取引2件目 日課の面会

 ***


   

 虚しい夜が過ぎ、百鬼さんは意識不明の状態が変わらず病院の硬いベッドで眠ったまま、もう一週間。


 そして俺はいつも通り仕事をしていた。周囲も上司の意識がなくて危険な状態だってのに、変わらず仕事をこなしている。


 どんなに凄惨な出来事が襲ってきても、社会人は社会を回す歯車の役目を全うしなければいけない。


 歯車は歯車らしく感情なんて捨てて実績を積めと言わんばかりに仕事が大量に溜まっていく。


「なんのために生きてんだろうな……」


 そう溢しても小難しい数字が映し出されているだけのモニターが慰めてくれるわけではない。


 ぶちまけようのない絶望を抱え仕事をしている時、百鬼さんの後任として妹がやってきた。


「本日から営業部の部長として働かせていただきます、幻中唄子です」


 そう名乗ると唄子は、ザッと辺りの部下たちを見渡す。


「前任者の作業は引き継いでいるので、いつも通り作業してくれ」


 そう冷たく言うと、並べられたデスク群のお誕生日席の位置に独立したデスクに腰を下ろす。


 いつも座っていたかのようにスムーズに座る唄子。突然やってきて平然と振る舞っている。そもそも新しい部長が来るなんて聞いてないぞ。


「唄子、いつの間にそんなキャリア手に入れてたんだよ。というかいつの間に就職活動してたんだ?」

「お兄ちゃん……」


 なにか言いたげな唄子は席から一度立ち上がり、俺へと近付く。


「ここは職場で、今私は幻中くんの上司だ。立場を弁えたらどうだ?」


 そう告げる唄子は俺のデスクに紙の山を置く。これは作業を押し付けられたと解釈していいのだろうか。


「っ……!」


 ぐうの音も出ない俺を、「こいつ正気か?」と言わんばかりの同僚の視線が突き刺す。


 どうやら同僚たちは、俺たちが兄妹ということより、俺が上司にタメ口を使ったことのほうが考えられないらしい。


 この思考はきっと前任者の指導の賜物だろう。


「上司部下の関係の前に兄妹関係の方が重要だろ……とお兄ちゃんは思います」

「ここは職場だ。たとえ肉親でも上下関係は必要だ。君はどうやら仕事に集中出来ていないよだな、それでも社会人か?」

「昨日まで引きこもってたのに……」

「なにか言ったか?」


 俺が今まで見たことのない表情を見せる唄子。

 俺の中でまだ処理が追いついていない。だって唄子は、一度挫折してから家に引きこもっていたのだから。


「なにも言ってない……です……」


 今はもうなにも考えずにただ歯車の役目を全うしよう。

 面倒だし億劫だが働かないと生きていけない。辛い現実もなかったようにしてまで働かないといけないなんて、どれほど非人道的な拷問なんだろうか。


「その資料をまとめ終えたら、来週の打ち合わせについてのアジェンダを作成してくれ」

「……はい」


 いつのまに引き継いでいたのだろう。本当に唄子は俺たちをいつも通り働かせている。というかそもそも百鬼さんと唄子はどんな繋がりが?


「――幻中、今日暇か? 飯でもどうだ?」

「いや、悪い」


 仕事の量が膨大でも、急ぎの仕事以外は翌日に回すルールがあるこの部署では、定時退社が絶対。


 そして今日は金曜日。明日が休日ということもあって、食事会という名目で酔い潰れる輩が多数出現する。


 だが俺はもう今後その輩たちに賛同することはないだろう。


「最近元気ないから心配なんだけど?」

「悪い、けど心配しなくていい。なんでもねぇから」

「そ、ならいい」


 周りに心配されるほど、俺は態度に出ていたのか?


「お先に失礼します」


 大半の同僚が帰宅しても、部長はたまに書類関係の処理等で残っていることがある。それは唄子が部長になっても例外ではないらしい、まだ帰る気配が見えない。


「お疲れ様、気を付けて帰るんだぞ」


 以前ならその労いと心配は百鬼さんからもらっていた。不思議な感覚だ。

 姿形が全然違うのに、どこか百鬼さんを思わせるような安心感が潜んでいる。どうかしちまったのかな俺。

   

 この先俺はこんな違和感を抱いたまま生きていかなければいけないのだろうか、そんな読めない未来に怯えながら向かう先は、重苦しい雰囲気が漂う病棟だ――


「――百鬼さん……」


 正体不明の薬品の香りがツンと鼻を刺すこの病室で、百鬼さんは目を開けることが出来ないまま眠りについている。


 一定のリズムを刻む呼吸器が今の百鬼さんのライフライン。そのライフラインがより鮮明に百鬼さんの容態について不安を煽る。


「今日、百鬼さんの後任を名乗る上司が現れたんすよ……」


 俺はリアクションのない百鬼さんの側で一人ごちる。

 目を覚ました時に、なにもかもが変わってちゃあまりにも辛いだろうから。


「しかもそれが俺の妹なんすよ。いつから唄子と面識あったんすか? あいつ百鬼さんみたいな喋り方で怖いんすけど」


 威厳の大小の違いがあれど、妹が風格ある話し方をするのが少し違和感だ。

 百鬼さんを意識してああなったのなら俺は兄として、悪影響を与えないでくれと文句の一つくらい言ってもいい気がする。


「……百鬼さん、そろそろ返事欲しいっすよ」


 あの日から毎日、俺は百鬼さんに話をしに通い詰めている。今では担当医さんや看護師さんと日常会話をするほどに馴染んでいる。


 だが一向に百鬼さんは目を覚ます気配がない。


「俺そろそろ帰りますね……まじはやく会いたいっすよ……」


 枕元に一つ。俺は今日もまた小さなぬいぐるみを置いていく。

 案外可愛い物好きな百鬼さんが喜びそうなものなんて、ぬいぐるみくらいしか思いつかない。


 俺はまだまだあなたを知らない。だからはやく目を覚まして、もっと教えてくださいよ。


「今帰り? しっかりお話は出来た?」

「まぁ……一方的に話しました。いつものことながら」


 俺がベッド横のパイプ椅子から立つと同時に、病室のドアから看護師さんがやってくる。ちょうど見回りの時間になっていた。


「想いは必ず伝わるからね、めげずに話しかけてあげてね」

「もちろんっす。直接話したいっすから」


 看護師さんに一礼し、俺は百鬼さんのもとを惜しみながら離れた。

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