第26話 前触れ
「先も言ったようにクイーンホーネットは知性と感情を持つ魔物だ。かつてとある地方にて、群れが全滅状態に陥ったクイーンホーネットが、愛する子どもたちを失った怒りと悲しみに狂い、その地方を荒らし回ったという事例がある。それはさながら逆鱗に触れた竜種の如く苛烈なものだったらしい。一度そうなってしまえば、もはや我々の手に追える相手ではなくなるのだ」
「……なるほど」
「ちなみに、この生け捕りしたクイーンホーネットはこれから『魔導科学研究院』へと移送することになっている。今回の作戦にあたって魔物学部門から、『なるべく生きたサンプル』が欲しいというリクエストがあったのだ」
「あの、生きたクイーンホーネットってそこまで貴重なんですか?」
俺の素朴な疑問にライアン様は深く頷いた。
「ああ! なにせクイーンホーネットはその希少性と危険性からして、生態調査がろくに進んでいないのだ」
ライアン様に補足するよう、ゲイリーさんが続く。
「俺は今回のホーネットのコロニー掃討作戦でようやく新女王をこの目にすることが出来たんだが、彼女らがホーネットのような風属性でないというのは初めて知った。俺がまだ視力を失う前に読んだ魔物図鑑にはそんな記述はなかったんだがな」
「ま、そういうことだ。だがこうして生きたサンプルが魔導科学研究院に届けば、今まで停滞していたクイーンホーネットの調査が大きく進む。ゲイリーが例に出したような誤った情報も是正されることだろう!」
「ええ。それに通常のホーネットの寿命がせいぜい5年程度であるのに比べ、クイーンは数百年も生きられると存じております。その桁外れな生命力の秘密を紐解けば、我々人間にとっても何らかの有益な発見があるかもしれないですね」
「そうか、コイツはもしかしたら200年前の魔王暗黒時代を生きていたかもしれないのか! ロマンを感じるなァ」
アカデミックな話題に盛り上がる三人に、俺とアンナはすっかり置いてきぼりになる。
「なんだかスケールが大きい話だなー」
「そだねー」
そんななか、荷車を囲って一息ついている騎士団らの後方から、突然大きな声が上がった。
「ライアン様! ライアン様はおられますか!?」
一人の男性団員の叫びに、空気が一変する。
名指しで呼ばれたライアン様は即座に引き締まった表情へ切り替わり、彼の元へと急行した。その場にいた全員も彼の後に続く。
「どうした! アルマ! 何があったのだ!」
件の団員、アルマの元へ赴く。彼は必死の形相で地面に力なく横たわる女性団員を抱きかかえていた。彼女は腹部の布地に大きな赤黒い染みをつくり、苦悶の表情で息も絶え絶えにしている。
「シィナの奴が! 今しがたホーネットに襲われたんです! 解毒はすぐ済ませました。ですが、傷が深くて! 治そうにも……」
「……よりによって、この部隊で唯一回復魔法を使えるシィナが負傷してしまったのか」
「すみません! 俺のせいです! コイツ、せっかくリースの森に来たから、ここにしか自生しない珍しい植物を探すって、勝手に持ち場を離れたんです。それで、危ないからって俺も付いていったのに、一瞬目を離した隙に、襲われててっ!」
アルマさんはシィナと呼ばれた女性団員が危篤に陥っていることに、かなり狼狽しているようだ。
応急処置は済ませてあるようだが、彼女の様子を見る限り状況は芳しくないだろう。十全な治療を施すべきだが、なにせここは僻地の森。一番近いアルルの街まで馬を飛ばしても一時間以上はかかる。
だが幸いにもこちらにはアンナがいた。
「私に任せてください」
「あ、あなたがたは?」
アンナはシィナさんの患部に両手をあててヒールの呪文を詠唱し、一瀉千里(いっしゃせんり)に治療をはじめた。集中する彼女に代わってエミリィさんが説明する。
「私たちはエルスニア・ギルドの者です。ホーネット掃討作戦の二次被害から森の賢者を守るため派遣されました」
「冒険者? ……ということは、彼女はプリースト! よかった! ああっ、ありがとうございます!」
アンナのおかげで傷は根治し、シィナさんの表情も穏やかなものになった。アルマさんは心の底から安堵してアンナに頭を下げると、安静にできる場所へ連れていくため店主に掛け合い、そのまま彼女を抱えて森の賢者に向かっていった。
「アンナ! 我が隊の負傷者の救護、感謝するぞ!」
「い、いえっ。私はただ、当たり前のことをしただけです」
腹違いの兄妹がどことなくぎこちないやり取りをしている一方、エミリィさんは険しい表情をつくっていた。
「エミリィさん? どうかしたんですか?」
「妙ですね」
「え?」
「――ああ、たしかにおかしい」
ゲイリーさんが顎髭を弄りながら、エミリィさんに同調する。
「どういうことですか? ゲイリーさん」
「俺はあの荷車を護衛する道すがら、コロニーから“撃ち漏らし”が来ないかを常に警戒していた。だが、シィナを襲った奴の存在に気付くことができなかった」
「さらに言えば、アルマさんとシィナさんを襲ったホーネットが飛来してきた方角と、コロニーのある方角はまるで違う」
二人の意見に、ライアン様は深刻な面持ちで答えた。
「他のコロニーの個体か? あるいは……。いや、しかし。ここはひとまず最悪の事態を想定して動くべきだ。ゲイリー、頼めるか?」
ゲイリーさんは「承知しました」とつぶやき、顔前に両手を組んで瞑想状態に入った。おそらく広範囲の索敵をするつもりだろう。
「あの、最悪の事態って?」
俺の疑問にエミリィさんが答える。
「クイーンホーネットは同族にしか認識できない特殊な“香り”を体から出していて、自らの危機を遙か遠方にいる兵隊たちに報せる事ができるとされています。つまり、遠征している多くのホーネットたちが彼女の香りに誘き寄せられ、ここへ一斉に集結している可能性があるかもしれないのです」
「しかし、あの封印櫃は内部の匂いを外に漏らさず完全シャットアウトするよう作られている。だから大丈夫なはずなのだが……」
特殊な香りとは、もしかして現代世界で言うところの『フェロモン』のことだろうか?
自分もあまり専門的なことは良くわからないが、そもそも“匂いとフェロモンは似て非なるもの”のはず。
それなら封印櫃の安全性には疑念の余地がある。俺は「ニホンでの話ですが」と前置きを置いてから、自分の考えを伝えてみた。
「そもそも匂いではない……と?」
「上手く言えないんですが、匂いってのは実は目に見えないぐらい小さな小さな粒で出来ているんです。それでクイーンホーネットの特殊な香り……言い換えるなら“女王フェロモン”が匂いの粒よりもさらに小さなものだったとしたら」
俺のいわんとすることを察したライアン様は表情を強張らせる。それを裏付けるようにゲイリーさんが焦燥感に満ちた面持ちで報告した。
「――ライアン様。至急、臨戦体勢に移るべきです」
「数は?」
「数十……百……下手すればそれ以上居ます。おそらくエルスニア中から集まってきています。あと十数分もすればここは一斉包囲されるでしょう」
「なんですって……!」
エミリィさん顔から血の気が引いてくのがわかる。
もし封印櫃に封印されたホーネットクイーンが解かれれば、怒り狂った“生ける災厄”が野に放たれてしまう。一体どれだけの被害がエルスニアを襲うかは想像もつかない。
「なんということだ! ……いや、今は嘆いている場合などではない。考えるときだ。そうだな……救援を呼ぶのは必然として、とにかく今はこの場を持たせるのが最優先……。救援が到着するまで持ち堪えればこの局面を乗り越えられる……。部隊を内側と外側の二つに分けて運用だ。外は方円陣形がいい。クレアンはじめ白兵戦が得意で機動力の高い団員が迎撃。それ以外は封印櫃の護衛だ! ゲイリー、お前は引き続き奴らの動向に目を光らせろ! そして逐次俺に状況報告を続けてくれ。情報は鮮度が命だ」
ライアン様は動揺の色を示していたのが嘘のように、その場にいた部下たちに的確な指示を飛ばし続ける。
「また戦闘!?」
「私たちは全員、さっきの闘いで消耗しています。これ以上は……」
「毒消しの温存なんて考えていなかったのに……!」
「いっそ、今のうちに全員で撤退することはできないのでしょうか!」
団員たちは口々に不安を吐露する。過酷な作戦を終えて一息ついたところに「これからホーネットの大群を相手にしろ」などと伝えられれば当然の反応だ。まさに文字通り、泣きっ面に蜂である。
だが、駄々をこねていても状況が好転しないのは、その場にいる誰もが理解している。今必要とされているのは、このハードな状況で心を奮わせるための“士気”であった。
「――すまないッ!!」
すると、ライアン様は周囲を漂う淀んだ空気を吹き飛ばすよう力強く声を張り、団員たちに向かって直角に頭を下げた。
あれほど煩雑としていた団員たちが一瞬で静まり返る。近い将来、領主の座に就くであろう人物の平伏する姿。その垂れた頭こうべには“いったいどれほど重みがあるのか”。知らない者は居ない。
「このような事態に陥ったのは全て俺の責任だ! ……見積もりが甘かったのだ。未知の災いを孕んだ“触れ得ざる箱”を迂闊にも開いてしまったばかりか、こうして皆を巻き込むことになってしまった。先の過酷な作戦を、せっかく誰一人欠けることなく遂行したというのに……犠牲者が……出るやもしれん。そうなれば、俺一人のケジメでどうにかできる問題ではなくなってしまうのも重々承知だ! ……それでも、どうか……どうか!! 今一度俺に命を預けてくれッ!! 頼むッ!! みんなッ!!」
彼は縋るように乞う。
目下の者たちのために、惨めに折れ曲がったその矮小な背中。“民を束ねる王”の在り方としては失格かもしれなかった。だが、彼の誇りを投げ売ってでも嘆願するその姿に。その気高くも美しい覚悟に。皆、心打たれたに違いない。
彼に異を唱える者は誰一人居なかった。
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