2022/12/13

「……同棲、憧れてたんだけどな」


 レンチン式の夕食を用意しながらポツリと呟く。家賃は折半して、家事も分担して、ボーナスが出たらちょっといいものを二人で食べに行って……。鼻で笑われてしまうような妄想も、昨日捨て忘れた燃えるごみの袋の中に入れてしまった方がいいんだろう。


 朝五時には起きて朝食の準備と昼食・夕食の仕込みして洗濯機を回して、昨日の洗い物と風呂掃除と洗濯ものを畳む。ヒナタを起こし朝食を取らせながら洗濯物を干して、掃除機を掛けてゴミをまとめる。冷蔵庫や戸棚に鍵がかかっているのを確認して、朝食を食べ終わったヒナタの皿を流しに下げて、テレビに繋げたPCでYouTubeのリストを再生。ヒナタが動画に釘付けになっている間に、玄関のカギを三つ掛けてからようやく出社。自分の朝食はデスクでコンビニおにぎりか菓子パン。昼休みに一旦家に帰ってヒナタの昼食を準備して食べさせれば、もう残り時間は十五分とない。洗濯物を取り込んで足早に会社へ戻る。定時になればそそくさと帰るようにして、スーパーへ買い物。帰ったらヒナタを風呂に入れて、パジャマからパジャマへ着替えさせる。夕食の準備、食べさせ、片付け、寝かしつけ……いつの間にか寝ていて、気が付いたら朝。その繰り返し。


 まるで子どもを保育園に預けられないシンママ会社員のような生活。十分と掛からない自宅と会社の距離だからこんな無理ができた。そう、最初の三か月は。

 ヒナタの症状は日を追うごとに益々悪くなっていった。最初の診断では若年性のアルツハイマー型認知症かと思われたが、あまりにも進行が早い。勿論、従来の認知症治療薬も一切効かない。

 週末はヒナタの病院探しと治療。治験まがいなこともやったが、効果は全く見受けられない。分からない病名、分からない治療、手探りでヒナタも自分もしんどくなり段々と病院から足が遠のいていった。


 目覚ましをスヌーズで三回セットしないと起きられなくなって、戸棚の鍵をかけ忘れてヒナタが皿を割ったことがあって、洗濯物を干そうと思ったら洗濯機のスイッチを入れ忘れて、食事にコンビニ食やレトルトものが増えて、昼休みに自宅のソファで寝こけてしまって社用携帯に鬼電が入ってきて、自分の飯を食べるのが辛くなってきて、休日にヒナタのご飯も用意せずに朝から夕方まで眠ってしまって……。

 先の見えない、ままごとにも満たない、恋人のヒナタと暮らしがこんなにも息苦しい。そろそろこの生活の破綻するのも分かっている。でも、その迫りくる破綻を待つのすら生き苦しい。


 レンジが温め終わりを知らせる。レトルトカレーをパックご飯の上にそのまま掛けた。ピンク色じゃない普通のカレー。

 気に入ってたYouTubeチャンネルも見なくなった。正確には見るのがしんどくなってやめた。


 ヒナタが家に帰れなくなったあの日、お気に入りのYouTubeチャンネルは飲食事業のバイト募集をしていた。しかも投稿後、すぐに埋まったんだとか。それから芥川賞受賞の有名作家が出て、名物バイヤーの常設文具売り場が置かれて、ライブ配信も始めるようになって、新店舗が出来て、そろそろ登録者数が20万人に近づいて……。

 余裕がない時っていうのは相手がどんなものであろうと、そいつの成功や活気や幸福が自分を攻撃してきている様に思える。好きなコンテンツを嫌いになりたくなかった。チャンネル登録はしたまま、いつも再生せずに動画のサムネをスクロールで流すだけ。

 時間を確認するためにスマホを開く。画面上部にYouTubeの通知が入っていた。ああ、今日配信やってんだ。へぇ、登録者耐久ってやつ?……はは、企画倒れしたら面白いのに。


 通知をタップしてスキップ式の広告が画面に出ているうちに、チャンネル登録を解除してアプリを閉じた。




「ヒナタ、ご飯できたよ」

 ヒナタの居る部屋の扉の前で声を掛ける。返事はない。

「……ヒナタ、ご飯冷めちゃうから」

 今日はカレーだよ、と付け加えて部屋の扉を開ける。ベッドの上の布団饅頭が窓からの微かな光に照らされている。名前を呼び、布団を揺する。返事はない。もう一度名前を呼ぶ。いらない、とだけ返事が返ってきた。


 日が経つにつれ、ヒナタはぼんやりする時間が多くなっていった。呼びかけても反応が鈍く、ずっと同じ動画をループ再生で見続けることも増えた。ベランダにすら出なくなって、部屋に籠りがちになった。些細なことにイライラして癇癪を起すようになり、暴力を振るうようになった。

 風呂に入れなくてもいいから、せめて一食は胃に入れて欲しい。でも、そんな気遣いすらもヒナタは拒否する。

 強引に布団を引っぺがすとヒナタは金切り声を上げた。突き飛ばされて、叩かれて、近くにあったものを投げられる。怒号なんだろうか。何を言っているのか分からない。引っ掻かれた。今度は布団を投げられた。殴られた。居間のテレビから芸人のツッコミの声がする。蹴られた。風呂が沸いたと音声がする。掴みかかられた。ヒナタのスマホの着信音が鳴る中、多分罵倒された。自分のスマホの通知が鳴った。


 煩い。


 乾いた音が部屋に響いた。自分の右手がジンジンする。叩かれた勢いで、尻餅を着いたヒナタの方然とした顔を見下ろしている。そして見る見るうちにその表情は変わり、泣き喚き出した。


「もおやだぁ!おうちかえりたい!」

「ここどこぉ」

「いたいぃ」

「おとおさんおかあさんどこぉ」

「たすけてぇ」

「おかあさぁん」


 ヒナタは忘れてしまった。

 何もかも忘れてしまった。

 忘れて幼児のようになってしまった。


 ここが何処なのかも、会社も、仕事も、最寄りの駅も、事故の事も、好きな酒も、好きなツマミも、鳥のぬいぐるみも、恋人も、恋人におつかいを頼んだことも、おつかいで薄墨のペンと香典返し用の掛け紙を頼んだことも、北海道に行く前日にそれらが足りないのに気づいたことも、北海道の地元で葬式が開かれたという事も、ヒナタの両親が死んだということも。


 もう自分の知っているヒナタは死んでしまったのだ。


 それなのに、今のヒナタの全てを目の当たりにしたはずなのに、自分の心は不思議なほど凪いでいる。


 ままごともどきの生活は7分41秒よりも早く終わった。

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