取引40件目 唄子と天音と夢都
『なぁユメ、新しいプロテイン買ったんだけどまずいからもらってくれないか?』
浴槽に体を沈めて、深くリラックスし始めたとき、あいつからラインが届く。まずいのを人に押し付けようとするなよ。
『味による』
『ずんだ』
とは言え、そろそろプロテインが尽きそうだしありがたくいただくとする。
味はまぁ……飲めないことはないだろ……多分。
『よくそんな味買おうとおもったな』
『ずんだ餅美味しいじゃん』
ずんだ餅がおいしいのは分かるが、それを模倣しただけのプロテインが美味しいとは限らないだろ。
そもそも、プロテインは基本まずい飲み物だ。
「そろそろ寝落ちしそう、上がろ」
疲れからか、はたまためぐるとのラインのけだるさからか、眠気が加速してきた俺は、まだ少し名残惜しいがこの場から撤退する。
「――お風呂で寝かけてた? 目が半分閉じてるわよ」
リビングへ戻るなり、一瞬で見抜かれた。これが親の観察眼……?
「あれ? 唄子は?」
「キャリー片付けてから寝るって言ってた」
「あー……、俺もキャリーケース片付けないと」
思い出したくなかったが、思い出してしまったからにはやるしかないな。無理してでもリュックで行けばよかった。
キャリーケースの片付けって割とめんどくさいんだよな。
早く寝たいから、急ぎ足で部屋まで向かって早速作業に取り掛かった。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
ちょうどキャリーケースを開けて、ひっくり返すように中身を全部放出したとき、俺の部屋がノックされる。
「大丈夫だぞ。今片付けしてるからテキトーに入ってきてくれ」
「お邪魔しまーす」
ガチャリとドアを開けて、そろーりそろりと入ってくる百鬼さん……?
「お兄ちゃん、ジャパンランド楽しめた?」
「百鬼さん……じゃないよな。唄子もう平気なのか?」
部屋に入った時の姿勢、入る前の鋭さが一切ない穏やかな声。百鬼さんの片鱗を全く感じないということは、目の前で俺の荷物を片付けてくれているのは正真正銘の俺の妹――幻中唄子だ。
「今は唄子だよ。心配かけてごめんねお兄ちゃん。まだまだ迷惑かけるけど許してね」
「なるべく早く社会復帰できる日を願ってる。で、わざわざ体の主導権取り戻して俺に会いに来た理由は?」
謝る唄子だが、これからも迷惑をかけ続けると宣言する潔さは称賛に価すると思う。
「入籍の予定日と、式の日取り聞きに来た」
「は?」
要件を聞いてもなお、何をしに来たのかが分からない。
「もう結婚だよね!? あたしの体じゃなかったらもう性交渉成立してたよね!」
「馬鹿か。そういうのは、お互いをしってからすんだ。短絡的な思考はお兄ちゃん許しませんよ」
そもそも結婚とか……、まだ考えられないっていうか、付き合うイメージすら湧かないのにムリゲーすぎるだろ。
「じゃぁ知ればいいのか……なるほど」
「あ?」
「おっけおっけ。てことで天音さんにはまだあたしの体使ってもらって同棲生活楽しんでもらうよ」
ニマニマと笑う唄子からは、精神を病んで引きこもっている人間とは思えない。
「お前社会復帰はどうしたんだよ」
「多分いつでもできるよ」
あっけらかんとした態度で言う唄子の頬をガシッとつまむ。
「だったらはよ百鬼さんの精神を肉体にかえせ」
「無理! 今天音さんに仕事のスキルを教えてもらってる最中だから」
「研修してるのかよ」
雰囲気から、社会に屈しない百鬼さんのようなメンタルはトレースしたように感じる。このまま百鬼さんから経験やスキルを得続けると、かわいくて素直な妹が鬼のような冷酷でハイスぺなキャリアウーマンになりかねない。
「まぁそんなわけだから、ゆっくり天音さんのこと知っていってね」
「んなこと言ってたら百鬼さんにおこられんぞ」
「大丈夫、天音さんの精神は今ぐっすり寝てるから」
てへっとかわい子ぶって舌を出す唄子は、「そういうことだからよろしく」なんて言っている。
「でもお兄ちゃん珍しいよね」
「なにがだ?」
キャリーケースを拭いてくれる唄子は感慨深いと言わんばかりに言葉を続ける。
「だってここまで人に執着することなかったでしょ? ネットでちょっとした有名人なんだよ? 自分のために泣いてくれるこんな彼氏ほしいって」
「は? 肖像権余裕で侵害してるだろ」
唄子がスマホの画面を見せるとそこにはあの日の夜、百鬼さんを抱えて号泣する俺が撮影されていた。
「これ撮影者誰だよ」
「分かるわけないじゃん。いろいろな角度からとられてるし、いろいろなアカウントで拡散されてるもん」
見れば、随分とたくさんの人があれこれ好きなことを映像の中の俺に投げかけている。
「そういえば職場の人が変に気を使ってきたのもこのせいかよ」
目の前で上司を失い、野次馬に囲まれ、その後もネットでさんざん言われる。そしてアフィカスの財布が潤う。
「天音さんにモザイクかかってるのが唯一の救いだよね」
「俺にも救いの手を差し伸べてほしかったな」
「メインにモザイクかけたらエンタメとして成立しないでしょ」
そもそも他人をエンタメにするのはいけないことなんだよ。
「人の悲劇をエンタメにするやつとか絶対ろくな死に方しないだろ」
「天音さんも同じこと言ってた。あと自分のせいで晒し者になってすまないとも言ってた」
百鬼さんはあの事故が拡散されていたのを知ってたのか。
「だから気にしなくていいよってお兄ちゃんの代わりに伝えといたよ」
「本来そういうセリフは本人が言って好感度あげるべきなんじゃないか、わが妹よ?」
「大丈夫、好感度なんてすぐカンストするって! お兄ちゃんはありのままの姿を天音さんに見せればいいよ」
わが妹ながら、好き勝手言ってくれる。
「それに、自分をよく見せようなんて男にろくなやついないしね」
「それは言えてる」
「だからお兄ちゃんはさ、そのままでいなよ? 天音さんとお付き合いしたいならね」
バチンとウィンクをする唄子は、片付いたキャリーケースを見てうんと頷くと俺の部屋を後にした。
「ありのまま……か」
付き合いたいって明確な意思はない。今さら取り繕って百鬼さんによく見てもらおうなんて気もない。
ただ今思うのはただ一つ。
「百鬼さんとの飲みはまだお預けかぁ」
どうやら俺は前世で何かをやらかしたのかもしれない。そう思うレベルで人生が思う通りに進まないな。
ただ、惹かれる女性との約束を今か今かと待ち侘びる瞬間も、長い人生を彩る思い出としてはいいのかもな。
そう自分を説得し、百鬼さんと飲みに行ける日を待ち望みながら今日を終わらせた。
今日もいい一日だった。
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