八時間目 リディアの提案

 夕食を終えて、食堂を出た二人はブラッドの部屋に向かって歩いていた。ジョーンズ家の人々の部屋は二階にある。

 二階に上がるためには、玄関前の階段を上って行くしかない。リディアは、ブラッドを部屋まで送ってからいつも自分の部屋に戻っていた。


 食堂から玄関に向かう為に廊下を歩いていると、何やら屋敷の中にザワザワと慌ただしい雰囲気が流れてきた。

 時間的に、ブラッドの父親でも帰って来たのかしら? と思いながら歩いていたら、玄関が見えてきたところで本当にジョーンズ夫妻が帰って来た。


 しかも何やら夫婦で言い合いをしている。


「もう、あなたは全然私の話を聞いてくれないのだから! ちゃんと聞いてるの?」


「聞いてるよ。その話は、少し様子を見ようと何度も言ってるじゃないか! 執事に聞いたら、ブラッドは真面目に授業を受けてるって報告を受けている」


「でも、今も外で遊んでるってメイドたちが言っているのよ! やっぱり、先生を変えるべきよ!」


 聞きたくて聞いた訳ではないが、残念ながら全部話が聞こえてしまった。横を歩くブラッドも勿論聞こえている。


 玄関に辿り着いたリディアは、ジョーンズ夫婦に向かって大きな声で挨拶をした。


「お帰りなさいませ」


 ジョーンズ夫妻は、会話を止めてリディアを見た。ブラッドも一緒にいたことに不味いと思ったのかお互い目が泳いでいる。


「お父様、お母様、おかえりなさい。いつも遅くまでお仕事ご苦労様。僕、もう寝るから行くね」


 ブラッドは、貴族の子供が言うような言い回しで両親に話しかけた。リディアも横にいてびっくりする。


「あっ、ああ。ただいま。今度、たまにはお父様とも遊ぼうな。おやすみ」


「あら、ブラッドもう寝るの? おやすみなさい」


 父親も母親も、ブラッドの落ち着いた言動に驚いているようだった。そしてブラッドは、驚く両親の前を通って階段を上って行ってしまう。


「リディア先生、行こう」


 びっくりして動けないでいたリディアは、ハッとする。


「では、私も失礼します」


 リディアは、ブラッド夫妻にペコリと頭を下げるとブラッドの後を追って階段を上った。ブラッドに追付くと、彼は悔しそうに唇を噛みしめていた。


 ブラッドの部屋の前に到着したので、リディアは彼の表情が気になり聞いた。


「ブラッドどうしたの?」


 ブラッドは、部屋の扉に向けていた顔を捻ってリディアを見た。


「俺、悔しいんだけど!」


 ブラッドが、怒っているのか強い口調だった。


「そうね。ブラッドはちゃんと授業を受けているものね。さっきも、丁寧な言葉を使っていたし。先生、びっくりしちゃったわ」


 リディアは、ブラッドを誉める。授業を始めた一カ月前ではきっとさっきのような、優等生のような言葉遣いはしなかっただろうから。


「違う。リディア先生は、良い先生なのに母さんは全然わかってないんだ。大体、俺がどれくらいできるようになったか知らないくせに、文句ばっかり言ってさ!」


 ブラッドは、かなり怒っていた。それもリディアを面白く思っていない点について怒っている。

 リディアは、嬉しくて心の中で大きく万歳していた。ブラッドとは、良好な関係が築けていると思ってはいたがこんな風に思ってくれているなんて感動しかない。


(何てことなの! 私の生徒が可愛い!)


 ガバッとリディアは、ブラッドを抱き締める。


「ちょっ、先生、何すんだよ!」


「ありがとう。ブラッド! 先生嬉しい」


「わかったよ。いいから離れて!」


 ブラッドに全力で嫌がられてしまい、仕方なくリディアはブラッドを離す。ブラッドの顔を見たら、真っ赤になっていた。どうやら、恥ずかしかっただけらしい。


(男の子って難しいわ)


 リディアは、頬に手を付きうーんと考える。


「ブラッド、先生いいこと思いついちゃった。明日説明するから楽しみにしておいて。今日はもう遅いから寝ましょう。おやすみなさい」


 リディアは、ニコリとブラッドに笑顔を向ける。ブラッドは疲れてしまったのか、「おやすみ」と言うと扉を開けて部屋に戻って行った。


 リディアは、よし! と気合を入れる。折角、ブラッドと良好な関係が築けて授業も順調に進んでいる。

 居心地よくなってきた職場を辞めさせられる訳にはいかない。何とか、この危機も乗り越えてやると拳を握った。


 次の日の朝、リディアは自分の持っているレターセットと授業の準備を持って勉強部屋へと向かった。

 いつものように扉を開けると、ブラッドが椅子に座って本を読んでいる。何も言われずとも、ブラッドは本を読むようになった。

 こういう成長を是非、ジョーンズ夫妻にも知ってもらいたい。


「おはよう、ブラッド」


 リディアは、元気よく朝の挨拶をする。本から顔を上げたブラッドも、挨拶を返してくれた。


「リディア先生、おはよう」


 教壇に立ったリディアは、持って来たレターセットをブラッドに向かって見せた。


「では、今日はこのレターセットで手紙を書いてもらいます!」


 リディアは、注目! とばかりにレターセットを指し示す。


「誰に書くんだよ……」


 ブラッドは、嫌な予感がするのか渋い顔をしている。


「もちろん、ブラッドのお父様とお母様です!」


 ブラッドが、物凄く嫌そうな顔をする。


「特に書くことなんてない」


 ブラッドは、両親に手紙を書くのは嫌みたいだ。


「これはいい機会です。ブラッドがどれだけ真面目に授業を受けているのか、どれだけ知識を蓄えたのか知ってもらいましょう」


 リディアは、そう言ってどんなことを手紙に書くのか説明を続けた。手紙に書いて欲しいことは、授業についての感想。そして、これからの目標だ。


「別に今言ったことを書かなくてもいいわ。一番重要なのことは、ブラッドが手紙を書けるってこと! きっとお二人ともびっくりするわよ」


 リディアは、二人がブラッドの成長を感じて喜んでくれることを想像する。一カ月前のブラッドには無理だったことが、今はできるようになっているのだ。

 忙しい二人は、ブラッドの普段の様子は全て使用人から伝えられている。実際に、ブラッドの成長を目にしたら喜んでくれるはずだ。


「ちゃんと読んでくれるのかよ? 俺のことなんていつもほったらかしだぜ?」


 ブラッドが、珍しく両親についての愚痴を零す。今まで、ブラッドはこんな風に両親のことを話したことがなかったので新しい発見だった。

 両親から相手にされないことを寂しく思っていたなんて、ブラッドも負けん気は強いけれど普通の六歳の男の子なのだ……。


「ほったらかしってことはないわよ。ちゃんと女家庭教師ガヴァネスを用意してくれてるじゃない? 本当に、お二人はお忙しいだけだと思うわよ? ジョーンズ家の場合、奥様も外でお仕事をしているみたいだから」


 リディアは、ブラッドの両親について説明をした。両親と顔を合わせる機会が少ない理由を、誰かに聞いたことはなかったようだ。


「普通は、母さんは仕事してないのか?」


 ジョーンズ家しかしらないブラッドは、きっと母親が働いているのは普通のことなのだろう。

 だけど、この国では富裕層の家庭の女性が外で働いているのはとても珍しいことだ。ほとんどの女性は、家庭内のことを取り仕切っている。

 貴族の令嬢になると、外で働くと言えば女家庭教師ガヴァネスしかない。それも、かなりの例外なのだけれど……。


「ほとんどの人は、家の中で仕事をしているの。ブラッドのお母様は、この国でも珍しい方なのよ。だから男性に負けずに外で働く女性の憧れでもあるわ」


 たまに目にするブラッドの母親を思い浮かべながら、リディアはしゃべっていた。リディアに対しては、いつもキツイ言い方をするが身だしなみは恰好良いし常にできる女性のイメージが漂っている。


「ふーん。初めて聞いた……」


 ブラッドは、母親の知らなかった一面を知って思うことがあったようだ。


「じゃー、とにかく一回書いてみて。最初だし失敗していいから。たくさん書いて、一番いいものを渡しましょう」


 リディアは、手をパチンと叩いてブラッドに書き始めることを促した。ブラッドは、渋々ペンを持って便せんに向かった。 

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