第3話 盗聴犯

リビングには空気清浄機の機械音が虚しく響いている。


「…許せない。」


誰に対して向けられた怒りか自分でもよくわからない。


盗聴されたかどうか不確かでも、母を苦しめた母の元彼が許せない。


一番身近にいて、辛い思いをしていた母を信じなかった父が許せない。


「盗聴されてたことは事実なの?」


父は体の中のすべての空気を吐き出すようなため息をついた。


額にはじんわり汗がにじんでいる。


「…ああ…。」


その一言に胸が締め付けられる。


父や元彼に抱いていた嫌悪感や怒りは、より大きく激しく強いものに変わった。


「許せない!」


黒く赤く、どうしようもない、ぶつけようのない感情が腹の底から湧きあがる。


「調べてもらうか迷ったけど、それが綾音の遺志だから…。」


父は意味のないことはしない。


何事も合理的に建設的に前向きに考えるタイプだ。


母の生前盗聴器を探すことをしなかったのも、病気だと薬を飲むように促したのも、父の性格を物語っているようだ。


盗聴犯を探し懲らしめること、それが母の最期の願いだとしたら、父はそれを叶えるのだろうか。


いや、犯人がわかった今でも犯人に手を下すことはしないだろう。


そういう父だとわかっているからこそ、母の遺志を継いで盗聴犯を探し出そうとしたことだけでも、わたしの心を鎮めるのには十分だった。


 握りしめたこぶしを少し緩めても、空気清浄機の音は耳に届きはしなかった。






 琴音が県外へ向かった。


ソファに座り、ぼんやりと昔のことを思い出す。


テレビもつけず、音のない世界にひとり、こんなときには物思いにふけることが多くなった。


―琴音もいよいよ大学生だよ。


綾音の遺影に向かって心の中で話しかける。


ふと、琴音のアルバム写真を開いてみようと思った。


デジタル社会の現代でも、日々琴音の写真をおさめるたびに、綾音が律儀に写真屋さんへ現像しに行っていたものだ。


リビングを出て、物置部屋と化した空き部屋に足を踏み入れ、一直線にアルバムが仕舞ってある棚を目指す。


棚の上に、ヨックモックの缶が置いてあるのが目に入る。


―あれ、この中は何が入っていたっけ。


少しほこりのかぶった缶の表面を手でぬぐい、中身を開けると、白い封筒が入っていた。


―ああ、綾音の…。


そこで走馬灯のように頭によぎったのは、大事な妻を悩ませる原因となった、ある男の名前だった。


―石井光(イシイヒカル)。


俺は、この名前を一生忘れることはないだろう。ヨックモックの缶が小刻みに揺れる。


甘いお菓子が入っていたであろうその缶には、今はもうその名残さえも残っていなかった。

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