第28話 どうかこの夜だけは

 二日後の早朝、どうやらアパリュ丘陵のふもとに到着した。

 食料や医療品などの積み荷を手伝って下ろし、自らも降り立つ。

 雪解けの訪れた丘は、それでも寒さは絶えず身を震わせ、肺に刺す痛みを走らせた。


 建ち並ぶ天幕を覗き込むと、多くの怪我人が横たわっている。

 包帯や薬瓶を抱え、天幕から天幕へと走り回る兵士。

 火を囲み、黙々と食事や武器の手入れをする傭兵。

 騎士らしき面々はそれぞれ受け持った部隊に檄を飛ばし、斜面を駆け上っていく。


 見渡した感じでは傷を負っていない者の方がめずらしいくらいで、怪我の大小に差はあれど皆一様に表情を曇らせていた。


 負け戦……きっとそうなのかもしれない。

 ここに来て初めて戦況というものを理解したが、俺にとっては都合がいいことだ。


 鼻に抜ける空気に焦げ臭さを覚え、足を止めて眼前の小高い丘を見上げる。

 遺体らしき人影が、路傍の石のようにたくさん転がっていた。

 斜面の先には森林が広がっていて、黒煙がいくつも立ち昇っている。


 森へと突入していく大勢の味方は確認出来るが、獣人の姿は見えなかった。


 ともあれ、俺もあそこまで行けばいいのだ。

 地面にはいくらでも武器が転がっていたので、刃先が血で濡れた鉄剣を拾い上げる。


「あんた、一人か? 隊からはぐれたのか? まあいい手伝ってくれ! 前衛隊が森に分断されて取り残されてるらしい、すぐに救出に行くぞ!」


 声をかけてきたのは八人ほどで編成された小隊だった。

 統一感の無い装備や、隊を率いる騎士のような指示役が見当たらない点から、どうも冒険者同士が即席で組んでいるらしい。


 目的の場所が同じならどっちでもいい。

 頷きを返して、彼らの後を追いかける。

 ついていくのがやっとだったが、険しい森を前に二の足を踏んでいるようだ。


「どいて、わたしがやる」


 とんがり帽子を被った女が前に出ると、生い茂る木々へ向かって、杖を持つ方とは逆の手をかざす。

 空間にぼんやり赤橙に光る円形の模様が浮かぶ。

 複雑に絡み合った文字や数字で構成されたその模様は、魔術を扱う上で欠かせない術式というものだ。


「“竜の呼気”!」


 女が叫べば、術式から渦巻く炎が飛び出し、森を舐めるように突き進む。

 真っ赤に燃えた大木の幹や鋭い枝を、すかさず他の冒険者が自慢の得物で薙ぎ倒していく。

 道無き森に無理矢理と路がこじ開けられる様を、俺は後方で眺めていた。


 攻魔術――ずいぶんと久しぶりに目にした。

 平然としている他の面々から察するに、冒険者の中でもすこぶる優秀な部類なんだろう。


「こっから先は視界が悪い。気をつけろよ、奴らはどこに潜んでるかわからないからな」


 ところどころに火種が残り、延焼した森に足を踏み入れる。

 地面からは草木の焦げた臭いが立ち昇り、さっき見た黒煙の理由に答えを得る。


 しかし、獣人は森に隠れているのか?

 そういえばビダの村で襲われたときも、奴らは闇討ちを仕掛けてきたんだったな。


「……もっと大規模に、真正面からやり合っているものだと思っていたが。戦闘は局所的に行われているのか?」


 何気なくたずねた俺を、大剣を背負った男が振り返る。


「見ただろう、丘に晒されたままのおびただしい死体の数を。すでに正面から衝突した。こちらが体制を整える前に獣人は退き、奴らを追って森へ突入した隊が孤立したんだ」


 男と同じように後ろを向いて、木々の隙間から、遠く転がる豆粒の如き死体へ焦点を合わせた。


 そういえば死体は味方のものばかりで、獣人が死んでいるところを確認していない気がする。

 だがそれを口に出すのは躊躇う。

 圧倒的な戦力差があるのか知らないが、わざわざ負け戦なのだと認識させても仕方ない。


 それに冒険者連中は俺なんかよりよほど修羅場を潜っている。

 素人に意見されなくとも、とっくに理解してるに違いなかった。


「……ところであんた、左腕。怪我してるのか?」


 男に指摘され、左手を見下ろす。

“レグルス”の癖。

 たった一ヶ月でも、いつの間にか体に馴染んでいたんだな。


「いや、怪我なんかしていない。行こう」


 軽く左肩を回してみせ、前進を促すように顔を森の奥地へと向けた。




「はあ、はあ、はあ」


 横たわった大木のウロや、しなる枝が罠のように足へ引っかかり、思うように進めない。

 足場や視界が悪過ぎる場所は都度、魔術で切り開かれはするものの、俺一人だけあきらかに遅れが目立つ。


 驚いたのは、連中の目的意識、意欲の高さだ。

 たとえ戦自体に勝ち目がなかろうとも、自分達が敗北することはこれっぽっちも考えていない。

 実力に裏付けされた自信や誇りが、迷いのない前進に繋がっている。


 生きるだの、救うだの。

 目的がかけ離れている俺とは、当然だが何もかもが違っていた。


 一向に追いつけない背中――それでも。

 それでも幸いなことに、俺の胸にも何か。彼らとは異なる色をしていても、何か焼かれるような感情が芽生えている。

 この熱があるからこそ、恐怖に足が竦むことなく進むことが出来る。


 だから、前へ。


「――っ!?」


 大木に手をかけ、かき分けるように身を乗り出した直後、足下の地面が消失した。

 伸び切った草のせいで、すぐ目の前が崖の斜面になっているだなんて気づきもしなかったのだ。


 必死に頭だけは庇い、急勾配を真っ逆さまに落ちていく。

 上下もわからないほど転がったのち、最後は背中から崖下に叩きつけられた。


「がはッ! かはっ――ぐ……うぅ……っ」


 肺の空気がすべて吐き出され、しばらく呼吸も出来ずに悶絶する。

 けれど、まだ息がある奇跡に驚いた。


 瞳の焦点がようやく定まり、抜けるような青空が視界に広がる。

 清々しい青さに一瞬現実を忘れた。

 カナリーもどこかで、同じ空を見上げてやしないかと――。


 ありもしない妄想に浸った。

 頬が、笑むように引きつる。


 カナリーは死んだ。

 あり得ないんだ。

 ならば、俺は……。


 ようやく意識が戦場へと引き戻されたのは、遠くに怒号が聞こえてきたせいだ。

 体を起こすと、支えにしていた手が沈む。

 地面はびっしりと亀裂が走った泥炭で、そのおかげで落下の衝撃が和らいだのだとわかった。


 視界は開けている。

 晴天と太陽の下、ひび割れた大地の上で、激しい戦闘がそこかしこで行われている。


 ここが戦場の最前線。

 人と獣の境界。

 そして、あれが獣人か。


 一つの俊敏な影を、目で必死に追う。

 思っていたより小柄に見えるのは、姿勢が低くほぼ四つ足で駆け回っているからか。

 顔は黒い体毛に覆われてよく見えなかったが、獣と人の中間のような、見慣れない醜悪さに眉をひそめる。


 兵士が力強く剣を叩きつけても怯まず、牙を剥き出しに飛びかかり、喉笛を食い千切って、遠くへ蹴り飛ばす。

 倒れ伏せた兵士は断末魔の代わりに口をぱくぱくと、白い息のみを弱々しく吐き出した。

 まるで身から抜ける魂のように。


 荒涼とした泥炭地を見渡すと、似た状況はいくらでも見つかった。

 気勢を吐き、死に物狂いで剣を振りかざすのは人間ばかりで、たとえ多対一の場面でも獣人の身体能力に圧倒されているようだ。

 なるほど、そこらの人間じゃ歯が立ちそうもない。


 ゆっくりと立ち上がれば、太陽の暖かさをより近く感じた。

 こういう日も案外、悪くないのかもしれない。


 死ぬには。


 兵士を一人打ち倒した獣人が、ちょうど次の獲物を探しているようだったので、標的をそいつに決めて前進する。


 おまえでいい。誰でもいい。

 確実に俺を終わらせてくれるなら、誰でも――。


 鼓膜が風切り音を捉えた刹那、歩みを阻むように眼前を何かが横切った。

 鼻の頭に触れた瞬間ビリッと痛みが走り、指がどろどろ濡れていく感触がある。


 射抜かれたと確信して、矢が飛んできた方向へ顔を向ける。


「どうして……なぜ、お前がここにいる」


 男が呆然と呟いた言葉は、わずかに白く漂ってすぐ消えた。


「……ジェイ」

「答えろレグルスッ!!」


 目を見開き、歯を噛みしめて。

 すでに次の矢をつがえているジェイは、真っ直ぐ俺へと照準を合わせ弦を引き絞った。


 ふと、ジェイの眉間に深いしわが刻まれる。


「国家反逆だと……? ふざけるな。なぜあいつなんだ。なぜピカが……っ! ――お前だろ? レグルス。お前が巻き込んだんだろう。お前さえいなければ、あいつは――ッ」


 ピカ……?

 おそらく人名なのだろうが、名に心当たりは無かった。


 だが、再び最前線へと送られる以上の不幸に見舞われたと言うのなら、ジェイの言葉は正しい。

 俺が誑かしたんだ。

 俺が声さえかけなければ、ジェイの運命は今と違ったものになっていた。


 力が入り過ぎているのか、弓を引き絞ったままジェイは全身を震わせている。

 俺との距離はわずか五、六メートル程度だ。

 普段のあんたなら造作もない距離だろうが、そんなに震えてちゃ不安だよ。


 真っ直ぐ目を見て、語りかける。


「外すなよ」

「……っ。黙れ。今すぐ殺してやる」


 怒りを、ようやく殺意が上回ったらしい。

 猛禽の黒い瞳に見据えられ、妙に納得の心境へと落ち着いた。

 たしかに、この命をくれてやるに相応しいのはジェイなのだと。


 矢がジェイの手を離れると同時、後方から風が吹き抜ける。

 銀糸のような髪がぶわりと視界を遮り、直後には二つに折れた矢が泥地へ突き刺さっていた。


「こんなところで何をしてるレグルス。お前の居場所はここには無い」

「セ、リン……?」


 剣を腰の鞘に納め、セリンはジェイに向かって鋭く踏み込んだ。


「!? 違うっ!」


 思わず手を伸ばすも、セリンの背には届かず一気に遠ざかる。


「どけセリンッ! 邪魔をするなあああ!!」

「血迷ったかジェイ!」


 違う。


 セリンの踏み込みと抜剣の速度に対応出来ないと悟ったジェイが、弓を捨て懐刀を構える。

 一陣の風と化したセリンは、だがその刃すらも叩き斬って――。

 銀閃を振るいながら、ジェイの脇を駆け抜けた。


 違うんだ……。


 呆然と立ち尽くすジェイの首から、鮮血が噴き出す。

 ジェイは溢れ出る血を押さえようともせず、空を仰いで両手をだらりと垂れ落とした。


「…………ピカ……すまない、ベリド……」


 死ぬべきなのは、あんたじゃない。


 崩折れ、事切れたジェイをしばらく複雑な表情で見下ろしていたセリンは、やがて前を向く。

 いつの間に集ったのか、数十もの影が喉を鳴らし、間近に迫っていた。


「……お前を少し、羨ましく思うよ。私は、ついぞカナリー様のことを理解出来なかったのだな」


 自嘲するように呟き、間合いに入った獣人を斬り伏せるセリン。

 見えない剣筋に、どれほどの研鑽を積んでこの域へ至ったのかと。

 そんな人物が俺に羨ましいなど、やはり間違っていると首を振る。


「セリン様!」

「お供します!」


 多勢に無勢を見かねた兵士が二人駆けつけ、セリンに背を預けて剣を構えた。

 獣人どももセリンを警戒してる様子で、じりじりと距離を測りつつ唸り声をあげる。


 けれど、いくらセリンが強かろうとも、二人ぽっちの兵士が加わろうとも劣勢は覆らない。

 ついに均衡は破られ、獣人が一斉にセリンへと飛びかかる。


「早く行け、レグルス。カナリー様を頼む」


 剣先が一人の獣人を刺しつらぬいた直後、黒い影が雪崩の如く、周囲の兵士ごとセリンを押し潰した。

 獣人どもは獲物を貪るように蠢き、黒い塊の隙間から盛大に血飛沫が跳ね上がる。


「やめろ……」


 頼まれて、どうしろと言うんだ。

 どこの誰よりも、俺にそんな資格は無いんだ。

 俺は寝取り屋で、依頼されてカナリーに近づいただけなんだ。


 あんた達じゃない。

 死ぬべきは、俺や、ツティスのような――。


 生温い液体をぴちゃぴちゃと、顔に、体に浴び、鈍く凍らせていた感情が溶けていく。

 どん! と目前に何かが降ってきて、足元へ視線を落とす。

 人間の腕だ。

 細い、どう見ても男の腕ではなかった。


 地獄同然の光景を前に、止めどない恐怖が体の内から流れ出る。

 小さく悲鳴のような空気が喉から漏れ出ると、腰が抜けて尻もちをついた。

 自然と顎が持ち上がり、空を仰ぐ形になる。


「あ…………。術、式……?」


 さっきまで晴れ渡っていた空には、巨大な術式がアパリュの丘を跨いで形成されていた。

 群攻魔術――いや、そんなもんじゃない。

 あれが魔術だなんて到底信じられない規模だったが、目を凝らせば凝らすほど、たしかに幾何学模様に文字と数字が組み合わさった術式なのだ。


 もう理解の範疇を超えていた。

 神を前にした咎人の如く俺は、おそらく獣人どもも動きを止め、固唾を呑んで空に浮かぶ術式を見上げていた。


 間もなく、その時がくる。

 ヒュッ……――と空気を切り裂いて落下してきた何かが、獣人の脳天に直撃した。

 たった一粒のそれに穿たれた獣人は、乾いた音と共に身が弾けて四散する。


 雨。豪雨。流星。神の裁き。表現は何でもいい。

 次から次に降り落ちてくる魔術の雨は、一滴一滴が砲弾の威力でもって逃げ惑う獣人を破壊する。


 生物だけじゃない。

 地上に降り注いだ水弾は泥地を深々と抉り、まるで意思でも持つかのように軌道を変え、斜めにも水平にも飛んであらゆる方向から地盤へ撃ち込まれた。


 連続する爆発。発生した大量の水煙は視界を真っ白に塞ぐ。

 風雪の激しいビダの村でも、これほど白一色には染まらなかった。


 状況も見えない中、立て続けに轟音が響き、比喩ではなく地面が傾いた。

 泥が谷へと流れていくのがわかる。

 音と揺れからして、地形の一部が谷側に崩れたのかもしれない。


 水弾は敵味方の区別なくすべてを狙い撃ち、濁流はすべてを攫い、怒号も悲鳴もあらゆる感情も無慈悲に呑み込んでいく。


「は……は、は……」


 なんだ……これは。


 想定の外にある出来事に、ただ震えた。

 わざわざ“死”なんか意識していた自分が馬鹿らしい。

 ジェイの絶望も、セリンの願いも、こんな天災を前にしては思いを馳せることも出来なかった。


“どうか生きて――”と。


 泥水に塗れた俺の耳に、そんな都合の良い幻聴がでもたしかに聞こえた。

 たしかに、聞こえて俺は――。


「――……〜〜〜〜ッッ!!」


 弾けるように反転した。

 四つん這いで泥地を掻き、みっともなく不格好に、それこそ獣の姿勢で全力に駆ける。


 逃げた。

 怖くなって、今さらやっぱり命が惜しくなって。

 森を駆け抜ける際に皮膚が傷だらけになるのもいとわず、一刻も早くと。

 戦場から我先に逃げ出した。


 きっと涙を流しながら。悲鳴もあげていただろう。

 クソみたいな命なのに捨て切れない。

 何もかも中途半端で死にたくなる。


 そうだよ。俺は死にたかったんだ。

 死にたい。


 なのに……死ねなかった。



◇◇◇



 数日前に訪れた集落にたどり着くと、俺は以前に世話になった男を訪ねた。


 よほどひどい顔でもしていたのだろうか。

 金目の物も持っておらず、理由も話さなかったのだが、男は何も聞かずにまたカージュの街まで俺を送ってくれた。




 カージュの街へ帰ってきた夜――。

 俺はひと気のない路地を抜け、朽ち果てた小屋までやってきた。

 外には崩れかけた牧舎があり、元は家畜でも飼っていたんだろう。


 中は光源も無かったが、二人の男が待っていた。

 どちらも全身をローブですっぽりと覆っていて、内一人が依頼者の男だ。


「……ずいぶん遅かったな。もう来ないかと思っていた」


 俺自身が長らくそうしていたからこその違和感か、男の、右腕を庇うような仕草が気になった。


 だがそんなことはどうでもいい。


「あんたと会話なんざする気は無い。金だ。とっとと金をよこせ」


 こいつがツティスの使いだということはわかっている。

 男は鼻を鳴らすと、革袋を放り投げた。


 拾った革袋を開き、中を確認する。

 白金貨はきっちり前金と同じ額が入っていた。

 これで用は無いとばかりに、さっさと外へ出る。


 久しぶりに晴れていたからか、夜空には星が瞬いていた。

 背を小屋の扉へ預け、本当はガタがきてまともに歩けなかった足を少しだけ休ませる。


 小屋の中から、微かに男二人の話し声が聞こえる。


『よろしかったのですか、あのまま行かせても?』

『一本の筋すら通せないクズが、クズに似合いの仕事をたった一つこなしたというだけの話だ。地べたを這い回るゴミ虫なぞ誰にも、なんの影響も与えはしない』


 聞こえてるんだよ、全部。

 もしかするとあえて聞かせてるのかもしれない。

 聞かれたところで何も困らない。


 それほど俺は、どうでもいい存在なのだ。

 そんなことわかってんだよ。


 知らず握りしめていた拳を開き、小屋から離れた。




 飲んだこともない高い酒を抱えて、宿へと戻る。

 ここへ戻るのもいつぶりだろうか、カウンターでは禿頭の店主が忙しそうに帳簿をつけていた。

 商隊は無事に帰還してたらしい。


「あっ!? ちょっとちょっとあんた! 何日も部屋に荷物置きっぱなしにして! とっくに宿泊期限は――」


 バン!

 と叩きつけるようにカウンターへ手を乗せれば、店主が「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。


「……悪いが延長してくれ。しばらく足りるだろ」


 カウンターテーブルの金貨をまじまじと数える店主を置いて、二階へ上がる。


 二階へ上がるとすぐ、店主の娘と鉢合わせた。

 酒や料理が乗ったトレーを抱え、こちらもせわしなく仕事に励んでいる。


「お、お客さん!? 今までどちらに行かれてたんですか? 心配したんですよ!」


 顔を見ればわかる。

 その場しのぎの偽りではなく、本心からの言葉だと。


 だから、心が揺れた。

 強がってもいられないほど憔悴しきって、こんな年端もいかない娘に縋りたくなった。


「よかったら……これから二人でどうだ? 一杯、付き合ってくれないか?」


 酒を掲げ、笑顔を見せたつもりだが、懇願するような声の震えは抑えきれなかった。


 ……頼むよ。

 どうか今日、この夜だけは。


「もう何言ってるんですか! お父さんも帰ってきて、書き入れ時なんですから。お客さんも、あんまり飲み過ぎたらダメですよ?」


 俺を一人にしないでくれ――。


 弾むように通り過ぎた娘の背中を見送り、部屋へと入る。


「……くく……ははは」


 当然の帰結だ。

 よもやこの期に及んで救われたいだなんて、その罪深さに対する罰は死ですらぬるい。


 クズはクズらしく振る舞うのが道理だろ。

 なぁ……レグルス。


 明かりも灯さず口にした酒は、泥の味がした。

 二口目には生臭い血の味がして、ふいに込み上がった嘔気にまかせて盛大に吐いた。


 食べ物は何も入れていないのに吐き散らかして、胃液と一緒に、記憶も弱さも全部抜け出てしまえばいいと笑う。


 笑い続ける俺をまるで遠ざけるかのように、星明かりの部屋は震えをもたらすほど冷めていった。

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