取引13件目 ネクタイの秘密
***
午前七時。
「今日は随分ゆっくりだな唄子」
「お兄ちゃんに合わせるからこの時間になるのは仕方ない」
部屋着のままスマホをポチポチと触る俺に、シャキッとスーツを着こなした唄子が隣に座る。
用意された食パンにバターを塗る百鬼さんは、続けて言葉を放つ。
「案外、朝をのんびり過ごす方が作業パフォーマンスが上がりそうだな」
「忙しなさすぎるんだよ唄子は。体大事にすべきだ、仕事しすぎ」
この言葉は唄子ではなく百鬼さんに向けたものだが、決めたルールに従って唄子として接している。
「というかなんで俺と時間合わせるんだ? 仕事すごいから朝早く行ってたんじゃ?」
「望みを叶えてくれるんだろう? 兄妹仲良く出社しようじゃないか」
……。
昨晩俺は百鬼さんに一勝もできなかった。だからと言って望みがなぜ俺との出社なんだろうか。
しかも早く出社する必要がない時は必ず揃って行く条件付きだ。
「それに、仕事に関してはどうとでもなる」
「マジでなんとかなるんだろうなって安心感がすごい」
サクサクといい音を鳴らして朝食を食べる姿に、少し目頭が熱くなるのは親心だろうか。
いつも朝食を食べずに仕事していた百鬼さんの姿が脳裏に焼き付いているからか、唄子の姿とはいえど感慨深いものがある。
「二人が肩を並べて朝を過ごす……いいわねぇ、これでこそ兄妹よ」
「母さん朝からうるさい」
何がそんなに嬉しいのか、母さんのテンションは朝だってのにやたらと高い。
「お兄ちゃん、お母さんにそんな態度はダメだぞ」
「あら唄子、相変わらず長男よりいい子ね。きっと夢都が置き忘れた思いやりを拾って生まれてきたのね」
「言い過ぎだろ」
朝からなんて言われようなんだろうか。
「そろそろ着替えたらどうだ?」
「もう少しゆっくりしてたいんだけど」
まだしばらくは部屋着でダラダラしてたい気分なんだが、今にも服を剥がれそうな勢いだ。
「……着替えてくるわ」
パンを食べた後のコーヒータイムもほどほどに、俺はのそのそと自室へ行ったのだが。
「なんでいるんすかね百鬼さん。今から着替えるんすけど」
「いつもシャツがシワだらけだろう? アイロンのかけかたを教えてやろうと思ってな」
別にアイロンのかけかたを知らなくていつもシワシワの服着てるわけじゃないんだが?
「スチームアイロンあるのにどうして使わないんだ? 説明書に使い方も丁寧に記載されてるぞ?」
「入社前は毎日しようと思って買ったまま一度も使ったことないですそれ」
「……なんて怠惰なんだ」
俺だって最初からやる気がなかったわけではない。
ちょっと奮発して評価の高いスチームアイロンで出来る営業マンアピをしようと思っていたが、思いの外手間がかかりそうで諦めた。
毎朝アイロンかける時間あるならゆっくりしてたいし、仕事から帰ってからやるくらいならのんびりゲームしてたい。つまり俺には時間がない。
「社会人は身だしなみが重要だ」
「果たして本当にそう言いきれますか?」
「む?」
こいつなに言ってるんだ? と目が物語っている。
「俺今まで一度もシワなしのスーツ着たことないじゃないですか」
「そうだな、いつもどこかしらにシワのあるスーツやシャツだ」
「でしょ?」
俺はなぜか新品のシャツを着ようとも、必ずシワシワ。
なぜなら俺は身だしなみなんてものは二の次でいいと思っているからだ。
なぜ二の次でいいと思うかって? それは。
「つまりシワだらけでも特に困ることなく案件は取れるんすよ」
「屁理屈だ……」
「事実っすよ。才能っすかねぇ」
分かりやすく頭を抱える百鬼さんは、スチームアイロンのコードを繋いでスーツを壁にかける。
「シワなしスーツだと営業成績が倍になるな」
「ならないすよ」
「てかアイロンくらい自分でやるからいいすよ」
「今までやらなかったのはどこの誰だろうな」
言って百鬼さんは、洗面所にスチームアイロンのタンクに水を汲みに行ってしまった。上司にそこまでされると流石の俺でも少し申し訳なさが現れる。
「――よし、綺麗にシワが伸びたな」
「アイロンってこんな短時間で出来るもんでしたっけ」
約十分も満たないうちに、俺が所持する五着のスーツはシワ一つない綺麗な姿に変貌していた。
「コツさえ掴めば楽に済むぞ、今度教えてやろう」
「あざす」
別にどうでもいいな、なんて思いながら俺は今日着るシャツとスーツを選ぶ。
「このスーツ、見たことないな。着たことはないのか?」
「あー、そういえば着てないっすね」
クローゼットにかかるスーツを手に取り、なぜ着ないのかと尋ねる百鬼さん。そのスーツは、キャメルで渋めの仕立て。
「似合うと思うんだがな」
「大人びすぎてるというか、少し老けて見えるんすよねそれ」
少し重厚感のある生地だし、営業にはあまり向かないと思うのも、着ない一つの理由。
「絶対に似合うと思うぞ?」
「そすか? まぁ仕事には着ることはないすね」
「確かに、仕事に着るにはすこしフォーマルだな」
無難に紺のスーツを手に取り、スラックスに足を通すべく俺は部屋着のズボンを下ろそうとする。そして気付く、まだ百鬼さん目の前にいたわ。
「このスーツを着ている姿を見てみたいものだな」
「その前に一旦部屋出てもらっていすか」
「ドレスコードが必要なレストランへ行こうか。それ着て」
一人で盛り上がる百鬼さんは部屋を出て行った。ついでにドレスコードが必要な高級レストランに連れて行ってもらえることになった。
その前に居酒屋に行きたいんだ俺は。
「百鬼さんって案外抜けてるっていうか、独特だよなぁ……」
普通、男が着替え始めたら動揺したり悲鳴上げたりするもんじゃないのか? 俺の思考が男子高校生で止まっているだけかもしれないが。
「私がどうした、着替えは終わったか?」
「終わりましたよ」
チャチャっと着替え終わったところ、タイミングよく百鬼さんが再び俺の部屋に入ってくる。手には出勤用のカバンを持っていて、すでに出社の準備を整えていた。
「ネクタイがまだじゃないか」
「あ、忘れてた」
「私が締めてやろう」
ビジネスバッグに社員証と名刺ケースを入れ忘れていないかを確認しているところ、百鬼さんによって肩を掴まれ向き合わされる。
百鬼さんの細い指は、シャツの一番上のボタンを器用に留め、少し俺の首にピタッと触れた。
「ボタン一番上まで止めるのしんどいんすけど」
「ネクタイを締める時はボタンを全て留めるだろ」
ごく一般的な意見としてはそれが普通だ。
だが俺は今まで一度としてボタンを上まで留めたことがない。なぜなら窮屈で息が詰まりそうだからだ。
「だらしなく見えてしまうぞ?」
「それも個性の一つっすね」
「却下」
部下の個性を無慈悲に拒絶する上司は、襟を立ててネクタイを俺の首へとぶら下げる。
小剣と大剣のバランスを真剣な眼差しで見極める百鬼さんは、慣れた手つきで首にネクタイを巻きつけ、綺麗なノットを作り上げる。
「ノットのコツとかあるんすか?」
「そうだな。この結び目は慣れから生み出したものだが、調べれば出てくると思うぞ?」
一通り調べたことはあるが、あいつら絶対人の心ないぞ。分かりづらいんだよどれも。でもなぁ、俺の理解力不足なだけって場合もあるし……。
一概に否定できないでいると、百鬼さんはもう俺のネクタイを完璧に結び終えていた。
「ディンプルも綺麗っすね」
「ディンプル? なんだそれは」
「え、知らずにこんなに美しいフォルムで結べるんすか!? このノットのくぼみのことですよ」
これが転生の才能というやつだろうか、俺は試行錯誤を繰り返しても綺麗なディンプルを作ることができなかった。
にしても……。
「百鬼さんネクタイ巻くの慣れてるんすね」
少し俺の胸がモヤっとした気がする。
もしかして彼氏のネクタイ毎日結んでるとかなのかな、とか。本人には絶対聞けないけど、どうしても気になってしまう。
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