魔法

芳田紡

魔法

 昔、一体で街を滅ぼす危険性を持つような魔物が大量に発生し、壊滅の危機に瀕した国があった。


 多くの都市が魔物たちに破壊され、息を呑む間もなく国の都へと魔物たちはたどり着く。


 もうダメだと全ての人が思った時、一人の魔法使いが現れた。


 杖を一振りすると、魔物の大群が吹き飛び、また杖を一振りすると、人々の傷が癒える。


 魔法使いはすぐに大量の魔物を全て葬り、その王国は今もまだ存在し続けている。

その魔法使いは、騒動の後姿を消したものの、国中から尊敬を集め、こう呼ばれている。

"救国の魔法使い"と。




 *




「エリーちゃん!ロイドくん!どこにいるの!…ぐずっ」


 短く艶のある黒髪に、透き通るような白い肌。灰色の瞳には涙が浮かんでいた。


 とある村の農家の娘であるアイラは、幼なじみの少女であるエリーと少年のロイドと共に、村の外に出て遊んでいた。しかし、一瞬ぼーっとしている間に、二人の姿が見えなくなっていた。


 つい先ほどまで晴れ渡っていたはずの空は、いつの間にか灰色の雲で覆われている。

 それは、幼いアイラの心には強く影響を与えた。


「うぅ…うわぁ〜ん!!」

 

 ついには大きな声で泣き出してしまった。


 その瞬間。


 バキッ、という枝を踏んだような音が鳴る。


「っ、やっと来てくれた…の…?」


 アイラは、ようやく二人が自分を見つけてくれたのかと思った。

 しかし、音のした方向をアイラが見ても、そこには二人はいない。


 かわりに、薄汚い緑色の皮膚の、卑しい笑みを浮かべた小さな鬼…ゴブリンがいた。


「グギャッ!」


 ゴブリンは、くちゃくちゃと口から音を鳴らし、だんだんと口角を上げながらアイラに近づいていく。


「い、いや!!こないで!」


 アイラは叫ぶと、背を向けて急いで駆け出す。




 それからしばらく走った時、ついなアイラは足を止めてしまう。


「はぁっ…はぁっ…」


 後ろからはゴブリンが近づいて来る音が聞こえてくる。


 アイラは涙で視界はゆらゆらと歪んでいて、子供の体には辛いほど全力で足を回していたため、止まった途端急激に心に傷を負ってしまう。


(なんでこんなことになってるの…!わたしは二人とたのしくあそんでただけなのに!!もういや…)


「だれか…たすけてよ」


 思わず漏れ出てしまった呟きは、なんの事象も引き起こすことはなく消えていくとアイラは予想した。


 しかし、その予想は裏切られる。


「任せなさい」


 空から男の人の声が聞こえて来る。

 驚いて、パッと空を見てみると、そこには身長が高く、長い金髪を靡かせながら杖を振る、耳の長い男性がいた。


 振られた杖の先から、鋭い氷の塊が出現し、ゴブリンに向かって相当な速度で飛んでいく。


「グギィッ…!」


 氷の塊は見事にゴブリンの眉間に突き刺さった。

 ゴブリンは血を流しながら後ろに倒れ込む。死んだのだろう。


 それを見届けた金髪の男性は、ゆっくりと空から降りてきてアイラに声を掛ける。


「大丈夫ですか?怪我は?」


(お耳がながい…はじめて見た…まほうつかい?のひとなのかな)


「あの?」


「ひゃ、ひゃい!?」


 アイラは初めてみる男性の容貌とゴブリンを倒した魔法に注目していたので、掛けられる声に遅れて気がついた。そして、慌てて返事をする。


「ふふふ、慌てなくていいですよ。怪我はありませんか?」


 そんなアイラの様子に、思わず笑みをこぼしてしまう男性は、再び怪我がないか聞く。


「えっと、さっき走ってるときにね、木の枝でおててを切っちゃった」


 ゴブリンから逃げている時に小さか怪我をしたアイラは、おずおずとしながらも切った手を男性に見せる。


「ふむ…大丈夫だとは思いますが…」


 男性は少し悩んだ様子を見せる。


「そうですね…まだ子供のようですし、変な病気のもとでも入り込んでいたら厄介です。一応私の家で洗っておきましょう」


 アイラは気づいていないが、ゴブリンからの逃走中に、村からはだいぶ離れたところまで来てしまっていた。


 森の中ではゴブリンなどの魔物も多く存在しており、村とは大きく環境が違う。

 ある程度成熟した人であればともかく、子どもでは病の原因に耐性がついていない可能性が高い。基本的な体力も少ないため、もし病に陥れば異常にに悪化することも考えられる。


 それを防ぐため、男性はアイラを家に招くと言った。


「…」


「大丈夫、傷を洗ったらすぐに村まで送ります。一人で帰るよりは安全ですよ、見ての通り私は魔法使いですから」


 男性は不安そうな目で警戒しているアイラを見て、それを取り除くために説得する。


「…うん、ありがと!」


 幼いながらも納得したアイラは、お礼を言ってから男性の後ろを歩き始める。


「おにいさん、なんてお名前なの?」


「ああごめんなさい、まだ言ってませんでしたね。私はマーリンと言います。あなたは?」


「わたしはアイラ!よろしくね」


「はい、よろしくお願いします」


 歩きながらもアイラは色々と質問をする。


「マーリンは、なんでお耳が長いの?」


「私のように耳が長く、尖っていて、寿命が長い種族はエルフと言って、あなたたちとは種族がちょっと違うんです。私はその中でも少し特殊なんですが…」


「へ〜、そうなんだ!すごいね!」


「ふふ。すごいですか、ありがとうございます」


 幼いアイラにとって、珍しいものはすごいものである。子どもながらの無邪気な言動に心を和ませたマーリンは、口を綻ばせる。


「さっきの、わるいやつを倒したやつがまほう?」


「ええ、あれが魔法です。怖くは無かったですか?」


「えっとね、きれーだった!」


 マーリンが使った氷系の魔法は、氷が現れる際に周囲に雪の結晶を舞い散らせる。アイラは、それを見ての感想を答えた。


「綺麗…ですか。そうですね、綺麗なものですよ、魔法は」


「ねえねえ、わたしにもまほうって使えるの?」


 目を輝かせたてマーリンに尋ねる。


「そうですねえ、大変だと思いますけど、一生懸命練習すれば、使えるようになるかもしれません」


 この世界で、魔法を扱える人はごく僅かである。しかし、それは才能云々が原因ではない。いや、もちろん才能も大きく関わるが、魔法は理論上誰でも扱える。だが、そのためには大量の知識が必要なのだ。貴族でもなければ上等な教育を受けることは難しく、その教育でさえも魔法を扱う上では最低限の知識にしかならない。

 度重なる研鑽の上に成り立つのが魔法なのだ。


「ほんと!?じゃあ、わたしにまほうを教えて!」


「それは…うーん…」


「おねがい!」


「ぐっ…まあ、その話はまた後で。さ、もう着きましたし、早いところ洗ってしまいましょう」


 話をしているうちに、二人はマーリンの家へ辿り着いた。

 その家は、村娘のアイラから見ると相当綺麗な外観をしていて、アイラは心を躍らせる。


「わ!あれがマーリンのお家?すごい!」


「私が建てたんですよ。流石に苦労しましたが」


「マーリンは大工さんでもあるの!?」


「まさか。魔法を利用してですよ」


「なんでもできるんだね!まほう使いの人はみんなできるの?」


「自分で言うのもなんですが、流石にほんの一握りだと思います。家を建てるとなるとね。ほら、こっちに来てください」


 マーリンは家のそばにある井戸に近づき、水を汲み上げる。


「自分で洗えますか?」


「洗えるよ!」


 桶の中にある水に手を入れて、傷を洗う。


「いたっ…」


 傷口に水がしみる痛みに、アイラは思わず顔を顰める。


「これでいい?」


「ええ、大丈夫でしょう」


「マーリン、まほうでケガはなおせないの?」


「治せたら便利なんですが、治癒は聖女と呼ばれる人しかできないんですよ」


「ひとりだけ?」


「そうなんです」


「ふーん。あっ、それで、わたしにまほうを教えてくれる!?」


 マーリンは顔を引き攣らせながら、深く考える。

 これが一過性の興味に過ぎないのであれば、アイラの人生を魔法の習得のために使わせることに躊躇いがあるからだ。

 しかし、真剣に考えてくれているのだとしたら、魔法使いとしては教えてあげたい。

 

 マーリンは、伝わるかはともかく、一旦アイラに聞いてみることにした。


「アイラ。魔法というのは、使えるようになるためにとても長い時間がかかります。一年や二年じゃありません、どんなに才能があっても、最低十年単位で時間がかかります。もし軽い気持ちなのであれば、あまりお勧めはしません」


「わたし、ほんきだよ!!」


「…本当に?なぜ、この短い間にそんな気持ちが芽生え…」


 途中まで口に出して気づく。

 マーリンにとってはなんでことはない出来事だったが、アイラからしてみれば命を救われたのだ。

 自分を救った技術を収めたいというのは自然なことだろう。


「それにね、まほうが使えたら、お友だちも守ってあげられるし!マーリンが私を守ってくれたみたいに!」


 魔法とは、殺傷能力のある以上やはり危険である。悪意ある事件に魔法が用いられることも稀だがあり、そのような事件は大体が甚大な被害が出る。

 他人を守るために、という理由で魔法習得を志せるのは、一種の才能と言ってもいいだろう。


「…わかりました。であれば、弟子として教えましょう。まあ、アイラのご両親が許してくれればですが」


「やったー!!」


「ふふふ。よし、いいものを見せてあげます」


「いいもの?」


「ええ、きっと気に入ってくれるはずです。魔法がどれほど綺麗なものか、見ててください」


 そう言うと、マーリンは杖を手に取り、呪文を唱え始める。


「『■■■■■■■』」


 アイラにはそれが何を意味する言葉なのかまるでわからなかった。


 瞬間、世界から音が消えた。



 


 黄色がかった、こちらを見つめているかのような、大きな、大きな月。

 夕陽の赤と夜の青が溶け合い、鮮やかで繊細なグラデーションを描く空。

 空を反射し、幻想的に足元をに彩りを生み出す水の地面。


「わぁっ…!」


 アイラは、ここで見た景色を死ぬまで忘れないと心から思った。


「すごい…すごい、すごいすごい!!すっっごくきれい!!」


 周囲を見渡し、後ろで肩で息をしているマーリンを見つけると、少ない語彙でできる限りの賛辞を送る。


「それは、ふぅ、よかった…はぁ」


「ねえ、ここどこなの!」


「どこだと思いますか?」


「わかんない!」


「ふふふ、ですよね。まあそのうちわかりますよ。まだ知らなくてもいいんです」


「そっか…でもわかるならいいや」


「…これが、魔法です。感動しましたか?」


「うん、すっごく!」


 そう言うアイラの顔はこの場所にも負けず劣らず輝いていて、マーリンは今日何度目かの笑みを浮かべた。




 *




「マーリン、おはよう!」


「アイラ、おはようございます。今日も早いですね」


 陽が体を焦がす季節。ようやく日が昇り切った時間に、アイラはマーリンの家にやってきた。


 出会いから長い時が経ち、アイラの容姿はかなり成長していた。

 身長は大きく伸び、マーリンの腰あたりまでしかなかった身長は、首元あたりまで伸びていて、短かった黒髪も腰ほどまでに長くなっている。

 顔からはあどけなさがなくなり、成熟した雰囲気を醸し出している。


 マーリンはちっとも変化はないが。


「今日も『守護魔法』を教えてくれるんだよね?」


 アイラがマーリンに師事するようになって約十年ほどなのだが、アイラはすでに魔法を扱えるようになっている。


 魔法を初めて発動させたのは二年ほど前。これにはマーリンも驚きを隠せなかった。


「ええ、ですがまずは朝ごはんを食べましょう。用意してありますよ」


「あ、そうだね。いつもありがとう!」


 二人のいつものやり取りである。





 午前中は攻撃系の魔法の復習をして、午後。


「さて、『守護魔法』ですが、昨日で無詠唱で発動できるようになりましたね。」


「うん!」


「なので、今日から実践練習です。私が適当に攻撃魔法を撃ち続けますので、防いでください」


「わかった!いつでもいいよ」


 アイラの言葉から、実践練習が始まる。

 マーリンが杖を振り、いくつかの火の玉がアイラに襲いかかった。


 アイラは先ほどまでの楽しげな顔とは違い、冷静な表情で杖を振る。


 すると、二人の間に魔力の壁が生まれた。


 火の玉は魔力の壁に阻まれ、小さく爆発してなくなる。


「悪くないですが、障壁の強度にムラがあります。魔力を均一にすることを意識すること」


「やっぱりか〜…もう一回!」


 このようにして、毎日修行が続いていく。




 *




 マーリンがアイラを弟子にして約十二年。


「アイラ」


「なにー?」


「あくまで提案なのですが、ウチに住みませんか?」


「ふぇっ!?…それって、家族になろう的なそういう…」


 アイラは今年で十七歳。恋愛ごとに敏感な年頃である。


「…?たしかにアイラのことは家族のように思っていますが、そういうわけではなく」


「…なーんだ」


 頬を薄く赤色に染めながら膨らまし、あからさまに拗ねたような表情をするアイラ。


「えっと、なにか気に障りました?」


「…いいから続けて」


「はあ。アイラも知っているかと思いますが、一七〜二十歳までの三年間は魔力の制御、量ともに大きく伸びる期間です。この期間に集中的に鍛えたいなと思っているのですが…」


「…はぁ、まあそんなことだろうとは思ったけど。マーリンはもうちょっと乙女心に敏感になった方がいいと思う」


 ちなみに、マーリンは長い人生の中で一度も女性と恋愛関係を持ったことはない。


「えぇ…なんの話です?」


「…うん。気にしないで」


「それで、どうですか?」

 

「それはこっちからお願いしたいくらい。よろしくね!」


「そうですか!よかったです」


 マーリンはほっと胸を撫で下ろす。

 いくら千年以上を生きているエルフとはいえ、人に一緒に住もうと提案するのは緊張したらしい。


「たしか空いてる部屋にベッドあったよね?」


「ええ、準備ができたらいつでも越してきてください」


「うん…といっても、晩御飯と睡眠以外ここで済ませてるから、ほとんど準備なんてないんだけど」


「まあそうですね。…よし!じゃあ今日も修行していきましょうか」


「はーい!」


 こうして、二人は少しの期間一緒に暮らすことになった。




 *




 一緒に暮らし始めてから早くも二年が経った。


 朝の強いアイラが珍しくなかなか起きてこないので、マーリンが部屋まで様子を見に行くと、どこか苦しそうな表情で唸っているアイラの姿があった。


 マーリンはそんなアイラの額に手を当てると、苦々しい顔で言った。


「…ひどい熱ですね。今日は修行はやめておきましょう。アイラはこのまま寝てて大丈夫ですよ」


「うぅ…あたまいたぃ…」


「大丈夫ですか…?」


「だいじょうぶらないー…」


 マーリンの問いかけに、舌足らずな声で弱々しい返事が返ってくる。


 マーリンがアイラの弱った姿を見るのは、アイラと初めて会ったとき以来である。

 そのためだろうか、マーリンはただの風邪だろうと思おうとするのだが、表現しずらい大きな不安を感じる。


「水で冷やした布を持ってきます、少し待っていてください」




 数分した後、マーリンは冷やした布と水を手に持ってアイラの部屋に戻ってきた。


「とりあえず水を飲んでください、汗もかいてるでしょうし」


「あい…」


「食欲はどうですか?」


「ない…」


 普段あれだけ元気なアイラから短い返事しか返ってこないことが、さらにマーリンの胸を締め付ける。


「そうですか…ですが食べないのも体に悪いでしょうし、お昼はお粥を少しだけ作ってきますね。食べられるだけでかまいませんから」


「うん…ありがと」






「お粥作ってきましたよー。自分で食べられますか?」


 お粥の乗ったトレイを手に持ちながら質問する。


「むり…あーんして?」


(そこまで弱っているんですね…本当に大丈夫でしょうか)


 アイラの体調は実際は多少マシになってきているのだが、いい機会だと甘え倒そうとしているアイラの様子から勘違いするマーリン。


「わかりました」


 机のそばにある椅子をベッドの横に置いて座る。


「はい、あーん」


 マーリンは躊躇いなくお粥をスプーンで掬ってアイラの口元へ運ぶ。


「あーん…」


(あれ、どうしよう、思ったより何倍も恥ずかしい…)


 運ばれたお粥にアイラも口を寄せるのだが、口を開けて食べさせてもらう自身の顔をまじまじと見られていると思うと恥ずかしさが大きくなる。


「っ、あっつい!!」


 アイラは体調の悪さと恥ずかしさでお粥の温度を失念していた。


「だ、大丈夫ですか!?すみません、こういったことには慣れてなくて…次はしっかり冷まします」


「お、おねがい…」


「ふーっ、ふーっ…あーん」


 マーリンは息を吹きかけて丁寧にお粥を冷まし、再びアイラの口へ運ぶ。


(マーリンの息を何度も吹きかけたのを食べるって…なんだか…いやいや、こんなこと考えてる方がよくないよね!気にしない!)


「あむっ…うん、おいしい。えへへ」


 今度は上手くいった。

 

 アイラは照れ臭くて頬を掻きながら笑みを浮かべる。


(可愛い…って、私は弟子に何を考えているんですか!落ち着け私、落ち着け私!)


 体温のせいでうっすらピンク色に染まった顔で恥ずかしそうに笑うアイラは、長年師匠として接してきたマーリンの瞳に特別に可愛く映った。


 マーリンが心をなんとか鎮めようとしながら食べさせ続け、ようやく器が空っぽになった時、アイラが目を逸らしながら言った。


「あの、ね…?汗たくさんかいちゃって、ちょっと気持ち悪いっていうか…あの、吹いてくれない?」


「へっ!?いや、えっと…背中だけ、背中だけなら」


 これまでのマーリンであれば特に意識せずに体を拭いただろうが、やけに煽情的なアイラの雰囲気に当てられたのか、背中だけならいいと言う。


「そ、そりゃ前は自分で拭くよ!!」


「あ、そ、そうですよね!すみません慌ててよくわからないことを…」


 実はアイラは前もそのまま拭いてもらうつもりでいたが、珍しく慌てて反応するマーリンを見て自分が何をさせようとしていたのかと思い直し、もともと自分で拭くつもりだったと嘘をつく。


「じゃああの、拭くための布を取ってきますね」


「あ、私の部屋の…そこの棚の上から二段目に入ってる布使って?」


 アイラは部屋から出ようとするマーリンを呼び止め、自分の布を使ってもらうために棚を指して場所を教える。


 今部屋から出ていかれると、これから体の汗を拭き取られることを意識する時間が生まれてしまい、無駄に恥ずかしくなってしまいそうだったからだ。


「えー、これですね。わかりました」


 布を手に取ったマーリンがアイラに近づく。


「じゃ、じゃあ、服を捲りますね…」


「うん、おねがい…」


(くっ、弟子の服を捲るのがこんなにも困難なことだとは…!)


(やばいやばいめちゃくちゃ恥ずかしい!なんでマーリンそんなゆっくり捲るの!へんたい!)


 マーリンは、背中とはいえ弟子の肌を目に入れることを躊躇い、アイラは、肌を見るのを躊躇うあまりゆっくりと服を捲られる感覚に心をざわつかせる。


 下着と肌がばっちりと見えるほどまで服を捲りあげたマーリンは、布を手に取る。


「それじゃあ、拭きますね…」


「はひ…おねがいしましゅ…」


 アイラもマーリンも恥ずかしさが限界に達しているため、アイラの呂律がおかしいことに気づかない。


「…はい、終わりです。あとは自分でしますよね!じゃあ私は部屋から出ますので、何かあったらお呼びくださいね!」


「あ、え、はい。ありがとうございました…」


 終わってみれば案外呆気ない…なんてことはなく、マーリンは弾かれるようにアイラから距離を取り、言うことを言ったらすぐに部屋から出て行ってしまう。


(拭かれてる時顔見られてなくてよかったぁ〜…)






























 二人は、この先もずっと、これまでのように平和な日々が続くと信じていた。


 しかし、運命は時に残酷だ。








 *



 

 マーリンが最初に違和感を覚えたのは、アイラの体調が回復してから翌日の修行中の時だった。


(魔力の巡りが遅い…?魔力操作にも違和感がある。どこか引っ掛かりがあるような…調子が悪いだけでしょうか?)


「マーリン?どうかした?」


「ああいえ、なんでもありません。続けましょうか」




 さらに翌日。


 その日は魔法の選択の判断力強化のため、基礎の攻撃魔法と守護魔法のみを用いた模擬戦闘を行っていた。


(やはりおかしい…普段より魔力の放出量が少なくなってしまう。それに魔法の発動までの遅延が長い)


「あの、マーリン。今日大丈夫?なんていうか…調子悪くない?」


 マーリンの違和感は強くなっていて、それはアイラにも勘付かれるほどに魔法に影響を及ぼしていた。


(絶対におかしい…もしや…)


「…ええ、少し調子が悪いみたいです。アイラもすごく上達していますし、こんな状態では修行になりませんね。申し訳ないですが、今日は休ませてもらっても?」


「もちろん!早く治してね?」


「はい、明日には治ってますよ」


 そう口では言うものの、一つの最悪な心当たりがマーリンの記憶から現れる。


(いや、いやいや…まさか私に限ってそんな…一旦様子を見ましょう)




 それから一週間。

 マーリンの魔法の調子は良くなるどころか、悪くなる一方だった。


「…アイラ。修行をしましょうか」


 マーリンは覚悟を決めたかの様な表情を作る。


「マーリン!?あんまり魔法は使わない方がいいんじゃ…」


「言い間違えました、修行ではありません。試験です」


「試験?」


「詳しくは後で話しますが、これから先、私の調子は悪くなるだけでしょう」


「そんな…」


「ですが、幸いなことにアイラに教えるべきことは全て教え終えました。あとはあなたの努力と研鑽で魔法を高めるだけ。しかし…何も無しに弟子を卒業させるのは味気ないでしょう?私は、アイラがもっと成長してから試験を行うつもりでした」


「なるほど…つまり、試験っていうのは——」


「決闘です」


「…わかった!やるよ。そうと決まれば、早くやろう!」


「ええ、本気で行きますよ?」







「では、時間差での爆発魔法が空中で発動したら、その瞬間に始めです。用意はいいですか?」


「うん、いつでもいいよ!」


「では——」


 マーリンが杖を振って数秒後、バン!と、大きな爆発音がする。

 決闘開始だ。


 先手を打ったのはアイラだ。


 爆発音と同時に杖を振り下ろし、数えきれないほどの氷の塊がマーリンを四方八方から襲う。


「素晴らしいですね。ここまでの量の多重発動を無詠唱でこなすとは。ですが、まだ足りません」


「っ!」


 マーリンは襲いかかって来る氷塊全てに、それぞれと等しい質量の氷塊をぶつけて相殺する。


(なんて魔力操作…っ!これがマーリンの全力…)


「まだまだ!」


 次にアイラは、自身の体が隠れるほどに大きな火の玉をマーリンへ飛ばす。


 これは牽制かつ目隠しだ。


 マーリンが火の玉に対処している間に火の玉に隠れて魔法を使い、追撃する。


「甘い。魔力量が極端に少ないと目隠しだとすぐにバレますよ」


「んな!」


 その声はアイラの真後ろから聞こえてきた。空間魔法で転移してきたのだろう。


 アイラがマーリンを視界に入れようとしている隙に、アイラは氷塊に取り囲まれる。


(まずい、これは間に合わない…!)


 なんとか守護魔法で障壁を球状に出現させ、自分を囲む。


(くっ、魔力が持たない、守護魔法が切れる!)


「諦めるな私!!」


 アイラは大声で自分を鼓舞する。


 間違いなく、氷塊が全てなくなるより早く障壁が切れる。しかし、それまでにマーリンの意識を刈り取れば、魔法は消える。


 最後の一撃に全てを賭ける。


「『空よ。天の捌きを彼の者に。迅雷!』」


「なるほど、捨て身ですか。いい判断です。全力で受け止めてあげましょう」


 アイラの覚悟に心を打たれたマーリンは、避けずに受け止めようと全力で守護魔法を使う。


(しっかりと詠唱までした雷の攻撃魔法…生半可な障壁じゃ貫通される。今使える全魔力で障壁を!)


 ドォーン!


 鼓膜が破れるのではないかと思うほどの激しい炸裂音が響く。


 直後。


 マーリンは、杖を手放し前方へと倒れ込んだ。


「はぁ…はぁ…勝った…?」








「うっ…体がだるいですね…」


 マーリンは意識が覚醒し、重たい体を起こしてベッド横に座る女性に目をやる。

 

「マーリン!やっと目が覚めたんだね!」


 驚き、安心、喜びなど、ひと目で多くの感情を感じさせる表情のアイラがマーリンに抱きつく。


「アイラ?ああ、涙まで流して。ただの魔力切れですから、そう心配することはありませんよ」


「でも、二日も眠ってたんだよ!?」


(そんなにですか…おそらく魔力の回復が滞っていたのでしょう)


「…アイラ、今から話すことをよく聞いてください」


「う、うん」


 決闘直前のような真剣な表情で見つめられ、アイラは少し困惑しつつも頷く。


「私はもうじき、二度と魔法が使えなくなるでしょう」


「…!」


 あまりに強く驚きすぎると、声帯が動かなくなることをアイラは知った。


「魔力を扱う者が稀にかかる病です」


「病…?」


「はい。アイラ、魔力とはなんですか?」


 突然の問いかけに、一瞬答えに詰まるものの、何度も復習した内容なので難なく答える。


「ええと、空気中の魔素と呼ばれる物質を体内に取り込み作られる、操作すればどんなエネルギーにも変換できる物質のこと、だよね」


「その通り。では、魔力の操作とはどのようにしていますか?」


「それは…うん?どうやってしてるんだろう」


「そう、わからないんです。私たち魔法使いは手足を動かすように魔力を操作できる。この病は、魔力を操作する方法を体が忘れてしまう、というものです」


「え、でも、また練習して操作できるようにすれば…」


「できればいいんですがね…魔力の操作は、生まれたばかりの赤ん坊でも無意識に行なっていることなんですよ。ある意味、神経を失ったような状態と考えたほうがいいでしょう」


「そんな…なんで、なんでマーリンが!」


 どうしようもないと頭では理解しているものの、アイラは思わず叫んでしまう。


「…ごめん、マーリンに言っても仕方ないよね」


「…いえ、気にしないでください。アイラが気にする必要はありません」


「え?」


 マーリンは虚な目をして、心ここに在らずといった様子で語りだす。


「私が魔法の練習相手を務められないのは申し訳ないですが、東にある帝国には、全盛期の私ほどではないにせよ優れた魔法使いがいます。紹介状を書きますから——」


「ちょ、ちょっと。待って」


「ああ、もちろん交通費は私が出します。大丈夫、いまのアイラの腕があれば、帝国でも良く扱われます」


「そうじゃなくて」


「あっ、すみません。あなたはもう弟子ではないのですし、私がわざわざ指示を出すのは失礼でしたね。では、あくまで選択肢の一つとして紹介状だけでも書かせてください。餞別のようなものだと思ってくれれば」


「ねえってば!!」


「な、なんですか?すみません、なにか気に障りましたか?」


「ど、どうしたの?変だよ?こっちを見て?」


 普段のマーリンは、話す時は微笑みながら、目を合わせて、ゆっくりと、一緒に話を進めてくれていた。


 今のマーリンは人が変わったようだ。

 

 それに加えて——


「泣いてる」


 アイラは約十五年間マーリンと関わってきたが、涙を見たのは初めてのことだった。


「ごめんなさい…少しの間、一人に…」


「うん…負担かけちゃって、ごめんね」


 



 バタンと、扉の閉まる音がした。


(私は、どうすればよいのだろう。


 幼い頃から、魔法ばかりを褒められてきた。魔法しか、褒められてこなかった。


 いや、今なら理解している。

 それは、私が魔法以外がダメだったとか、そんな理由ではない。

 魔法が特出して得意だったからだ。


 しかし、だからと言っても感情がそれを認めない。心の奥底で、お前は魔法以外なんの魅力もない男だと、囁かれ続けてきた。


 しかしこれまでは、それでも良かった。


 魔法以外が無くても、魔法はある。


 魔法を自分の魅力にしようとした。


 あちこちの国を飛び回って、大きな問題を解決して回った。


 当然、感謝された。これでもかと言うほどの敬意を集めた。


 でも、満たされなかった。


 たまたまあっただけの才能と長い寿命。これがあれば誰だって同じ結果を残す。


 褒められたのは、尊敬されたのは"魔法"で、私自身ではない。


 魔法を奪われてしまえば、私には、何も——)

 










 *




 翌日。


 コンコン。

 アイラはマーリンの部屋の扉をノックするが、反応がない。


「マーリン?入るよ?」


 アイラ自身もノックした意味ないなあなんて思ってはいるが、マーリンの状態が心配で無理やり部屋に入る。


「…ああ、すみません。気づきませんでした。おはようございます」


「うん、おはよう。あの…大丈夫?」


「はい、もう大丈夫…だと思います。昨日はだいぶ慌ててしまって…変なところを見せましたね」


「いつものマーリンだ!よかったあ!」


 アイラは思わずマーリンに抱きついてしまう。


「えへへぇ」


 目を細めて、だらしない笑顔をしながらマーリンの胸元に頭をぐりぐりと押し付ける。


(可愛い…)


 刹那。


 マーリンは自分のとある感情を見つけた。




(あ、好きだ。…私は、アイラさんに惚れていたのか)




 マーリンは、アイラに恋をしていた。

 自分に見せる可愛らしい表情、仕草、甘え方。それに、努力家で、負けず嫌いで、素直な性格。もちろん外見も。


 しかし、だからこそ——


「アイラさん、やはり帝国へ行きませんか」


 マーリンは、アイラのさらさらとした髪を撫でながら提案する。


「なんで…?」


「魔法、好きなんでしょう?」


 アイラはもともと、幼馴染などの大切な人を守る力を手に入れるために魔法を学び始めた。正直言って、そらだけならもう十分以上の力を手に入れている。

 今のアイラであれば、都市を軽く壊滅させるような魔物だって一人で対処可能だ。


 しかし、師として常に一緒にいたマーリンにはわかる。


 修行をするうちに、アイラは魔法に魅せられたのだ。


 もちろん、大切な人を守りたいというような想いは消えていないだろう。しかし、それ以上に、魔法を極めたいと、そう思っているようにマーリンには見えた。


「…」


「本当に残念ですが、私はもう、アイラと修行することはできないのです。もう、数発も魔法を放てば完全に感覚を失う…わかるんです」


「…」


「アイラを、何もできない私の手元に置いておきたくはないのです」


(ああ、これでお別れですか…初めて恋をしましたが、なるほど辛いものですね)



「マーリンの馬鹿!!」



「えっ」


 どうやら、マーリンの目は正しくなかったらしい。


「あのね!私はもちろん魔法が好きだし、できる事ならもっと上達したいと思う」


「それなら…」


「けどそれは!それは…マーリンと、一緒がいいの…うぅ…ひっぐ」


 感情が昂って、制御できなくなって、思わずアイラは涙を流す。


「それは、いったいどういう…」


「好きだって言ってるのぉ〜!!…あぁぁあ、うわぁあん!」


 ついに、大声をあげて泣き始めた。

 締まらない告白である。


「…」


 空いた口が塞がらないマーリン


「馬鹿!馬鹿!うぇぇん!」


 ポカポカと叩きながら号泣するアイラ。


 先にまともな状態に戻ってきたのはマーリンだった。


「あの、ごめんなさい。アイラ?ちょ、一度手を止めて…あいたっ」


「うわぁぁあん!!」


 泣き止む様子のないアイラに、マーリンは強硬手段に出ることにした。


「うわぁぁ——ふぇ」


 マーリンを叩くアイラの腕を体で受け止め、背中に両腕を回し、強く抱きしめる。


「アイラ、聞いてください」


「うん…ひぐっ」


「私も、あなたが好きです。愛しています」


「う…」


「え」


「うわぁぁぁあん!!!」


 どっちにしろ泣くのが止まらないアイラだった。











「はぁ…やっと落ち着きましたか」


「うん、ごめん、取り乱して。あとこっち見ないで」


「ええ…?」


(私の顔、絶対とんでもないことになってる…っていうかめちゃくちゃ恥ずかしい…好きな人の前であんな痴態を晒して…うぅ、また泣きそう)


「マーリン、あと何回か魔法使えるんだよね」


「はい、おそらく。何か見ておきたい魔法があれば…」


「あの、私たちが出会った日の魔法、使える?」


「ああ…魔力自体はあるので、いけますよ」


「じゃあ、それをお願いしたいな」


「わかりました」


 ベッドから立ち上がって、杖を手に取る。


「『愛するあなたへ』」


 約十五年ぶりのその魔法の呪文は、簡単に理解できた。







 ——黄色がかった、こちらを見つめているかのような、大きな、大きな月。

 夕陽の赤と夜の青が溶け合い、鮮やかで繊細なグラデーションを描く空。

 空を反射し、幻想的に足元をに彩りを生み出す水の地面。


 あの時と何一つ変わらない、美しい風景が体を包む。


「そんな呪文だったんだ、この空間魔法って」


「過去の偉大な魔法使いが、外に出られない妻のために作った魔法だそうです」


「なにそれ!すごいロマンチック…」


 あ、そうだ。と、何か閃いたようにマーリンに顔を向ける。


「私、もっと簡単でとってもしわあせになれる魔法思いついちゃった」


「ほう、それは気になりますね」


「ちょっと屈んで?」


「…?」


 マーリンは何をするつもりなんだと訝しがりながらも言われるままに身を屈める。


 すると、頭の後ろにアイラの手が回された。




 チュッ




「えへへ、どう?」


「…なるほど。確かに、これほど強力な魔法は初めてくらいました」

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魔法 芳田紡 @tsumugu0209

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