第16話 血のナイフ
何度か休息を挟んで、未だ馬車は疾駆している。
この広大な森を夜通し走るなど、正気の沙汰とは思えなかった。
頼りの月明かりも木々の葉に阻まれ、満足な光源をもたらしてはくれない。
御者の脇に設置されたカンテラの火が、幌に透けて赤く淡い光を放っているが、見ていると不安が増すばかりだ。
夜目が利き、森林を熟知しているジェイは先頭の車輌でルートの指示を出している。
森で夜を明かすよりは、駆け抜けた方が安全とのことだった。
しかし、それなら森へ入る前に野営すればいいんじゃないかと提案したものの、これはセリンによって却下された。
商隊の消息も掴めていない現状で、悠長に構えるわけにいかないと。
そうは言ってもこちらは聖女を連れている。
危険に晒していいのかと食い下がってみるも、その守るべき対象であるカナリー自らが先を急いで欲しいと懇願したのだ。
ようするに俺は反対し続けたわけだが、最終的に打てる手は無くなった。
今は諦めの境地で、車内に吊り下がる火の消えたオイルランプがキィキィ揺れる様を見上げている。
「……くっく。残念だったね、レグルス」
「黙ってろよ」
笑いをこらえるように囁くヨタへ、視線を動かさず小声で返した。
明かりを最小限に抑えているせいで車内は暗く、対面のカナリーやセリンの姿も影しか見えない。
こうして闇の中に身を置いていると、死がぬるりと身近に迫ってくるようで……。
滅入る気持ちを紛らわすため、努めて声を出す。
「これから交渉に向かう獣人とは、どういった種族なんですか?」
噂程度に聞くだけで、実際に獣人族とやらを見たことはない。
想像だけで印象を語るならば、粗暴で好戦的。
たとえこの森を無事に抜けても、獣人がそれ以上の脅威であるならどのみち俺の命は無いのかもしれない。
「私も直接会ったことはないな。傭兵としてアパリュの丘で獣人と対峙したのだろう? 君の方が詳しそうなものだが」
「ああ……俺は、その。剣を合わせる前に、弓でやられたもので。恥ずかしながら」
馬鹿か、俺は。
弱気と一緒にボロまで出してどうする。
よくない流れだ、切り替えろ。
発言をどう思われたか気になるが、暗さもあってセリンの表情はまったく見えなかった。
「……そうか。ただいくつかの報告では、よく統率された集団戦が得意と聞いている。近接戦闘の遭遇自体が稀らしい。だから恥じることはない」
個々人の高い身体能力にまかせた、野蛮な戦闘スタイルを勝手にイメージしていた。
なんとなく“獣”という字面から、血肉を好みそうだと。
統制が取れているということは、理性的な種族である可能性も高いんじゃないか?
やや楽観が過ぎるかもしれないが、不安に引っ張られて醜態を晒し続けるより、よっぽどましだ。
「ずいぶん冷えてきたな。レグルス、手や足は常に動かしておけ。わかっているとは思うが、まともな者が動く時間帯ではない。何があろうと、絶対にヨタ様を守りきれ」
せっかく押し殺した怯えが、セリンの発言でまた奥底から湧き上がってくる。
何があろうと。
つまりは、命を捨てても。
依頼対象のカナリー相手ならまだしも、ヨタに己の命を懸ける価値があるのだろうか。
横顔を盗み見るだけのつもりが、こっちを見ていたらしいヨタと目が合ってしまう。
「……だってさ? 期待してるよ」
どの口が言っている。
俺に何も期待していないと、そんな台詞を吐いといて悪びれもせずヨタは落ち着き払っていた。
こちらとしても、“俺を守ってやる”だのヨタの妄言は最初から信じちゃいないが。
ただ世間の目では、所詮一介の護衛に過ぎない人間と、かたや聖女様だ。
どちらに価値があるのかなんて一目瞭然だろう。
先を見据えるならばセリンの言う通り、命を張って守り抜くしかない。
車輪の転がる音がゴトゴトと耳に響く。
静けさは深夜の寒さを強烈に引き立て、白い息を両手に何度も吐きかける。
頼むから――。
このまま、何事も起きないでいてくれ。
たった一つの願いだったのに、やはり神などいないのだと思い知る。
馬のいななきが轟くと同時、急停止する馬車に振られて体が横倒しになる。
ヨタを押し倒す形になってしまい、腕の下から苦しげな呻きが聞こえるも、それどころではなかった。
「敵襲ーッ!! 右側面!!」
敵襲? 今のはジェイの声か?
跳ねるように立ち上がり、頭が真っ白の状態でふらふらと馬車の乗降口へ向かう。
「どこへ行くつもりだ! 護衛を忘れるな! カナリー様とヨタ様は座席を離れて中央へ!」
セリンに叱責され我に返った。
そうだ、ヨタを守らなければ。
体を張って、命を張って。
それが俺の――護衛の仕事。
おそらく下車する兵士達の、地鳴りの如き足音が響く。
続けて悪夢のような耳鳴りに襲われる。
それが矢の飛来音だと気づいた直後、まるで豪雨に打たれる衝撃が馬車を小刻みに揺らした。
「――――っ」
歯を食い縛って、悲鳴を堪えた。
震える足は、夜の暗闇が隠してくれていた。
幌の向こうで、松明の炎が踊る。
怒号が大きくなり、悲鳴が断末魔を知らせる。
現実感が希薄になり、どこか遠い世界に立っているような錯覚を覚えて、やけに荒い呼吸が自分のものだと気づくまで時間がかかった。
これが……戦争。
殺し合い。
こんなのを繰り返して正気を保てるなど、傭兵や騎士に俺なんかがなれるわけない。
「レグルス、剣を抜いてそこに立っていろ。姿を見せた者は迷わず貫け」
だがやらなければならない。
すべてはカナリーの寝取りへと帰結する。
のし上がるためなら、何でもやってやる。
渇ききった喉に唾を送り込み、えずきそうになりながら、腰の剣へ手を伸ばす。
剣を抜くだけでカチャカチャと手間取り、足だけでなく手も震えているのだと知る。
「はあっ、はあっ、はあっ」
ヨタがくれた剣の切っ先を、馬車の乗降口へ向けて構えた。
現れた者を突き刺す。
それだけだ。
簡単な仕事だ。
出てきたのが味方だったら?
知るか。
セリンがやれと言ったんだ。
誰であろうと刺し殺す。
もう考えることを止め、無心に努めた。
呼吸は落ち着いてきても、心音の騒がしさは一向に治まらなかった。
永遠にも思える時間をそうしていた。
いつの間に喧騒が消えていたかなんて、まったく覚えていない。
『――セリン様、周辺は制圧しました。兵や馬に被害はありません』
「わかった。降りるぞレグルス。お二人はそのまま中に居てください」
幌の外から聞こえたのはジェイの声だった。
セリンに肩を叩かれ、硬直していた体が動く。
呪縛から解かれたような気持ちで、剣を鞘に戻した。
表に降り立つと、汗でびっしょり濡れた体に風が沁みる。
ところどころに落ちた松明が、周辺を明るく照らして全容を伝えてくれる。
ざっと眺めただけで、十数名の死体が転がっていた。
粗雑な毛皮を着た男ばかりだったが、そのほとんどは馬車から距離の離れた所で、突き立った矢を墓標代わりに息絶えている。
接近する前に射殺されたのだろう。
そして大多数の敵を仕留めたであろう功労者。
ジェイは未だ弓を手にし、セリンへ何事か相談しつつ森を指し示す。
襲撃された場所の傍らは斜面になっていて、見上げると高い位置にある木々の隙間から、赤く煌々と光が漏れていた。
松明だ。
賊はまだ残っている。
様子を見ているのだろうが、この惨状を前にすればもう襲っては来ないはずだ。
冷静にそんな判断を下せるくらいには、俺もようやく落ち着きを取り戻せた。
「――レグルス、いいか?」
それなのに。
安堵しきっていた俺を手招いたジェイは、理解出来ない台詞を口にする。
「後顧の憂いは断っておきたい。お前は賊の後方へ回り込め」
「…………は?」
何を言っているのか本当に意味がわからず、素で首を傾げた。
「オレが指示するルートで登れ。獣道だが、気付かれにくい。まずこの先へ――」
「ま、待て。待ってくれジェイ。こっちから打って出る必要があるのか? 無いだろう。無駄な戦闘は避けるべきだ」
「敵の規模がわからないからな。対してこちらの人数は割れてしまった。奴らが根城に戻って、さらに大人数で襲われれば犠牲が出る。しかし今全滅させれば、こちらの情報は握られない」
「し、しかし……俺は、腕が」
続きを遮るように、ジェイが俺の肩へ手を置いて笑う。
「なに、戦えと言ってるわけじゃないんだ。わかるだろ?
こいつ――。
言葉を失って立ち尽くし、ジェイの漆黒の瞳を見つめた。
確信した。
こいつは……ジェイはやはり俺を疑っている。
いや、行動に疑念を持たれるのは仕方ないとしても、まさか俺を消そうとしている?
助けを求めて振り仰ぐが、セリンは俺達のやりとりを静観するのみだ。
この流れはまずい。
なんとかしなければ。
頬を引きつらせながら、必死に頭を働かせて言い逃れを探す。
「俺はっ、俺はヨタ様の――」
護衛――……も、すでに戦闘行為を終えた兵士が大勢いるのだ。
必要ない。
「大丈夫だよ、レグルス。……出来るよな?」
肩を掴む手に、ぎゅっと力を込めるジェイを睨み返した。
「……ああ。楽勝だ、任せてくれ」
吹っ切れた笑みまでこぼれた。
ふざけるなよ。
くそ。くそっ……!
せっかく拾った命を、何も成し遂げないままふいにしてたまるか。
◇◇◇
「はあ、はあ、はあ……」
どうしてこんなことになるんだ。
真っ暗な森を一人かきわけながら、いっそ逃げてしまおうかと考える。
その場合、寝取りの依頼は失敗に終わる。
報酬の半分をすでに受け取っている俺は、亡き者にされて然るべきだ。
では街からも逃げてしまえばいい。
それから先は……。
それから先は、死んだも同然の毎日が続くだけだ。
これまでと同じように。
希望も無く、届かない空を見上げて。
誰も知らないような片隅で、名もなき男が哀れな生涯をひっそりと終えるだけ。
――嫌だ。
嫌なんだ、あんな日々は。
何も無い自分が嫌で、この道を選んだんだ。
それすらも手放してしまったら、俺にはもう本当に何も残らない。
いいだろう、やってやるよ。
絶対に生き延びてやる。
意識して抑えていた、引きつった笑い声を久しぶりにあげて、ひたすら足を前に進める。
ジェイに教わったルートに誤りはなく、思惑通りに賊の後ろを取る形になった。
いっそのこととっくに撤退してくれていれば――そんな願いは儚く散った。
藪から覗き、目前にたむろする賊を六名数える。
それぞれが松明を手に、斜面を見下ろしながら会話しているようで、炎の照り返しがむさ苦しい強面をくっきり映し出す。
得物は
いかにも、追い剥ぎや死体漁りでかき集めた武装に思えた。
それで、ここからどうしろというんだ? 答えろよジェイ。
一人ずつ暗殺して回れとでも?
俺にそんな芸当が無理なのは、お前もわかってるはずだ。
ならば、やぶれかぶれに突撃して憤死することをやはり望んでいるのか?
違うよな。
よく考えろ、こんなときこそ冷静になれ。
緊張ではち切れんばかりに鳴動する心臓へ手をあて、深く細く、長い息を吐き出す。
今回の仕事は、ジェイにとっても初の実戦。
失敗が許されないのは奴も同じだろう。
今後も教導の職を続けるつもりなら、評価を気にするはず。
俺みたいな男でも、むざむざ使い捨てにはしないはずだ。
奴はこうも言っていた。
“戦えと言ってるわけじゃない”と。
要は後ろから脅かしてやればいいんだろ?
賊共に、不意を突かれたと思わせるのが俺の仕事なんだよな?
結果どうなるかは知らんが、あとはなんとかしてくれるんだろうな?
答えろよジェイ――。
俺は、信じてるぞくそったれッ!!
剣を抜き放ち、あらん限りの雄叫びをあげながら藪を飛び出した。
「伏兵――!? だから言ったんだおれぁ! 王宮の兵どもがあれっぽっちなわけねえって!」
「バカ野郎!! 射線に入るなッ!!」
たった一人きりだとは、夢にも思わなかったのだろう。
うろたえ、逃げ腰で巨木の陰から身を晒した賊が、ビクンと不自然に痙攣した。
「――か……ッ……」
背後から自身の胸を貫通した矢。
その穂先を見下ろし目を見開いた賊が、足をもつれさせて倒れ伏せる。
「ひぃ!?」
「て、撤退するぞ! 急げっ!」
「どっちに逃げんだよ!?」
ただ、圧倒されていた。
混乱を極めた賊が駆け出すたび、一人、また一人と確実に射殺されていく。
仲間が次々と倒れ、恐慌は伝染する。
顔を引きつらせた賊が、また脱兎の如く逃げ場を求めて走る。
死に絶えるまで、終わらないループ。
ジェイの奴、どんな腕をしてるんだ。
夜闇の中、松明を目印に矢を射っているのか?
可能なのかそんなことが。
いや、現に俺はこの目で見ている。
残る賊は、すでに一人となっていた。
「くそ……ッうおあああああ!!」
あろうことかそいつは、俺の方へ全力で向かってくる。
頭をかち割らんと、手斧を最上段に掲げて。
傍観者から当事者へ一気に立場を引き戻された俺は、もはやと腹を括って剣を構える。
手斧の間合いに入る、すんでの所。
流星のように飛来した矢が、賊の頭部にこめかみから突き刺さった。
派手に横倒しとなった賊は、頭を串刺しにされ絶命していた。
最後の一射――俺に当たってもおかしくなかった。
いかな弓の名手でも、さすがにこんな暗闇じゃ細かな調整までは利かないはず。
それでもジェイは躊躇いなく射ってきたのだ。
「あのやろう……」
近くに転がる松明を拾い、賊の全滅と、そして健在であることをアピールする。
さっさと下りて合流し、馬車で休もう。
最後に死屍累々となった現場を振り返り、一つ違えば俺もこうなっていたのだと背中を寒くさせる。
結局、カナリーの不殺の願いは味方の誰一人として叶えられなかった。
されど勝利の凱旋だ。
労いの言葉でもカナリーから貰えると、骨を折った甲斐も少しはあったといえる。
車列が視界に入り、ほっと胸を撫で下ろした。
甲高い悲鳴が聞こえたのは、次の瞬間。
なんだ?
これ以上、いったい何なんだ?
今の悲鳴は明らかに女だった。
自然、足が速まる。
「――カナリー!!」
無意識に駆けていた。
女なんてカナリーかヨタ、もしくはセリンの三人しかいない。
セリンが悲鳴を上げるとは考えにくい。
冗談じゃない。
依頼対象だぞ。
カナリーの身に何かあったらどうしてくれる。
周囲に群れる兵達を押しのけ、馬車に飛び乗った。
「入るな!」
セリンの怒号も、もう遅い。
車内はむせ返る鉄錆の臭いが溢れている。
立ちすくむジェイを腕で払い避けた。
ヨタが頭を抱えて座り込んでいる。
悲鳴はどうやらヨタが上げたものらしく、白かったローブは真っ赤に染まっている。
一点を見つめて青ざめるヨタ。
視線の先には、賊と思しき男の死体が転がる。
死体の背に残る刺傷には、今もぽたりぽたりと赤い雫がしたたり落ち、まるで失われた血液を持ち主へ返そうと足掻いているようにも思えた。
「レグルス……さん」
聖女は善の模範となるべき存在だ。
だからこそ王宮の兵は、正義を後ろ盾に前線で戦うことが出来る。
たとえ正当な理由があったとしても、聖女自らが他人を殺傷するなどきっと許されない。
目線を上げる。
刀身にたっぷりの血液が塗布された短刀は、賊の遺体に生々しい血を落とし続ける。
両手を返り血で濡らし、短刀を突き出した姿勢のまま硬直するカナリーは、俺ですら哀れみを覚えるほどに震えていた。
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