取引43件目 パーカー

「ぎもぢわるい……」

「水道水でいい?」

「あい……おねがいしゃす……」


 シンクに置かれているグラスに半分くらい水道を捻って出した水を入れて、トイレでうずくまる酔っ払いに手渡す。


「ずあぁすっきりするぅ」

「服汚れてたらついでに洗うから着替えてください」

「いいのぉ?」


 放置すれば翌日に絶望することになるからな、酔ってる時は洗う気力もないだろうし。今洗ってるついでに少し増えるくらいなんてことはない。


「これおねがぁい」


 薄い水色のブラウスをガバッと脱ぐ酔っ払いは、他の服を着ることなく、下着姿でトイレに再びうずくまる。


「……しかも寝るのかよ」


 酔っているからとはいえ、流石に無防備過ぎないだろうか。

 明らかにヤバい女ではあると思うが、見た目は百鬼さんと同じくらい整っていて綺麗だ。もう少し危機感を持った方がいい。


 理性ある紳士に育ててくれた両親に感謝しながら、俺は力尽きた酔っ払いをベッドまで運んで、洗濯を続ける。


「もう飲めなぁあい……うぅ……」

「大丈夫かこの人……」


 たまたま俺が通り掛からなかったら、今頃駅で吐き倒れていたのだろうか。


 もしそうだとするなら、俺は一つの駅と駅員を救ったことになるのかもしれない。


 そんな些細な妄想をしつつ、俺は何か違和感を覚える。


「なんか忘れてるよな……」


 なにを忘れているのだろうか。そんなことを考えつつ壁にもたれかかり思考を研ぎ澄ますと、ケツポケットに入れていたスマートフォンが軽微に振動していることに気付く。


「……あぁ、連絡忘れだ」


 確か出かける前に遅くなるなら連絡しろって言われてた気がする。もう大人だし、別に連絡はいらないとスルーしていたが、必要だったのだろうか。


『今何時か分かるか?』

「……午前三時」

『遅くなるなら連絡してくれと言ったはずだが』


 声だけでも伝わる圧に怯えつつも、俺は酔っ払いの家のソファーに腰を落とす。


「予期せぬ事態で仕方ない。許して」

『帰宅は朝ごろか?』


 ため息をつきながら呆れたように言う百鬼さんは、俺の帰宅の時間を確認する。終電がないのは把握しているのか、朝には帰るだろうと思っているようだ。


 俺は一服したらタクシーで帰る予定なんだけどな。


「うぇ……きもぢわりゅ……」


 ベッドに横たわる酔っ払いは、まだ酔いが十分に回っているらしく、随分うなされている。


「ベッドで吐いたら手間かかるから移動しますか?」

「うぅ……」


 耳元に当てていたスマホを離し、俺は体調の悪いお姉さんが寝るベッドへ移動する。


『ちょっと待て。今、女の声が――』


 電話を切る直前、なにか百鬼さんから言われた気がする。明日覚えていたら聞こう。


「のんさん、大丈夫?」

「へぇきへぇきぃ」


 様子を見ると、会った当初よりは穏やかな顔色をしている。そろそろ酔いが覚めてきたか?


「部屋の温度はこれくらいでいい?」

「うんかいてきぃ」

「ん、もう大丈夫そうだな。俺は帰る」


 配車アプリでタクシーを確認しながら俺は、外干ししているがまだ濡れているパーカーを取り込もうとベランダへ繋がる窓を開放する。


「まじかよ、この周辺に配車できるタクシーないんだけど」

「あはは、もう泊ってきなよ。添い寝してあげよっかぁ」


 虚な目でそんなことを言う酔っ払いが泊まっていけと提案する。断りたいが、タクシーが捕まらないからなぁ……。


「添い寝は断るけど泊めてもらうわ」


 パーカーはベランダに干したまま、俺は室内に戻り、ソファーへと腰掛ける。


「ベッドで寝なくていーのぉ?」

「いらね」


 今日知り合った女性の自宅にあるソファーに、遠慮もなくだらっともたれて眠りについた。


   

 ***


   

「お兄ちゃんが女の家にいるようなのだが」

「まぁ! あの子もスミに置けないわね」


 百鬼天音、二十五歳。

 私は今、人様のご両親に娘を装って恋愛相談しています。


 真面目に過ごしてきた二十五年の人生だが、まさかこんな状況になるとは思っていなかった。


 それも、好きな人のご両親にだ。


「夢都ももうそんな歳かぁ……成長したなぁ」

「でもあの子にそんな関係の子いたかしら?」

「いても話さないだろそれは」


 わざわざ両親に自身の交友関係を説明する成人男性は少ないだろうが、彼の性格的に嘘は付けずにバレそうではある。


 そこから導き出す仮説……と言うより願望としては、なにかの拍子で見知らぬ女を助けてそうなった。


 ……いや、見知らぬ女の家にこの時間に滞在するのも問題ではないか?


 考えがまとまらない。一体なにをしているんだ。


「でも残念ね、お兄ちゃんと映画見るんだーって楽しみにしてたのに」

「お兄ちゃんの予定を聞いていなかったし、約束もしていなかった。仕方ない、一人で楽しむとするさ」


 密かに、部屋でお家デート気分を味わおうと思って準備を進めていたのだが、サプライズというのは上手くいかないものだな。


 次回からは驚きよりも確実性を優先するべきだな。


「お母さんも映画一緒にみていーい?」

「むしろいいのか? 夫婦の時間を邪魔してしまって」

「たまには女二人、うちの男共の愚痴でもいいながら楽しみましょうよ」


 ニコッと笑うお母さんだが、お父さんは少し複雑そうに笑顔を作っているように感じた。


「さ、部屋行くわよー。設備整ってるし夢都の部屋でいっか」

「勝手にお兄ちゃんの部屋使っていいのか!?」

「いいのよ、家族なんだから。それにあの子気にしないしね」


 言われてみれば、気にしないだろうな。


 お言葉に甘えて、不在のお兄ちゃんの部屋で夜通し映画を観ることになった。


   

 ***


   

「本当に……本当に申し訳ございませんでした……!」

「とりあえず服着ませんか?」


 朝日が差す輝かしい朝。

 俺は得体の知れない、裸同然な下着姿の女に土下座されている。


「お見苦しい体を見せてしまい申し訳ございません! 直ちに着込みます!」

「……一旦落ち着いて」


 額を床に擦り付けるのんさんに、取り込んだ直後のパーカーを強引に着せる。


 その時少しフニっとした感触を手に感じたが、俺は脳内に焼きつく百鬼さんの眼光のおかげで平常心を崩さずのんさんの土下座を強制的に辞めさせた。


「こちらお汚ししてしまったパーカーと、タクシーの代金でございます。お納めください……」


 スッと俺の手に札を捩じ込むのんさん。


 昨晩の態度とのギャップに少し驚くが、なにより渡されたパーカーの代金がドンピシャだったことに衝撃を受けた。


「こちら汚れなきパーカーでございます。ワンサイズ小さいですが、こちらをお持ち帰りください……一度も着てませんので」


 のんさんは部屋の奥から、俺が買ったパーカーと同じデザインの物を差し出した。


「汚れたものは勝手ながら、交換という形でよろしいでしょうか」

「俺はなんでもいいんだけど、のんさんも買ってたんだこれ」

「はい! 好きなブランドでして、先行販売で買っておりました」


 レディースのファッションも豊富なブランドで、確かにこのパーカーも男女両用で着てもおかしくないデザイン。


 この美貌の女性が着ればさぞ映えるだろうな。

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