第118話



 桟橋の終わりとともに、春陽と別れ、私と飛燕は色の屋敷に向かって歩いていた。


「ねえ、飛燕」

「なあに、珠香さん」


 ようやく、これで飛燕ともゆっくり喋れるようになった。が、まあ飛燕は迷惑だろうな。そう思いながら飛燕の顔を覗き込むと、あのぼんやりした顔ではない表情で、私を見返していた。その顔は、反則だ。可愛らしい子の真面目な顔って、こう、なんかすごく良い。


「さっきの話の続き、しても良い?」


 思わずお伺いを立ててしまうと、ふと飛燕が笑った。そして、ゆっくり首を横に振った。それに慌てて私が口を開こうとすると、飛燕が先に言葉を発した。


「珠香さん、本当に人が変わったようだね。あなたの願いが本物だって、僕にもわかるよ。僕もその願いを応援してあげたい」

「じゃあ」

「でも、僕はやっぱり尹の人間なんだ。おじさんを裏切るような真似、できない。あの人は最低な人だけど、けれど、僕と、母様の命の恩人なんだ」


 倭都なら、ここで癇癪を起していただろう。なんで自分の気持ちに素直にならないんだ、って。

 でも、その返答は、想定の範囲内よ飛燕。私の本気を舐めてもらっちゃあ、困る。


「そうなのね、飛燕。色さんに恩義を感じているのね」


 私が、えらくあっさり引き下がるような事を言ったので、飛燕はちょっと驚いたような顔をしたあと、ゆっくり頷いた。驚いた顔をした、という反応だけで、今は十分。


「じゃあ、色さんが外に出ても良いよって言ったら、飛燕は良いのよね」

「えっ?!」


 飛燕の驚いたような声が、可愛らしい。思ってもない方向から攻められて、反応に困っているようだ。よしよし。


「む、無理だよ、珠香さん。あのおっさんが、そんな」

「そんなの、聞いてみないとわからないじゃない? 考えていてね、飛燕。この先を」


 手を胸の前で組みニンマリと笑うと、飛燕は、見た事もないような引いた表情で私を見ていた。失礼な。






 飛燕とお話していると、無事に色邸に着いた。ところでハッとした。

 そうだ、この日も色に料理を出すために市場に行ったんだった。

 何か買ってたっけ。思わず両手を見ると、当たり前だが、手ぶらだった。飛燕を見ると、飛燕も手ぶらだった。当たり前だ、春陽と手合わせするときも何も持ってなかったし。

 ど、どうしよう、この日何作ったっけ?


「どうしたの?」


 飛燕が、さすがにソワソワしだした私に気づいて、声をかけてくる。


「わ、私、今日、市場で何か買ったっけ?」

「今日? 今日は、何か買う前に、迷子になったでしょう」

「そうだった……。まあ、いいや。何かあるものを使わせてもらおう」

「今日も作るの? 元気なんだね」


 ちょっとした言葉のトゲが刺さった気がしないでもないが、気にしないぞ。二度目だし。


「私がやりたいって言いだした事だからね。それじゃあ、飛燕。明日もよろしくね」

「うん」


 ぼんやりした顔に戻った飛燕が、いつものように返事する。いつか、この表情もしないようになったらいいな、なんて。

 去って行く飛燕の後ろ姿を見送って、私も家の中に入っていった。




 中には丁香が居て、私を出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 いつも通り完璧なメイドさんの顔。懐かしさのようなものを感じて、胸がじんわりした。彼女は完璧の仮面を被っているけれど、その仮面の下にはちゃんと情が流れているのを知っている。


「ただいま戻りました」

「あら、今日はお買い物をしてこなかったんですね」


 ふと、手ぶらの私に気づいて、丁香が声をかけてきた。珍しい。


「そうなんです、なんとなく良いものが見つからなくて。今日は、ここにある食材を使わせてもらう事は出来るでしょうか」

「可能だと思います。厨房長にも言っておきましょう」

「助かります、お願いします」


 そこまで言って廊下に上がると、丁香にじっと見られた。きょとんと見返すと、ついと視線を外された。なんだろう。やっぱり変な人間だなあって思ってるんだろうか。



 とりあえず一旦部屋に戻り、いつも通りに厨房に向かうと、丁香が言ってくれたらしく、厨房長がいくつかの魚を台の上にのせてくれていた。市場でもたまに見る魚達だが、捌いた事が無いのもある。


「とりあえず、女僕長に言われて魚を出してきたけど、どうするんや?」


 ああ、いつも通りの厨房長。なにもかもに胸がじんわりする。戻れて、良かった。本当に、あの子のおかげだ。

 何とか表情をとりつくろい、私は魚を見てみる。

 さっき思い出したんだけど、この日は魚でつみれを作って出したんだっけ。確か、ちょっと味が微妙だったんだよね……あの子も言ってた。せっかくだし、ちょっと改良しようかな。


「この中で、調理しても味が強く残って、美味しい魚ってどれですか?」


 一緒に魚を見ている厨房長に聞くと、彼はふむと少し考えて、ある魚を指さした。


「これやろな。漁師たちは好んで採れたてをそのまま焼いたり、生を刻んだりして食べるそうだ。良くとれるが、美味い魚だぞ」


 それは、あじのような中型の魚で、ちょっと顔が深海魚に似ていた。一匹三枚おろしにしてもらうと、中身も鯵のような薄い赤身だった。細かい骨が多いそうだが、それはみじんにすれば解決するだろう。

 よし、今度はこれで作ってみよう。

 そう決めてからは、早かった。一回やった事だからね。



 作り終わって、いつものようにみんなで味見をする。前よりも反応は良さそうだった。

 厨房長も、これなら、いつもの料理のレパートリーに加えても良さそうとも言ってくれた。良かった。ちゃんとリベンジできた。

 作り終わって盛り付けられたのを、丁香達が運んでいくのを見送る。

 ふーっと、ちょっと放心してしまった。

 と、そこへ厨房長から声をかけられた。


「いやー、今日も奇天烈な料理やったなあ。旦那さまも喜んでくれると思うわ」

「それなら、良いんですけど」


 返事に、ちょっと力が入らなかったからだろうか、厨房長が心配そうにその太い眉を下げた。


「なんや、今日は元気ないな。なんかあったんか?」


 その心配の言葉は、もう全く親戚のおじさんといった風で。ちょっと笑ってしまった。丁香から注意されているのになおらないし、私もこれぐらい気安い方が良いと思っているのが伝わってるのだろう。

 厨房長の言葉に首を振ろうとして、ハッと思いついた事があった。深く考えず、聞いてみる。


「あの、私、色さんの甥っ子の飛燕と仲が良いんですけど、彼があんまり色さんの事良い風に言ってなくて。二人は仲が悪いんですか?」


 私がちょっと悲しそうに言うと、厨房長はあちゃーという顔をして、どう答えようか困っているようだった。この人、丁香とも対等に喋れるし、ここでの年季が長い人だろうと思っていたけど、どうやら当たりだったらしい。


「あの二人はなぁ。坊ちゃんはまだ子供だから、旦那さまの女癖の悪さが、気に入らんらしい。大きくなって、女を知ればまた考えがかわるって」


 女、の私の前でこういう意見を普通に言ってくるのが、いかにも田舎のおじさんって感じだ。ちょっと眉を寄せると、さすがにまずいと思ったのか、ちょっと厨房長は慌てた。


「おっと、これはお嬢さんには失礼でしたな。まあ、坊ちゃんもいつかわかってくれるやろうって、旦那さまも言っとるし。旦那さまは坊っちゃんを可愛がっておられるよ。あとは、坊ちゃんの方がもうちょっと心開いてくれたら良いんやけどねえ」


 最後は苦笑しながら、別の人に呼ばれて厨房長は向こうに行ってしまった。

 ふむ。

 どうやら、色の方は飛燕を気にしているという感覚は、間違っていなかったらしい。

 飛燕を通して色を見ると、どうしても、色に恩も感じてるけど、嫌悪も抱いているから、ああいう感じになってしまうのだろう。

 だけど、色から見た飛燕は違う。

 色を説得するのは、結構何とかなるかもしれない。

 大丈夫大丈夫、綜の宰相を説得するのとは難易度が違うんだし、いけるいける、と自分に言い聞かせ続けた。

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