取引4件目 不調の幻中

 ***


   

 一度起きてしまうと、人間ってのはなかなかに寝れない。

 夢見が悪く手の震えが止まらなかったが、今はなんとか落ち着いた。


 水道水をコップに注いで、そのまま喉を通過させていく。熱くも冷たくもない水でも、落ち着くには十分クールダウンできる。


「タバコ……はやめたんだった」


 俺には大学の頃から悪癖がある。辛い現実にぶち当たった時、タバコに火をつけて肺を汚す。


 だが入社してからは、タバコに火を灯すことは一切なくなった。

 もうタバコを買っていないし、灰皿も処分した。


「煙の匂い、苦手って言ってたもんな……」


 誰かを想って禁煙なんてバカバカしいと考えていたが、そうでもないとヤニカスは禁煙できないのかもしれない。


「あれ、起きてたのか夢都」

「父さんも寝れないのか?」


 コップをゆすいで自室に戻ろうとした時、瞼を擦りながら父さんがやってくる。長髪が邪魔にならないよう装着しているヘアバンドは寝相のせいか冠のような位置に移動していた。


「久々にギター触ってたらもうこんな時間だった」

「明日も仕事だろ? 馬鹿じゃないのか」

「父さんはヘビーテレワーカーだから問題ないんですぅ、夢都は出社でしょ? 早く寝ろ」

「うっせ、言われるまでもないわ」


 リモートワークだって始業の時間は決まってるだろ。寝坊して怒られろ。


「……夢都、その、なんだ。たまには一緒に酒でも飲むか。仕事に響かないように一杯だけでも」


 父さんなりの気遣いなのは分かる。最近ずっと百鬼さんの顔を見に行ってるし、同僚にだって心配されるほどだ。実の父は十中八九気付いているだろうな。


「悪いな、先約があるんだ。それまで禁酒」

「そうか。大事な約束なんだね」

「まぁな」


 あの日行くはずだった百鬼さんとのサシ飲み。それが完遂されるまで絶対に飲まない、俺はそう心に決めている。


「その約束が果たせたら、次は父さんと飲んでね」

「覚えてたらな。おやすみ」


 完全にではないものの、夢見が悪くて震えていた手がマシになった。これでぐっすり寝て明日の仕事もなんとか行けそうだ。

   

「――あれ、唄子は?」

「もう出たわよ。夢都も早く出社の準備しなさいよ」

「まだ七時だぞ。早過ぎだろ」


 俺の起床は決まって七時。

 実家から職場までは三十分。始業は九時、八時二十分に家を出れば十分の余裕を持って出社できる。


「あいつ、七時半に出社してなにする気だよ。ワーカホリックかよ」


 そういえば百鬼さんも朝早くに来てた気がする。

 役職持ちは早朝出社する決まりでもあるのか?


「唄子が元気そうに働いていて、母さんとても嬉しい」

「殺戮マシーンみたいに表情死んでるけどな」

「確かに、可愛らしい笑顔がなくなったのは少し悲しいかも。でも元気そうではあるからいい!」


 なにがどうなって唄子が部長になったのかは知らないが、今の振る舞いはどこか百鬼さん味を感じる。


 そのことから俺が知らないうちに、百鬼さんの影響を受けていることを容易に想像できる。


「あの子朝ごはん食べてないけど大丈夫かしら」

「一食抜いたくらい大した問題じゃないだろ」


 そう言いながら部屋着で食パンにバターを塗る俺を呆れたように母さんは見る。


「一食抜いても大した問題じゃないらしいよ?」

「俺は大問題になるんだ。何事も例外が存在する」


 塗ったバターの上からいちごジャムを塗っていく。バターナイフでパンの表面をなぞるたびに、サクサクと心地よい音が俺の食欲を掻き立てる。


「昔から屁理屈ばっかり」


 食パンとコーヒーで俺は目を覚ます。

 朝食を抜くと俺は気が狂うタチらしい。幼少期にグズって朝食を食べずに幼稚園に行った時は、カバンを齧ったとよく母さんに愚痴られる。


「そろそろ着替えねぇと」

「ついでに父さん起こしといて」

「なんのついでだよ」


 朝食を食べてスマホでニュースを確認していたら、あっという間に時間は流れ去ってしまう。


   

 ***


   

 時刻は八時過ぎ。俺はいつもより少し早めに家を出ていた。

 そしてコンビニに寄ってサンドイッチと野菜ジュースを購入してオフィスへと出社する。


「おはよう幻中くん。少し出社が早いな」

「おはざす。これ朝食、食ってないんすよね。飯は食ったほうがいいぞ……すよ」


 まだ始業前だってのに、パソコンをカタカタと打ち続ける上司妹に、俺はコンビニで調達したフルーツサンドと緑黄色野菜のジュースを差し出した。


「朝食を食べている時間がないんだ。生産性のある仕事が出来るのは朝のうちだけだ、気持ちだけありがたく受け取ろう」


 この効率厨が……! こんなところまで百鬼さんの真似してやがんのか?


「だめだ食べろ、人の原動力は飯だ。三食きっちり食べるのが長い目で見たら一番生産的だろ」

「幻中くんの意見は一理ある、だが断る。見ての通り私は手が塞がっている」

「なら俺が食わせてやるから、しっかり噛んで飲み込めよ」

「正気か? ここは職場だぞ。まだ人はいないとは言えど、誰かに見られれば勘違いされるではないか」


 拒む唄子に、俺はゆっくりといちごがたっぷり挟まれたフルーツサンドをねじ込む。


「百鬼さんも朝飯食わなくて心配だったんだよなぁ俺。上司でも唄子は妹だから多少強引にでも食わせるからな」

「……今日だけだからな」

「明日からはちゃんと家で食ってから行けよ」


 適度にジュースを挟みながらサンドイッチを食わせていると、幼い頃のことを思い出す。昔はお兄ちゃん子だった唄子だが、今では百鬼さんのポーカーフェイスを継承して近付きづらいオーラを醸し出している。


「幻中くんはお節介だな」

「働き詰めの人間が心配なだけだ。無理しすぎんなよ」

「上司に随分な態度じゃないか」


 食事を終えた唄子ほ、ギロっと俺を凝視する。そろそろ他の社員たちが来るからだろうか、あまり上司として敬う気はないんだが、仕方ない。


 歯車は会社の決定と役職持ちの人間には逆らえない。


「すみませんでした」

「しばらくは違和感があるだろうが、慣れてくれ」

「了解す」


 他の社員の目もある分、体裁に気を遣っているのだろう。この感じだと家では普通にタメ口でも文句言われなさそうだな。

   

 続々と出社してくる面々に相槌程度の挨拶もしながら、俺はサンドイッチのゴミを片付ける。


「お、朝からフルーツサンド? いいね、オシャレ」

「まぁな、そう言う田端はなに食ってんのそれ」


 俺の隣の席に座る田端という男。

 田端は、口になにかを含みながら始業の準備をしている。


「昆虫食」

「うわぁ……」


 奇行を繰り返すことが多い男だが、さすがに昆虫食は受け入れ難い。自分の考え方が固いのか、どうしても許容できない。


 一度興味本位でコウロギのスナックを食べたが、やはり独特な味わいでなかなかにトラウマだ。


「食べる?」

「断固拒否だが、ちなみにどんな虫食べてるんだ?」

「蜂」

「おぉぅ……」


 興味本位で聞いてみたのが失敗だった。

 今日は朝から絶不調で仕事スタートだ。

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