まないようにするため”だったのでしょう。彼らが攻撃範囲から退避するのを待っていたのです」

「つまり、怒り心頭とはいえ、敵味方の区別がつくぐらい冷静だということですか?」

「おそらくは。ですから、自分より格下の相手と心中するような愚かな行動は起こさないはず」


 怪獣クラスのフィジカルだけでも厄介なのに、一手先を読める狡猾さをも備えているだなんて……。

 こんなのを相手にどう戦えばいいのか、余計分からなくなってくる。


「……上気が晴れてきた。もう解除しても大丈夫だ」

「はい」


 展開していたトーチカを解く。

 さっきまで緑豊かな森だったと説明されても到底信じられないほど、泥ばかりが広がる不毛な大地へと変わり果てていた。


「やはり……無傷……っ!」


 泰然とそこに佇む女王の姿を見て、エミリィさんが絶望の声を漏らす。

 これだけの大破壊の渦中に遭ってもなお傷一つないクイーンホーネットが、悠々とこちらを見据えていた。

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