2022/07/05

 三月の事故の休職後に復職することなく、4月半ばにヒナタは会社を退職した。そして退職した次の日に出勤してきた、という置き土産を会社にして。


 そしてその話をヒナタからLINEで聞かされたのは5月を二週も過ぎた頃だった。「その日はちょっと調子が悪かった」なんてメッセージを送られてきて、とりあえずその時は「ちょっと何いってんの…」のスタンプで返した。

 しかも退職したことをヒナタの叔母さんには伝えていないようだった。言い出しづらいのか、それとも伝えようとして忘れてしまうのか、こっちには判断がつかない。

 仕事どうしてんの、と打ちかけて手が止まる。聞いたところで自分にできることはないと思ってしまう。現に一か月近く、この状況を知らされていなかったのだから、きっとなんとかしているんだろう。


 自分の助けなんか要らないくらいに。


 沈んだ気持ちのまま画面を眺めていると、「おやすみばいばい…」と就寝を告げるスタンプが送られた。同じスタンプで返す。既読の文字を確認せず、スマホの画面を切った。




 それから一ヶ月半経った7月初めの火曜日、ヒナタが自分の家に帰れなくなってしまった。

 終電もなくなったの横浜駅、中央改札通路には誰もいない。その通路にある童謡の赤い靴を履いた女の子の小さな像の傍にいる人物を除いて。ヒナタはその少女のようにうずくまって泣いていた。

 就寝前にヒナタからのLINE。文面には『家の帰り方、分かんなくなっちゃった。道も分かんない。電車も分かんない。今横浜にいる。助けてほしい。』と。部屋着のまま財布を持って、直ぐに家を飛び出した。鍵は出るとき多分掛け忘れてた。

 何故五月のLINE以降から顔を合わせてくれなかったのか、病院には行っているのか、今は何をして生活しているのか、何故ヒナタはこんな時間に駅にいるのか、何故夏場にタートルネックの服を着ているのか。……何故ヒナタから石鹸の匂いがするのか。


 聞きたいことは山ほどある。でも、これから一生ヒナタにそれを聞くことはないだろう。だから、代わりの言葉を紡いだ。

「ヒナタ……ウチ、来てくれる?」

 しゃがみこんでヒナタの顔を覗く。

 何も言わずに鼻を啜って、ヒナタは頷いてくれた。よし、じゃあ帰ろ!とヒナタの手を引いてタクシー乗り場へ歩く。

 運転手は形式的な挨拶をした後に、目的地を聞いてすぐに車を走らせた。こちらの事情に触れてくることもなく、黙々と業務をこなす。……降りるときにはお釣りは要らないと言わないとな。


 ふとタクシーの窓を見れば、ガラスに映る自分の顔は酷く下品な微笑みをたたえていた。

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