取引14件目 経費の申請

「日々の積み重ねだな」

「もしかして、彼氏のネクタイ結んでたとか……すか?」


 やべ。


 つい、俺の口が先走ってしまう。

 言ったことにすぐ気付いても、誤魔化すのは変に思われるかもしれない。だからあえて動じずにいる。


「気になるか?」

「えっ……それは……」


 あ、これ俺揶揄われてるな。

 完全に面白がっているような表情で、耳が赤くなる俺を凝視している。


「通っていた高校がネクタイ着用でな。ネクタイを結ぶ動作が染み付いてどうも拭えない」

「なんだ……そうだったんすね」


 百鬼さんに毎朝ネクタイを結ばれる幸せな男はいなかった。


「ちなみに誰かのネクタイを結んだのは初めてだ。恋人もいたことがないな」

「……そすか」


 学生時代からバリバリにスペック高くて高嶺の花すぎたんだろうな。でなければこの美貌で、この歳まで恋人がいないなんてバグ過ぎるだろ。


 というかなぜそんなことを教えてくれたんだろう。教えてくれた理由は分からないが、なぜか胸のモヤモヤが晴れた気がする。


「安心し切った顔をしているな。なにかいいことでもあったのか?」

「へ? いや、別に? なんでもないっすよ」


 だめだ、感情を殺せ。百鬼さんに揶揄われるぞ。


 唄子が百鬼さんに変なことを伝えたから、絶対おもしろがられてる。


「ふふ、そうか。営業マンとしては弱点にはなるが、すぐに表情が変わるのは人としては長所だな」

「褒めてるようで営業としての俺にはダメ出ししてますね。朝から厳しいっす」


 唄子の顔でニヒルに笑う百鬼さんだが、本当にこういう時だけ愉快な笑みで可愛らしいのは唄子の見た目でも変わらないらしい。


 普段は鬼のような上司だが、些細な笑みが時々人だということを思い出させてくれる。


「そういえば幻中くん、スーツ好きなのか? シャツやネクタイ、タイピン。なかなかのものを揃えていると見受けられる」

「あー別に好きってわけじゃないんすよ」


 百鬼さんは、クローゼットのスーツをみて感心している。

 俺に大人びた趣味があると思っているのだろうが、全然そんなことない。


「大学の時、スーツのキャラにハマったんすよ」

「ほう?」

「で、俺もスーツ着たらかっこいキャラになるんじゃ? とか、デートの時にオシャレな店行くドレスコードにもなるとか考えたわけですよ」


 スーツを着慣れていない大学生からしたら、スーツは夢の詰まった衣装なんだ。


「それで買ったというわけか」

「そっす。別に好きじゃないんすけど、一度集め出したら止まらなくて……」


 スーツだけでなく、革靴なども集めているが、一度も履いたことのないものもある。収集癖というものは実に厄介なものだ。


「それで、デートでは活躍したのか? オシャレなドレスコードは」

「今はウォーミングアップ中なんじゃないすかね。一度も活躍の機会はないっすね」


 この人分かった上で聞いてきてそうなんだよなぁ。


「おっと、そろそろいい時間だ。出社しようか」


 微笑む百鬼さんは腕時計で時間を確認すると、俺の部屋のドアノブに手をかける。


「リモートワークしていいすか」

「明日ならいいぞ」


 いざ出社するとなると、急に出社するのが面倒になってしまった。


 うちの会社では、出社組とリモートワーク組の比率は五分五分。

 上司の許可さえ降りれば午前出社、午後リモートワークなんて融通もきく神対応っぷり。


 カズさんに聞いてから申請しているのだが、百鬼さんはなかなか俺にリモートワークの許可を出してくれない。もしかしてサボるって読まれてるのか?


「明日は休日っすね」

「知ってる」

「あ、この人させる気ねぇな」

「出社した方が出来ることは多いだろ」


 確かに、取引先とやり取りする際は出社がマストだ。だが基本は事務関連の雑務が主だ。


 だから作業効率的には出勤時間と上司の目のないリモートワークの方が捗る。あくまで俺個人の意見だけどな。


「俺はリモートワークの方が捗るんすよ」

「……週三日。来週から月、水、金はリモートワークで構わない」

「まじすか」


 気まぐれだろうか? 今のリモートワーク頻度は、毎週水曜日の一回。

 なぜ二回増えた?


「ただし、幻中くんがリモートワークの日は私もリモートワークにする」

「百鬼さんがリモートワークって珍しいっすね」

「嫌がりはしないんだな」


 リモートワークは自宅にいながら適度な緊張感で業務に挑めるのが利点だが、困ったことが出てきた際は、上司にチャットを送らないといけない煩わしさが難点だ。


 言葉で伝えた方が断然早いのに、わざわざ文にする手間が面倒だ。

 だが考えてもみろ。上司と同じ屋根の下で同じタイミングでリモートワークをするんだ。


 人によれば気が休まらないだろうが、部屋は別だし、何より困れば隣の部屋をノックすれば解決する。


「むしろ嬉しいですね」

「そっ!? そうか……」


 いつものように大音量で映画を見ながらの作業は出来なくなるだろうが、そこは高音質のヘッドフォンを買ってカバーするとしよう。


「そっす。てか百鬼さん顔赤いっすよ? 熱っすか?」

「だ、大丈夫だ。問題ない、問題ないからひ、額を近づけるのをや、やめろ……!」


 小さい頃は額を当てて熱をはかっても動じなかったのに、思春期か?


「あ。すません」


 見た目は唄子でも、中身は百鬼さんだった。マジで脳みそバグるぞ。


   

 ***


   

「早いな、田端」

「おはよう幻中。今日はカズさん休みだからね。その分の仕事もしないとだからね」


 パチパチとキーボードを叩く田端は、エナジードリンクを片手に書類に目を通してとても忙しなく動いていた。


「手に負えなくなったら言えよ。カバーするから」

「ありがと、でも大丈夫。捌けるレベルだから」

「そか」


 余裕の笑みを浮かべる田端は、珍しく真剣な眼差しで仕事と向き合っていた。


「俺も頑張らないとな」


 今日のタスクは特に決めてな……あ、新規にヒアリングしないといけないな。


「唄子――さん。新規案件のヒアリングしようと思いますけど、事前情報とかありますか?」

「危うかったがまぁいい。事前情報は電話番号と社名しかないから、まずは下調べを済ませてから、どう売り込むか考えてくれ」


 呼び捨てしかけた俺を軽くいじりながらも、行動の指示をくれるこの人は、やはり優秀な上司だ。

「承知」

「社名と番号はここに書かれている」


 問い合わせフォームの画面を印刷した紙を受け取り、俺はパソコンを駆使して相手の情報を探っていく。


「こういうのってホームページ見てもあんまわからないんだよな」


 会社名を打ち込んでホームページを見た感じ、広報に金をかけているようだし、ある程度無茶な提案をしても許容されそうだな。くらいしかわからない。


「――幻中さん。今大丈夫ですか?」

「不破さん。大丈夫っすよ、どうしました?」


 調べるモチベーションが低下してきた頃、不意に背中越しに声が聞こえる。

 振り向くと、経理担当の女性が手帳片手に立っている。


「月末ですけど、経費の申請漏れはないですか?」


 経理担当の不破凛子。彼女は月末になると、何かと申請漏れの多い営業部に申請がないかを確認してくる。


 訪問や出張が多い営業部だが、ズボラな人間も多いのが営業部。

 百鬼さん以外は必ず何件か申請漏れをやらかすので、聞きにきてくれる不破さんには感謝しかない。


「今月は大丈夫っす。いつもあざす」

「いいえ。営業部の皆さんには仕事とってくることに専念してもらいたいですからね」

「頑張ります……」

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