取引5件目 上司と牛丼
「大丈夫か幻中くん。顔色がすぐれないが?」
「原因は横に座るやつなんで気にしないでください」
部長席から一番よく見える位置に座る俺の顔色の悪さにいち早く気付いた唄子は、席に座ってキーボードを叩きながら声をかけてくる。
「なにをやらかしたんだ田端くん」
「僕やらかした前提ですか!?」
驚嘆しながらも、田端はゴソゴソとカバンを漁り始め、数秒後にとんでもないものをデスクに降臨させた。
「昆虫食の話してただけなんですけどね」
「今すぐカバンに戻せ、業務命令だ」
「申し訳ございません……」
嫌な予感がして唄子の方を凝視していたから分かる。多分本気で殺意を向けている、そんな予感がする。
「昆虫を食べるなんて考えれない……私の考えが固いのか?」
「大丈夫すか唄子さん。顔色がすぐれないっすよ?」
「すまない……虫が苦手なんだ」
小さい頃は平気でバッタやセミを鷲掴みしてたのに、今では姿を見るだけで疲弊するレベルになっているとはな。とこの流れってのは恐ろしいものだ。
「田端は後でしばいとくんで、今は忘れましょ」
「甘んじて受け入れます」
憔悴した様子を見せる新しい上司を見て流石に罪悪感が芽生えたのか、シュンと大人しくなる田端は、その小柄な図体をさらに小さくするように背筋を曲げた。
昆虫食のことは頭から消して、カタカタとパソコンを動かして資料を作成し続ける。
途中、田端は奇行の師匠のような存在でもある上司に連れられて外回りへと旅立った。
「俺も外回り行ってきます。取引先にヒアリングしに来いって言われてるんで」
「私も同行しよう」
「えぇ……」
新規取引先を一件。
そこを回ってからは少なからず数時間サボってそのまま直帰しようと思ってたのに、上司がいるんじゃそんなことも出来ない。
「なんだ、不満か?」
「いえ、最高に最高です」
「前任者が担当していた取引先にしばらく担当が私になることを伝えておかないとだからな」
「え、もしかして全担当会社を回る感じすか?」
百鬼さんが担当していた取引先ら、近場とはいえ件数が多い。
さすがに全部は行かないだろうが、精神が疲労しそうだ。
「どれくらいの期間、代理をしておくか分からないからな。事情の説明は必要だろう」
そう言う唄子は、着々と外出の準備を進めている。どうやらすでにアポを取っているようだ。ハードスケジュールを告げられ絶望する。
どうして午後から分刻みで動かないといけないんだろうか。こんなことになるなら大人しくオフィス内で資料作ってればよかった。
「……ん? もしかして唄子さんは前任者が戻ってくるまでのピンチヒッターっすか? 後任って聞いてたから正式かと思ってたけど、口ぶりからすると違うんすね?」
「ああ、私はやりたいことが別にあるからな。にしても嬉しそうだな? そんなに私がいなくなる日が待ち遠しいか?」
家でいつでも会えるしいなくなることなんてないだろ。俺は百鬼さんが戻ってくる日を心待ちにしてるんだよ。
「まぁそんなことはどうでもいい。早く行くぞ」
「資料とかいらないすか?」
「必要ない、ただの挨拶だ」
ならば俺の持ち物はカバンと名刺だけで十分だろう。
唄子を見ればどうやら直帰する気はあるらしい、帰る準備は完璧に済まされている。
「帰る準備できたんでいつでも出れます」
「……言っておくが帰宅がメインじゃないからな」
でしょうね。百鬼さんの担当多いからなぁ間違いなく残業だもんな。残業申請忘れないようにしないとな。
「行ってらっしゃーい」
「うーい」
「うむ、行ってくる」
廊下ですれ違う同僚に見送られ俺たちは、まずオフィス横にそびえる取引先へと訪問する。
***
「本日は急なご訪問、遅くまでのお話にも関わらずお時間をいただきましてありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
時刻は十九時。今俺たちは本日最後の取引先を後にした。
「お母さんにはご飯を食べて帰ると伝えている。幸い今日は金曜日、飲んで帰ろうかお兄ちゃん」
「いや、俺は寄るところあるから悪いけど一人で行ってくれ」
「……病院か?」
もちろんそうだ。面会時間は二十時までだから、なんとか間に合う。割と近いしな。
「待っていてもいいんだが、他に断る理由がありそうだな」
「禁酒してるから、酒は飲まないんだ。できれば仕事終わりに誰かと飯行くのもいやだ」
「それはなぜだ、前まではそんな考えは一切なかったはずだろう?」
不思議そうに俺を見る唄子は、どうしてそうなった? なんて今にも言い出しそう。
「唄子の前任の人と飲みに行く予定だったんだよ。でも結局行けてないからな、だからその予定を完遂するまで仕事終わりに飲みに行くことはないな」
「……前任者は、そこまでお兄ちゃんに思い詰めて欲しくないんじゃないか?」
「思い詰めてはいないよ、俺はただあの人が楽しそうにしてるとこが見たいんだ」
俺は唄子に、飯は適当に食べて帰るから先に帰るように行ってから、小走りで病院へ向かった。
――今日も百鬼さんは目を覚まさなかった。何度通っても、何度話しかけても、百鬼さんの容態は変わることがない。
俺は今後このままただお見舞いに行くだけで、百鬼さんのためになにも出来ずにもどかしいまま生きていくのか。そんなことに悶々と悩みながらチェーン店の牛丼を胃袋へ流していく。
「お疲れ、幻中くん今終わりか?」
「カズさん!? お疲れす」
味も分からないほど思考を集中させていた俺の脳みそに、大きな声が干渉する。
「仕事終わってから用事済ませた帰りです」
「そかそか、新しい部長には慣れたか?」
くぅ〜! なんて渋い声をあげておしぼりで顔を拭くのは、営業部の部長代理――高山万人。通称、カズさん。四十九歳。
唄子がただのピンチヒッターをするなら、この人の役職とはなんなのだろう。
「まぁ、少しは慣れたっす。そういうカズさんは田端と連携取れてるんすか?」
「いや聞いてや! 今日も田端くんと営業行ったけど、僕話聞いてなくて取引先にめっちゃ怒られたわ!」
連携がうんぬん以前の問題だった。
「あれ、この店呼び出しボタンないんか。すみませーん!」
「カズさんここタッチパネル注文なんで!」
流れるように大声で店員を呼びつけるカズさん。
呼んだところでタッチパネルでのご注文をお願いしますと言われるだけだぞ。俺は店員さんに頭を下げてなんとか引き取ってもらった。
「なにこれ分からん!」
「食べたいやつ押して注文ボタンす」
常に騒がしいこの人は、主に田端の指導役を任されている。俺はこの人と二人で会話することはないが、田端からよく話は聞く。
常に元気で明るく、精神が小学生で止まっていて、純然たる某名探偵の逆バージョンのような人だ。
話を曲解して奇行をするのはお手のもの。だがなぜか人を惹きつける。この人といれば悩みなんて吹き飛ぶ、らしい。田端談。
「……百鬼部長が事故に遭った日。側におったらしいな」
「はい……」
牛丼一つ頼むのに散々盛り上がったカズさんだが、急に俺がまだ消化し切れない話に踏み込んできた。さすがは田端とよく問題を起こすトラブルメーカー、人との距離の詰め方が大胆すぎるぜ。
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