番外編 教えて!風伯先生

 戴への出立を、三日後に控えた日。


 戴への旅支度に慌ただしいのだけど、今日は特別、作業の予定を開けておいた。

 今日は、風伯先生の個人授業の日だ。

 私達瑞の兄妹は、知識人として名高い風伯先生に父が頼み、個人授業をしてもらっている。字の読み方、書き方から、地理、歴史、社会。なんでもござれで、前世の記憶をもって転生した事に気づいた私が混乱なくやってこれたのも、このチート級の先生がいてくれたおかげだ。

 ちなみに、先生はお城の中で大史たいしという、国の歴史を綴る仕事のちょうをしている。のちに、歴史書として残るものを書いているそうだ。さらに、長兄である伯景の上司であり、師匠でもある。私達兄妹は、本当に風伯先生に頭が上がらないのだ。

 その先生の授業を、私は月一で受けている。他の兄妹は勤めている為、先生の授業は卒業している。だが、私だけは先生と父にせがんで、授業を続けてもらっている。18歳で成年になるなら、それまでは勉強をしていたい。そのわがままで、先生には月一回時間を作ってもらっているが、最近は、穏やかに世間話をしてお茶を飲んでいる事も多い。

 一通りの教養は教えてもらった。それ以上は、役人になるか貴族の家を継ぐような事が無い限り、男性でも学ぶ人は少ないそうだ。女性で、役人になるわけでもない私には過ぎた授業だが、先生はそれなりに私が興味がある所を教えてくれる。必要な教養をたたき込まれるまでは、かなり詰め込み教育だったので、今ぐらいが一番楽しいのだ。

 今日は、私が出向くのではなく先生が来てくれるので、お茶を用意した。祖母に出したのより、軽めの味で、喉を潤すのに適していると思う。

 使用人の人が、先生の訪問を告げた。


「やあ、珠香。聞きましたよ、戴に行くそうですね」


 先生は、いつものように物腰柔らかにに入って来た。

 先生は細身で長身で、目が細い。糸目というやつなのだが、たまに薄目を開く時もある。開いたら開いたで眼光が鋭いので、ちょっと怖い。いつもは、微笑むような顔なのだけど。髪はまっすぐ長く、ゆるく後ろで一つ結んでいる。男性のロングなんてと思っていたが、先生には良く似合ってた。知的で柔らかな雰囲気で、いつも穏やかな表情の素敵な(年齢不詳の)先生だ。もし結婚できるなら、先生みたいな人が良いなと淡く思っている。穏やかで、賢くて、やさしい、そんな人。ただ、これが恋かといわれれば、首をひねるしかないのだけど。


「先生は、流石に耳が早いですね」


 先生が脇に抱えた書物を机の上に置いて座ったので、お茶を出した。先生はそのお茶を一口すすり、面白そうに、ふふと笑った。


「玉が言っていましたよ、姉さまが戴に無理やり行かされる、と」

「まあ、無理やりというか、断り切れなかったというか」

「そうですか。大変でしたね。今日は、戴の話と巍の話が聞きたいかと思って、持ってきましたよ」


 先生はそういうと、卓子に置いた書物から一冊の本を取り出した。私も、先生の対面に座る。しかし、さすが先生。勘が良いというか、わかってらっしゃるというか。私が戴に行くのを、不安に思っているのを汲んでくれているみたいで、ちょっと嬉しい。


「さて、珠香。まず、巍と戴の成り立ちは覚えていますか」


 先生が書物をめくりながら、何とはなしに聞いてきた。ちょっと背筋をピンと伸ばす。


「ええと、今の舜王朝しゅんおうちょうが、昔々一番最後に征伐して、加えた地域が、戴と巍です。えっと……」

「まあ、良いでしょう。戴も巍も、当時の王朝の中心地からだいぶ離れた地域だったのと、昔から独自の文化をもった広い土地であったため、支配が遅れたのですね。その時の独自の文化と、支配した舜王朝の文化がまじりあって、なかなか独特な発展をしているようですね」


 先生は、微笑みながらも、言外に点数をつけているのがわかる口調で言った。よかった、なんとか及第点だったみたいだ。


夷狄いてきの侵入と腐敗で一度バラバラになった後、各地の領地を持つ領主達が諸侯として立った時、戴と巍もそれぞれ諸侯として認められました」

「はい」

「そして、舜王朝の権威が弱くなると、舜王朝のかわりにバラバラになった諸侯を束ねる諸侯が現れるようになりました。これが、盟主です。今まで、いくつかの国がその役割をしてきましたが、今は環と同盟をしてきた綜がしていますね。巍が盟主になった事はありませんが、おそらく今の勢いのままだと、早かれ遅かれ盟主の座につくでしょう。その巍とずっと同盟を組んでいるのが、戴。ここ最近戴が同盟を持ちかけてきたのも、その布石かもしれませんね」


 先生は、パラパラと書物をめくりながらも、すらすら説明してくれる。が!実は二割ぐらいしかわかってない。そもそも夷狄ってなんだっけ、レベルなんだけど。前に、諸侯の話が出た時も確かに聞いた気がするが、完全に忘れてる。バレないようにしないと…。


「戴はまだ中心寄りですので、戸惑う事も少ないでしょう。地理的には、大河が多いようですね、そのような記述があちらこちらにあります。舟は苦手ですか?」


 先生は、目当てのページが見つかったのか、そこを手で押さえ私に渡してきた。急に来た問いかけにビクッと身構えたが、すぐ気付いた。


「舟、というか、乗り物系が、あんまり好きじゃないです」


 戴への移動手段が舟である可能性が高いので、聞いてきたのだろう、と。心配してくれているのだろうか?

 先生は少し苦笑しながら、私がその書物を受け取るのを見ていた。私といえば、ろくにそのページを見るでもなく、受け取った場所に目印に帯に挟んでいた扇子を置いた。


「そうですか。揺れますからねえ」


 先生の言葉に、力強く頷いておいた。先生はより深く苦笑していた。

 この時代、クッションとかサスペンション?の概念が無い。つまり、地面の凹凸はダイレクトに尻に響くし、舟はそもそも小さくて揺れる。最悪だ。飲んだら一日中効く酔い止めなどあるハズもなく、ある程度緩和してくれる薬を飲んでやり過ごすしかない。だから、長旅になる戴には、行きたくなかったのに。


「慣れたらなんてことないですが、ご婦人はそうそう旅に出れませんからねえ」

「先生は昔、色んな所を旅されていたんですよね」

「ええ。主に北と西に行きましたよ。そういえば、あなた達の父と会ったのも、その頃でしたね」

「父とですか?」


 それは、初耳だった。昔からの友人、というのは聞いていたけど、その出会いというは効いた事がない。先生は、懐かしむような、それでいて面白そうに、笑っていた。


「劉勇と、母親である紫雲さんが、岐邦きほうに里帰りしている途中で、たまたま会いましてね。何故か劉勇に懐かれて、そこから、気づけはだいぶ経ってしまいましたねえ」


 先生は、おかしそうに笑みをこぼし、また一口お茶を飲んだ。減った茶杯に、お茶を注ぐ。先生はありがとうと言ってくれる。そういう所、良いなと思う。

 岐邦というのは、瑞家の生地であり、領地だそうだ。私達兄妹は、この環の首都で生まれ育った。それは、父が国の重要な役職に就いたのと、父の弟、私達の叔父がその領地を治めてくれているからだそうだ。だから、祖母の時代は、まだ領地と首都を行き来していたという。

 ふと、思った。絶世の美女と評判の、祖母の若いころ(全盛期)を、先生は知っているだ。


「先生は、若い頃のお祖母様を知っておられるんですよね。お綺麗でしたか?」


 考えるより先に、口が動いていた。先生は、おや?という顔をしたが、すぐにいつもの微笑みに戻った。


「ええ、お綺麗でしたよ。美女、というのはまさにこういう人のことをいうのだ、と思ったのを鮮明に覚えているくらいには。ただ、紫雲さんは、性格が豪胆ですからね、美しいというより、強い人だなと思いましたよ」


 先生らしい答えだなあと、思った。強い人、というのは良くわかる。老いてなおああなのだから、若いころは言わずもがなだったのだろう。そして、ちょっとホッとした自分がいた。ホッとした?


「さて、話がズレてしまいましたね。ともかく、戴に行くのであれば、舟旅は覚悟しておいた方が良いでしょう。ただ、川が多いため、家屋が水路にせり出して建っているそうです。環にいては珍しい風景でしょうから、楽しめると良いですね」

「はい。とりあえず、行ってみます」


 その意気です、と言って先生は残っていたお茶を飲みほし、立ち上がった。今日の授業は終わりのようだ。書物は、私に貸してくれるようだ。後で読んでおかなければ。

 先生を見送る為、私も立ち上がたった。そうだ、一つ聞いておきたい事があったんだった。


「先生。今度の戴に行くのに、使用人を一人連れていけるのですが、慶珂を連れて行こうと思っています。どうでしょうか」


 いつものように扉をくぐろうとする先生の背中に、問いかける。先生は止まって、振り返ってくれた。首をひねり、何か考え込んでいる。先生の勘は、よく当たる。聞いておこうと思ったのだ。


「そう、ですねえ。何とも言えないですね。良いも悪いも、未来は無限にありますから。それより、身の回りを世話する使用人なら、女性の方が良いのではないですか?慣れない旅になるならなおさら」


 現実的な事を心配されてしまった。


「それも考えたんですけど、一応一通りの事は自分でできますし、護衛代わりに連れていこうかと」

「護衛なら、丁度いいのが二人もいるじゃないですか」


 先生が、笑って冗談を言う。珍しい。ちなみに、二人とは双子の事を指していると思われる。私は肩をすくめて、先生を見た。


「一人、と言われましたし、実の兄弟を使用人と偽るのも気が引けます」


 先生は、おかしそうに笑っていた。


「あなたは、本当に不思議な子ですねえ」


 先生はどうも、私が転生して戸惑っているのを、わかって面白がっているふしがある。私は困ってます、先生!


「まあ、なんであれ、旅の無事を祈っていますよ。帰ってきたら、土産話でも聞かせてください」


 そう言うと、先生はまた優雅な感じで帰っていった。

 とりあえず、頑張って行くだけ行って、さっさと帰ってきて先生とお茶が飲みたい。強くそう思った。

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