第30話 鳥は太陽に焦がれた
“わたしは、わたしの罪を償う”
確固たる意志で、どんな罰であれ受け入れる覚悟だった。
たとえその先に凄惨な最期が訪れようとも――。
両手を枷で繋がれ、素足で降ろされた場所は深い森の中だった。
馬車は去り、当然護衛などもいない。
聞き慣れない鳥の鳴き声に肩が跳ね、見上げ見渡すもただ不安が増すばかり。
東西の向きを知ることもままならず、しばらく寒さに震えながら立ち尽くした。
やがて一人、理解したように首を振る。
方角がわかったらなんだというのだ。
仮に街の位置が判明したからといって、追放された身で帰還は叶わない。
何より、それでは罰にならない。
カナリーは木漏れ日の落ちる森を歩き始める。
木の枝を踏むたびに顔をしかめる痛みが走り、藪は足の皮膚を切りつける。
「っ……」
歯を噛みしめて。
足裏にぬるりと出血の感覚があっても、カナリーが歩みを止めることは無かった。
“罰を受けなければならない”
脳裏に浮かぶその言葉だけを行動原理として、宛もなく森を彷徨う。
そもそもは死罪を覚悟していたはずなのだ。
この痛みや寒さ、その果てに命を失うことで罪を少しでも贖うことが出来るなら、それが自身の救いにもなるはずだとカナリーは信じている。
「……ごめんなさい……」
神への信仰を忘れた。
聖女の戒律を破り、男と肌を合わせた。
「ごめんなさい」
愛する家族を自分の計画のせいで死に追いやった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
かさねた罪の重さを鑑みれば、自死では足りない。
自ら命を断つなど赦されない。
犯した罪と同量の苦しみを受け、死ぬのはそれからの話だと内罰的な思考に支配されていた。
許しを請うように謝罪を続けながら、カナリーは虚ろに歩む。
凍傷により手指は赤く腫れ、鋭利な枝を何度も踏み抜いた足は血に塗れていく。
まだ。
まだ足りない。
道半ばで処刑された皆の恐怖や無念を思えば、この程度の苦痛では足を止められない。
歯を噛みしめ、悲痛に顔を歪めて、願う死へとカナリーは突き進んだ。
森は静かにカナリーを見下ろし、何か救いを差し伸べることは無い。
数時間が経過しても変化はなく、ただ風に揺れる木々がざわめくように音を立てるだけだ。
やがて手足の痛みは麻痺し、空腹も忘れ、時間の感覚も薄れていく。
息遣いもか細くカナリーは、罪に押し潰されそうになりつつも、未だ身体を引きずっていた。
永遠を思わせる、終わりなき責め苦。
朦朧とする意識の中、ビダの村での一幕が自然と思い起こされる。
どうしてあのとき、自分はヨタに怒りを向けたのか、と。
“家族を捨てた”と言われて激昂した。
今考えてみると、きっと図星だったのだと。
皆のために計画を立てたなんて、よく言えたものだ。
自らは聖女などという守られた立場に甘んじて、王宮でぬくぬくと過ごして。
家族を王宮に招き入れた?
違う。
単に皆の努力が認められ、王宮から重用されてきただけだ。
皆の力だ。自分は何もしていない。
その証拠に、誰も救えなかった。
自分が殺したも同然だった。
耳障りの良い言葉で皆を騙し、欺き、殺したのだ。
ヨタの言い分は正しい。
ビダの村で貧しくも慎ましく、皆で暮らす道をなぜ選択しなかったのか。
「……ぁ……ぐ………うぅう……」
強い後悔の念が、絶え間なく心身を蝕む。
追い込まれた挙げ句、いたずらに戦場へ身を投じたレグルスと、奇しくも同じ精神状態にまで堕ちていた。
すでに壊れる寸前だったのだ。
――ふと、カナリーの足が止まる。
どこを見渡しても周囲は大木しか映らず、カナリー以外に人の姿は無い。
だが、息遣いを感じた。
気配はあきらかに複数存在し、風のそれとは異なる藪の揺れ方に、取り囲まれているのだとカナリーは理解する。
人では無いのかもしれない。
魔物や獣が舌舐めずりする様を想像して、悪寒のような震えで足がすくむ。
それでも構わないはずだ。
苦痛から解放されるのなら、ようやく“死”という神の赦しを得たのだろう。
頭を切り替えはしたものの、枷で繋がれた手ではうまく祈りも捧げられない。
ならばせめて微笑もうと努めても、頬が痙攣して歯がカチカチと噛み鳴らされた。
「っ……はっ……ひゅっ……はっ……」
過呼吸に陥ったのは、生きるために必要な酸素を本能が求めたからだ。
そう気づいた時、カナリーは駆け出していた。
大きく口を開け、心臓をなんとか動かして。
何度も足がもつれて転びそうになり、枝葉に身を切り裂かれながら森を走る。
しばらくすると木々が途切れ、視界が開けた。
身体中のあちこちから出血していたが、破裂しそうな胸を押さえ、カナリーは岩肌の大地と遠景の山を見つめる。
「……はっ……はっ……アパリュ……丘陵」
自分がどこに置かれたのか知ることが出来た。
国境線である亀裂のような深い谷は、ビダの村まで続いている。
幼い頃から見てきた景観を、カナリーが見間違うはずがない。
この下には泥炭地が広がり、さらに下ると大きな川が流れているのだ。
居場所の判明と同時に気づき、ハッと振り返る。
アパリュ丘陵は獣人との戦闘状態にあるはずだ。
となれば必然、カナリーを追っていたのは魔物などではなく――。
逃げ切れない、とカナリーは悟った。
それ以前になぜ逃げ出したのか。
この期に及んで“生”にすがりつく己に絶望し、頭が真っ白になる。
神への祈りも、聖女の誇りも無い。
もう関係ない。
「どうして……わたしは……ッ……!」
ただ悲しかった。
死ぬしかない状況が。あまりに選択の少なかった自身の境遇が。
覚悟を決めてなお、死を受け入れるのはこんなにも苦しく、辛い。
これまで揺るぎなく、真っ直ぐに枝葉を伸ばし皆を照らしてきた“太陽の少女”は、はじめて膝を地に落とした。
俯いた顔の先には、雪解けの小さな水溜まり。
熱いものが頬を伝い、落ちた雫が波紋を生んで、カナリーの表情を醜悪に歪める。
「……死に、たくない」
手入れを欠かしたことのない金の髪が、泥水に浸かることも厭わず、水面に映る自身へと本心を呟いた。
家族を死に追いやっておきながら、未だ醜く生に執着する。しがみつく。
これが本当の自分なのだと、カナリーは水面の奥底を見つめる。
誰にも見せたくは無い本来の姿。
けれど、誰にも知られることのないまま消えるのは嫌だった。
“本当の自分”が生きた証を残せないことは、何よりも怖かった。
かつてレグルスは“聖女の仮面”を外すようにとカナリーへ迫った。
その言葉にどれほどカナリーが救われたことか。
ここまでの醜さは曝け出さなかったにしても、家族を置いて他の誰よりカナリーを知る人物となったことは確かだ。
だから願う。
レグルスにどんな目的があったのだとしても構わない。
“たとえわたしが死んでもあなただけは――”
「――どうか、生きて」
聖女カナリーではなく、ただのカナリーを知る唯一の男として、苦しみ抜いてでも生きて欲しい。
傲慢な願いを口にして、それでも現実を変えられないことはわかっている。
ぼろぼろに破れたローブを引きずり、カナリーは立ち上がる。
至るところが剥き出しになった肌には、見る者を萎縮させる紋様が描かれている。
「……ふふ」
初めてこの肌を目の当たりにしたレグルスが、彼にしてはめずらしく狼狽していたことを思い出し、カナリーは少し可笑しくなった。
カナリーが動きを見せると同時、周囲の森から一斉に黒い影が飛び出す。
数十を超える獣人を見渡しカナリーは、恐怖よりも先に、どうして今まで襲ってこなかったのかという疑問が浮かぶ。
カナリーがその理由を知ることは無いが、獣人は“破軍”を相手取っているつもりで警戒していたのだ。
いずれにしても、最期の時だ。
震えを抑えるため腕の紋様を撫でると、遠征前夜に交わしたマヒワとのやりとりが自然と思い起こされる。
接触を避けていたカナリーを強引に説き伏せると、マヒワは私室に押し入るなり彼女を裸に剥いたのだ。
カナリーの肌の隅々にまで紋様を描きながら、マヒワは自分が死ぬかもしれないと静かに語った。
どういうことかと聞き返すもマヒワは応じず、カナリーへ続ける。
“いつまでもいらんお節介なんだよ。おまえはいい加減、自分のためだけの未来を見据えな――”
カナリーにとって衝撃的な言葉だった。
どうしてそんなことを言うのかと、悲しくなった。
家族のために行動することは、自身の幸福にも繋がっているのだから、と。
でも、本心と向き合った今ならわかる。
一心同体だと信じて疑わなかった皆がいなくなっても、カナリーは。
「わたしは……」
大勢の怒号が大気を揺らし、地鳴りを響かせながら獣人達は一斉にカナリーへと突貫する。
カナリーは顎を高く上げ、喉を開いて、思いの丈を振り絞る。
「――
嗚咽混じりの叫びが、意味の異なる言語へと変換されて空へ解き放たれた。
「
カナリーの肌に描かれた紋様が、円を描くように剥がれ、高空へと昇り術式模様を形成していく。
全身の力が、魂ごと引き抜かれる感覚に襲われながらも、カナリーは必死に自己を主張し続けた。
「
陽光を遮断するほど――アパリュ丘陵を覆い隠すほどの巨大な術式は、戦場にいたすべての者の足を止め、視線を一手上空に集めていた。
見上げ、絶望する者の中にレグルスがいたことを、カナリーは知る由もない。
知っていたとて、もう止められはしないのだ。
「
かくして、超範囲を誇る破軍の魔術が炸裂する。
隙間なく降り注ぐ水弾により、カナリーの視界は一瞬で水煙に包まれた。
ほとんど意識を失っていたカナリーは、大地をも抉る魔術の衝撃で紙切れのように吹き飛ばされ、泥炭地まで転げ落ちていった。
どれほどの時間が経過したのか。
戦場とは思えない静けさの中、倒れ伏せるカナリーのまぶたに微かな陽光が差した。
とても動くことは出来ないまでも、わずかに意識を取り戻すカナリー。
口内にじゃりじゃりと泥の苦みを感じたが、吐き出すことすらままならない。
凶悪な魔術は全部を消し去ってしまった。
人々の想いも、命も全部。
カナリーを取り巻く環境も同じだった。
九十一名もの家族が処刑され、おそらくマヒワもすでに生きてはいないのだろう。
これで、九十二名。
ツティスの読み通りの人数が、思惑通りに闇へと葬られた。
野望も、夢も。カナリーが思い描いた未来は完全に閉ざされた。
乾いた泥が顔中にこびりつき、塞がれた目は開けられなかったが、カナリーは唇を薄く開く。
「……り、じゃ……な……ぃ」
“終わりじゃない”
「……だ……ぉゎ……なぃ……」
“まだ終わりじゃない”
家族が一人でも生きているのなら、想いを繋げることが出来る。
カナリーが孤児院から呼び寄せた家族は、
最後の一人へと願いを託し、カナリーの細い意識は再びぷっつり途切れた。
◇◇◇
誰もいなくなった戦場で、人影が一つふらふらと動いている。
泥にまみれてピクリとも動かない聖女を覗き込んだ人影は、彼女の脈を測るために首もとへ触れると、ゆっくり膝から崩れ落ちた。
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