取引3件目 夢都と天音のファーストコンタクト

 ***


   

「ただいま」

「おかえり夢都。上司さん、容態は?」

「……変わりないってさ」

「そう……」


 実家暮らしの俺は、夕飯を準備する母さんに迎えられる。そしてその母さんを手伝うように、ご飯を茶碗に入れる妹の姿が見える。


「お兄ちゃん、毎日見舞いに行っても状況は変わらない。早く帰ってきて体を労ったほうがいい、そのほうが作業効率も上がる」

「……唄子、ほんとどうしたんだお前」


 顔色ひとつ変えずに平然と会話に参加する唄子に俺だけでなく、母さんも少し驚いているように感じた。


「そうよ唄子、昨日までずっとお部屋にいたじゃない。急になにがあったの?」


 引きこもりの妹が不意にアクティブに家事をし出したら当然驚くだろう。


「それにこの子ったら朝から夕方までいなかったのよ? どこ行ってたのかしら」

「俺が行ってる会社に部長として来てたぞ」

「え?」


 どうやら母さんは知らなかったらしい。スーツ着て家出たら大抵想像つきそうなもんだろ……って思ったけど普通は就活してるのかな程度か。


 だれも役職ついてるとは思わんて。


「唄子本当なの? いつのまに?」

「引きこもっている間、お母さんに迷惑をかけないようにネットで色々していた」

「え、母さんだけ? 俺への配慮は?」

「ない。全く」


 こいつ……。

 毎日退屈しないように部屋の前で一時間語り続けた健気な兄になんて態度だ。


「まぁそこはなんでもいいけど、いつ百鬼さんと知り合ったんだ? 仕事引き継ぐくらい仲良くなってるみたいだし」

「色々と」

「こいつ全て包み隠して有耶無耶にするつもりだな」

「上司になんて態度だ」

「うるせぇ、家では俺の妹だ。敬え」


 職場で権力に押さえつけられ、オアシスである実家でも権力に負けるなんて絶対に嫌だ。


「妹だからなんだと言うんだ。私の方が優れている、優れている方を敬え」

「おい! 傷つくこと言うな! 母さんなんとか言って――ってなんで泣いてんの?」


 ホロリと涙を流す母は嬉しそうに、「唄子が元気になってよかった……」と心からの言葉をこぼした。


「お兄ちゃんがお母さんを泣かした」

「どちらかといえば唄子だろ」


 俺だって唄子が前みたいに家族の前に出てきて生活してくれるのは嬉しいし、元気な姿で働いているのも感慨深い。が、どうしても複雑さが残る。


 上司が事故で休職状態って環境に、その後任として妹が来たなんて、どう解消すればいいんだ。


「確かに私が心配をかけたのが原因だろうな。そんなことより食事にしよう、そろそろお父さんも帰ってくるだろう」

「そんなことで片付けやがった」


 なんの悪びれもしない唄子は父さんの分の料理にラップをかけて食卓に座る。

 父さんはどうやら残業で遅くなるようだ。


「唄子、明日もお仕事行くの?」

「もちろんだ、仕事だからな」


 ピンと伸ばした背筋、食べ方。どれも上品で百鬼さんを思わせる。こういうところは全然影響されてていいんだよ、こういうところは。


「家でもその口調なん?」

「そうね、ちょっと違和感ね」

「私は生まれてからずっとこうだ」

「「うそつけ」」


 平然と嘘を放つ唄子。

 流石にそれは家族には通じないからな。

   

 ――午前一時。俺は自室で寝ていた。

 眠りにつこうと思ったのは午後十時だ。

 だが、何度もあの日のことを思い出して眠れない。


「百鬼さん……」


 一度掴み、離れたあの感覚がまだ俺の手にこべりついている。目の前で飛ばされた百鬼さんが脳裏に染み付いている。

   

 そして気付く。百鬼さんが俺の人生にとって、なによりも大きな存在になっていたことに。

   

 思えば、俺は入社日から百鬼さんに惹かれていた気がする。


   

 ***


   

 桜が街を彩り、人々が新生活に息巻く四月。

 俺はスーツに袖を通しながらリビングで項垂れていた。


「もー、お兄ちゃん! 今日入社式でしょ? 遅刻だめだからね!」

「夢も希望もないのに、今日から社会人……唄子、哀れなお兄ちゃんに優しくしてくれよ」

「なに言ってんの。いっぱい稼いで妹を甘やかすのが夢でしょ?」


 満面の笑みを輝かせて平然という唄子。


「この妹こわ」


 大学四年の妹は、まだ入社式の億劫さをイメージ出来ないのだろう。俺も昨日の晩まではイメージ出来ていなかったけどな。


「こら二人とも、朝から騒がない。唄子も朝から授業あるんでしょ? はやく支度しなさい」

「はーい」

「怒られてやんの」


 朝食の支度をする母さんが、唄子に対して軽く叱咤するのを見逃さなかった。ここぞとばかりに揶揄うと、脇腹に鈍痛が走った。


「夢都! いつまでダラダラしてんの、ネクタイくらいちゃちゃっと結びなさい」

「へい」


 どうやら母さんは俺に対してもお怒りだったようだ。全く、息子の門出だってのに騒がしい家族だ。


「――ほんじゃ、行ってきます」

「即解雇にならないように注意しなよ?」

「不吉なこと言うな」


 期待など一切なく不安しかない新社会人生活にトドメを刺すような唄子の発言を聞き流しながら、玄関のドアを恐る恐る開ける。


「雨降ってる……」

「お兄ちゃん、グレーのスーツはミスじゃない?」


 そんなこと言ったってもう着替える時間なんてない。

   

 渋々傘をさして職場まで行ったのはいいものの、濡れた箇所が濃く強調されている。裾なんてもうぐちょぐちょだ。


「心機一転が台無しすぎる……」


 オフィスの見取り図を見ながら、指定された別室へと向かう。

 全部署の同期がまとめられ入社式が行われ、今からは部署ごとの説明会が行われる。営業部に配属になる俺は、ただ一人で集合場所へと向かっていた。


「多分ここら辺だよな……」


 無駄に広いオフィスをキョロキョロして歩く。

 色の濃くなったグレーのスーツにタオルを当てて水を吸わせながら、角を曲がろうとした時――


「あだ」

「おっと、すまない」


 角から現れた人影にぶつかり、俺は思わず尻もちをついてしまう。

 だが俺の前に立つ人影は、ブレもせず直立している。手には資料が挟まれたバインダー、この人はどうやら仕事をしながら歩いていたんだろう。


 もしかしてそんなに切羽詰まるほど忙しい会社なのか? 辞めたくなってきた。


「怪我はないか?」

「あ、大丈夫っす」


 目の前で手を差し伸べて俺を引き上げてくれる女性は、俺と同じ色のスーツを着ていて、少し親近感を覚える。


「そうか、なら良かった。君が今日配属の幻中くんか?」


 パンツスーツを華麗に着こなすこの女性は、ハスキーな声でそう尋ねた。


「はい。本日からお世話になります、幻中夢都です」

「私は君が配属される営業部の部長、百鬼天音だ。これからよろしく頼むよ」


 そう言う百鬼さんは、表情をぴくりともさせず黒髪のポニーテールを揺らしながら俺を集合場所まで導いてくれる。

 この人若干怖いな。威圧感というか、感情捨ててる説まであるぞ。


「仕事は大変だが、君なら大丈夫そうだな。期待しているぞ」

「なにを根拠に言ってるかわかんないすけど、期待はしないでほしいっす」

「根拠なら君の態度だ。不思議なことに、私を前にして萎縮しない者はそういないぞ」


 なにを不思議に思うのか。おそらく全人類が怯える。

 態度に出てなくても俺だって、内心はヒヤヒヤしているんだ。ポーカーフェイスが苦手な人は震え上がるんじゃないか?


「百鬼さんって笑わないんすね」

「常に微笑んではいるのだが、まだ表情が硬いか?」

「ふふ、まじすか。真顔ですよ今」


 心底不思議そうに言うもんで、俺は不意に笑ってしまう。初対面の上司を笑うなんて、即解雇にならないだろうか。


「……笑顔は後々習得するとして幻中くん。私は新人にいつも決まった質問をするんだ。いいか?」

「ええ、答えれるものならなんでも」


 笑ったことに対してお咎めはなさそうだが、今から質問をされるらしい。真顔だが凛々しく美しさを感じる眼差しで俺の目を見つめる百鬼さん。


 美形にマジマジと見られるのは、身内以外では初めてのことで少し身構えてしまう。


「君はなぜ営業職にやってきた? ここでなにを成したい?」


 なにか踏み込んだことを聞かれるのかと思ったが、よくある使い古された質問だ。

 俺がここにきた理由? そんなものは微塵も存在しない。


「そこそこの学校出たんで、そこそこの企業を探してたらここになっただけっす。成したいことなんて大層なもんはないっす」

「……」


 どんな回答を望んでいたのだろう。百鬼さんは綺麗な目をパチクリとさせて少し困惑しているように思える。


 なぜだろう、百鬼さんのポーカーフェイスを少しでも崩せたことに少し達成感を感じた。


「失望しました?」

「いいや、身の丈を知らず夢を語る者よりは好感が持てる。だが、まったく……可愛げのない部下を持ってしまったものだ」


 なにをするにも色々と制限されるこんな窮屈な人生で夢なんて持てるわけがない。可愛げがないなんて言われてもなぁ。


「まぁいい。人生を退屈だと悟ったようなその顔、私の下で働けばきっと充実したものに変わる」

「そすか」

「改めてようこそ、我が営業部へ。ビシビシ鍛えて充実した生活を送らせてやろう」

「ほどほどで……」


 立ち居振る舞いからカリスマ性を感じさせるこの人についていけば、俺でもこの人生にありきたりな夢を持って充実した生活ができる。そんな気がした。

   

 そこから俺は三日で学生気分を抜かれ、やり甲斐を植え込まれ、ビシバシ鍛え上げられた。言葉遣いはまだまだお説教をくらう。

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