第42話 不安定な距離感⑥

 

 自分が泣いてしまっていることに気付いても、オフェリアの青い瞳からは雫がこぼれ続けている。だって、止めることができないくらい、悔しいと自覚しているから。


 好きで、この年齢の容姿のままでいるんじゃない。

 老いることができるのなら、自分だって老いたい。

 この若い姿のままでいることがどれだけ異常か、自分が一番分かっている。

 都合は良いことよりも、悪いことの方が今では多い。

 年相応に顔に皺を作って、普通の人間として、死にたいと誰よりも願っている。

 老いるために、どれだけの努力をしてきたことか……!


 そう思っても、アリアーヌには伝えられないことばかり。胸の中で溜め込んだ悔しさは、言葉ではなく涙として溢れ出す。

 叫びたい衝動は奥歯を食いしばって抑え込み、オフェリアは顔を俯かせた。



「いい大人が、事実を指摘されて泣くなんて醜いわね。醜い女の涙なんて無価値ですのに。もしかして! ユーグ様も泣き落としで繋いでいるのね。オフェリア様がそうだから、ユーグ様は遠慮して、誰のお誘いにも応えられないのよ。悪いと思うのなら、まずはわたくしとユーグ様の中を取り持ってほしいのだけれど」



 アリアーヌは自分が優位だと確信した様子で、馬車から降りて、扇子でオフェリアの顎をくいっと持ち上げた。涙で濡れているオフェリアの顔を、満足そうに眺める。



「若さにしがみつく醜い無名の平民魔術師のあなたと、本当に若くて由緒正しい貴族令嬢のわたくし、どちらがユーグ様に相応しいか明白ですわ。ユーグ様は才能あふれるお綺麗な方だけど、あまりにも生まれが悪く、後ろ盾もお師匠様では弱すぎる。でもわたくしと結婚したのなら卑しい出生を補ってあげられるし、ロロット子爵家の力をもって、さらなる名声を与えてあげられるわ」

「――は?」



 ついに耳でも壊れたか? とオフェリアは、濡れたままの瞳で疑いの眼差しを送る。

 しかしアリアーヌは勝ち誇ったように、口角を上げたまま。



「このわたくし自ら、ユーグ様の価値を上げてあげると言っているの。あなたも言っていたじゃない“これからも私に弟子自慢させてね”って。元孤児が貴族の仲間入りなんて、素敵な自慢話になるでしょ?」



 プツンと、オフェリアの頭の中で音が響いた。さらに奥歯を強くかんでも、腹の奥から熱が突き上げてくる。どれだけ堪えても、もう抑え込めない。



「ユーグは渡さない。絶対に仲を取り持たないわ」

「――っ!?」



 オフェリアに睨み上げられたアリアーヌは、慌てて扇子を引っ込めた。よろっとした足取りで下がり距離を取るが、気迫に押されて扇子を握る手が震えだす。

 しかし馬鹿にしていた相手の前で、情けない姿を見せることはプライドが許さない。アリアーヌは胸を張り、顎も少し上げてオフェリアを馬鹿にしたように見下ろす。



「本性を現したわね。でも、どれだけ足掻いても事実は変わらないわ。さっさと身の丈に合わないことを認めて、ユーグ様の隣をわたくしに譲りなさい!」

「だからあなたみたいな性悪の小娘に、大切に育てた弟子は渡さないって言っているのよ。貴族と結婚してなきゃユーグが卑しいままですって!? あんなに優しくて純粋で、真面目で努力家の魔術師が!?  さっきから黙って聞いていたら、胸糞悪いことばかり。ユーグを勝手に見下してんじゃないわよ!」

「言ったわね! 薄汚い平民魔術師が、わたくしを馬鹿にするなんて無礼よ! やっておしまい!」



 護衛騎士がオフェリアとアリアーヌに割り込み、抜いた剣を振り上げた。

 だが、振り降ろされる前に護衛騎士の体は吹き飛ばされて地面に転がった。アリアーヌに片方の騎士がぶつかり、彼女も尻もちをつく。



「いった……さっさと起きて、やり返しなさい! それでもロロット家の騎士なの? 役立たずはどうなるか分かっているわよね!?」



 アリアーヌは目を吊り上げ、護衛騎士をけしかける。

 しかし護衛騎士は何度も剣を握りオフェリアに立ち向かっても、刃は届かない。再び吹き飛ばされるか、目に見えない壁に阻まれ、剣を容易く受け止められてしまう。

 一方でオフェリアは指一本動かすことなく、呪文を詠唱することもなく、静かに佇みながら埃まみれで這いつくばる護衛騎士を眺めていた。

 両者には、実力に雲泥の差があることは明解。異変に気付き、人々の注目も集まっていた。

 アリアーヌの勢いはすっかり削がれ、怯えを帯びた眼差しをオフェリアに向ける。



「な、なんで無名の魔術師じゃ……」

「目立ちたくないから、自ら無名になるように動いているのよ。ユーグにも言いふらさないようお願いしているし……でも、もう分かったわよね? ユーグを見つけ、育てた師匠が三流魔術師のわけないじゃない。甘く見ないで」



 オフェリアはわざとらしく靴音を鳴らし、アリアーヌたちに一歩近づいて微笑んだ。

 人形のように整った顔に浮かべた笑みは見惚れるほど美しく、瞳は凍てつくほど冷たい。



「さっさと消えて。これ以上嫌いな人の顔を見ていたら、憎たらしくて潰したくなるかも」



 アリアーヌは「ひっ」と小さな悲鳴を漏らし、護衛騎士とともに慌てて馬車に乗り込む。馬車はすぐに走らされ、嵐のように去っていった。

 オフェリアは最後まで馬車を見送ることなく、人目から逃れるように現場から足早に離れ、家に飛び込んだ。玄関の扉を背に、その場で力なく座り込む。



「やってしまったわ……」



 もっと上手な対処方法があったはずだと、後悔の念が押し寄せる。ユーグに迷惑をかけるかもしれないと思うと、情けなくて仕方ない。

 ユーグを蔑む言葉も、過去の自分はもっと冷静に反論できていた。今回できなかった原因は分かっている。



「容姿の気味悪さについて言われるのも、これが初めてじゃないのに……でも、面と向かって大声で言われたのは初めてか」



 心臓にナイフを刺されたようだった。

 どうして何も悪いことをしていない自分が、こんな目に遭わなければならないのか。改めて、不老の呪いが忌々しい。

 あと何度、同じことを言われるのだろうかと、想像しただけで虚しくなってしまう。

 オフェリアは天を仰ぎ、しばらく座り続けた。


 カタン、と背もたれにしていた玄関扉のポストに時間外れの郵便物が投げ込まれる音がして、オフェリアは我に返った。

 気が付けば明るかったはずの外は、宵の時間を迎えようとしている。

 まだ何一つ夕食の準備ができていないことに頭を痛めつつ、ポストを確認した。オフェリア宛の手紙で、差出人はユーグだった。ときどき急用ができたときに使われる、この街限定の臨時便だ。

 内容を確認してみると、データの分析に時間がかかりそうだから帰宅が遅くなると書かれていた。



「夕食も不要……か。良かったわ」



 オフェリアはホッと肩の力を抜いた。まともな夕食は作れそうにもなかったし、赤くなっているであろう目元を冷やす時間も作れそうだ。

 ユーグに情けない姿を見せずに済むことに安堵する。きっと見せてしまったらユーグは過保護と師匠愛をさらに加速させ、一層オフェリアを大切に扱おうとするだろう。

 弱った状態でそんなことされてしまったら、甘えてしまい、抜けだせなくなりそうで怖い。それこそ、アリアーヌが指摘したように……ユーグの隣にしがみついてしまうかもしれない。



「ユーグを縛ってはいけない」



 オフェリアは、目元と額を覆うようにキンキンに冷たくしたタオルを載せた。


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