第4話
「ブッコローさん、眼帯忘れてますよ」
「おっと、ゴメンゴメン忘れてた。まだなんか慣れないんだよね」
「店内をうろつくときは、付けてくださいね」
店長から差し出された眼帯を左目に付ける。
罰として、僕の左目は神様に奪われた。
左目が見えなくなったわけではなく、無くなってしまった。左目のあったところは、まるでブラックホールのような漆黒の穴があるだけ。
見た目のインパクトが強すぎるということで、社長から眼帯を付けて隠すように言われ、それに従っているというわけだ。
中身を見られちゃいけないなら、いっそ神さまの奇跡とやらで、聖典自体を開くことができないようにしてくれ。そう思ってしまう。
あの事件以降、聖典をめぐる状況は膠着状態に陥った。
その中心地である有隣堂伊勢佐木町本店は、聖典が降臨してから十日後に営業を再開した。
神の力で守られたビルと白紙の聖典。ここで殺されれば塵になって消えてしまう。
この事実が聖典の奪取をもくろんでいた奴らにブレーキをかけた。
そして、下手なスラムよりも安全であるのなら、営業を再開するという決断を社長が下した。社員もアルバイトもその決定に意外なほど前向きだった。
営業を再開すると連日凄まじい数のお客さんで賑わい、本も文具も雑貨も食品も、とにかく何でも飛ぶように売れた。
安全のため、聖典は六階のイベントスペースに移された。僕の仮設住居もそこにある。
「クリスマスフェア、どうすればいいと思いますか?」
文具コーナーの前を通ると、僕の姿を見かけた岡崎さんが話しかけてきた。
台車には業者から納品された文具類と、メーカーから送られてきた什器が積まれていた。
閉店後、店内を散策するのが日課になっていた。というか、それぐらいしかすることがない。
「クリスマスの前にエリザベス杯です。これに勝たなけりゃあ、クリスマスは来ないです。そして僕ら競馬ファンにとって、クリスマスとは即ち有馬記念のことですよ」
「ブッコローさんに聞いた私が間違いでした」
「ないなに、岡崎さん、へそ曲げないでよ」
「聖典が降臨してからの、初のクリスマスですよ。きっと凄いたくさんのお客さんが来るんです。ここで有隣堂を全世界にアピールしないといけないんです」
岡崎さんがこんなに有隣堂のことを考えているだなんて、正直ちょっと以外だった。
段ボールからはみ出している、最新のゲルインクボールペンを手に取りながら言った。
「しかし、まったくいつまで続くんですかね、これ」
「もうすぐ一年ですか。あっという間ですね。こんな毎日に慣れてしまっている自分に驚きます。人間、なんでも慣れるもんなんですね」
「ほんとに。順応している自分が嫌になりますよ、正直なはなし」
「最近は襲撃がなくて助かってます。もうみなさん諦めたんですかね」
「あくまでも噂でしかないんですけど、なんか、色んなところで議論中で、結論が出てから動こうってことらしいですよ」
「結論って、なんですか?」
「なぜ有隣堂伊勢佐木町本店に聖典が降臨したのか。なぜブッコローが選ばれたのか。ブッコローは『神の使者』なのか。『R・B・ブッコロー』という名が「真の知」を意味するから『聖典の守護者』に選ばれたという論が今は一番優勢だそうです。なんじゃそりゃって感じですよ」
「そんなの……結論を出さなければいけない理由がわからないですね。あっ、商品を勝手に触らないで下さい」
くちばしで咥えようとしていたボールペンを段ボールに戻した。
岡崎さんは新しい什器を売り場に設置しようと苦戦していた。隣で突っ立って話しているだけでは薄情な気がして、什器の片側を持って、手伝うことにする。
あれ、ザキさん、もしかしてこれを期待して僕に声をかけた?
「カルケドン公会議のごとく、ヴァチカンでは侃々諤々の議論をしているみたいですよ」
「カルケドン……パスタですか?」
「イエス・キリストを神か人かって、偉い人たちが話あって決めた会議です。そこで『神であり人である』ことが決まり、それ以外の考えは『異端』として追放されたんです」
「詳しいんですね、ブッコローさん」
「そりゃあ僕だって「聖典の守護者」に任命された身ですからね。勉強しましたよ」
「ブッコローさんは、ブッコローさんですよ」
「まったく興味がない話ですし、偉い人たちが勝手に僕のことを決めるなって思いますね。僕は今も昔も、ミミズクのYoutiberです」
「まあでも、ガブリエルさんから任命された使命ですから。それは全うしないと」
「ええ? そんなん拒否できるんなら今すぐにでも拒否しますよ」
「でも、神さまから授かった使命なんですから、なにかご褒美があるかもしれませんよ」
「それですよ、岡崎さん!」
思わずちょっと大きな声を出してしまった。
驚いた岡崎さんが、持っていたテープを落としてしまう。地面を転がるテープを拾い上げ、岡崎さんに渡した。
「もう、なんですか。急に大きな声を出して」
「いや、ちょっと聞いて下さいよ、岡崎さん。この前きた神父さんが、『エミリアは神に使徒として任命された。そしてその生涯は苦難の連続だった。どれだけの試練を乗り越えても報われることはなかった。神の使徒になるというのはそういうことです。ただし、ブッコロー氏は神の国にもっとも近い場所にいるでしょう』って説教してきて。ほんとふざけんじゃないって感じですよ。岡崎さん、僕はね、永遠の命なんてこれっぽっちも欲しいと思っちゃいないんですよ」
「……私は欲しいかな」
そう言った岡崎さんはなぜか照れくさそうに身をよじった。
「永遠に生きて何するんです?」
「毎日楽しく生きる」
「……ザキさんはいいですね。前向きで」
「私、バカにされてる?」
「してませんよ。褒めてるんです」
新しい什器はいいぐあいに設置することができた。
ご満悦そうな顔をした岡崎さんが、次はポップをつける位置を思案している。
「そういえばブッコローさん、私不思議に思ってるんですけ、なんで有隣堂本店は聖域に指定されたのに商売はOKなんですかね。金儲けは悪であるって、神さまなら言いそうじゃないですか?」
「いやいや、神さまが今の資本主義を作ったんだから、金儲けOKですよ。むしろ、ジャンジャンしろって感じじゃないですか? これが仏陀だったら、金儲けは悪であり、お布施だけで生活しろ。店の商品は全て喜捨しろとかなんとか言ってくるんでしょうね」
「あー、そうかもしれませんね」
「金儲けが悪ではなく、富の独占が悪なんですよ。だから余剰な利益は寄付するべきなんです。欧米の金持ちって寄付が好きでしょ? 有隣堂もちょっとした聖典バブルなんですから、僕にボーナスを支給するのが、神の意思だと思うんですけどねー」
「まずは社員に還元です。ブッコローさんはその余りで」
「何ですか、岡崎さん。僕に厳しくないですか?」
「そんなことはないです。ちょっとそこの段ボール取って下さい」
岡崎さんが指さした段ボールを渡す。段ボールの中にはノートが入っていた。
岡崎さんは什器に商品陳列を始める。
商品陳列までは手伝う気になれず、僕は六階に戻ることにした。
あいにくと僕は無限の愛「アガペー」なんてもんを持ち合わせてはいない。
僕にとっては何よりも大切なことは、今はエリザベル杯なのだった。
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