第23話 恋人だけの特権
「もう、解放してあげる」
その言葉に、彼は僅かに目を見張った。その瞳を見て、私は「ああ、彼にも一応、驚く感情はあったのかな」なんて、ぼんやり思った。
「私たち、今日で終わりにしよう」
「……なんで」
ボソリと漏れる低く小さな声。
「なんでって……。だって、あなた……。私の事、好きじゃないでしょ」
自分で言った言葉に、胸の奥が鋭い痛みに苦しくなる。
半年前、付き合ってくださいと告白をしたのは、私の方からだった。
大学のゼミで知り合って。私が一目惚れして。彼を知りたいと思ったけど、硬派なのか彼は寡黙で。彼を詳しく知る事が出来ないまま、それでもほんの少しの情報をかき集めるたびに、私の中の好きは大きくなって。
そんな時、二人で買い出しに行く機会があった。私は自分の想いをもう、抑えきれなくて。ゼミに戻る前に、告白したのだ。
告白した時、彼の反応は何も変わらなかった。何の変化も無かった。だけど、彼は暫しの沈黙の後「良いよ」と呟く様に言った。
その場でOKをもらって、晴れて恋人同士になれたのに。……なのに、私たちは何故か、ずっと他人行儀で……。
彼は、元々そんなに表情が豊かでは無いと、それを分かった上で、私は彼を好きになって告白したのに。
人間とは、贅沢な生き物で。想いが通じたなら、その先をもっともっとと、求めてしまうんだ。
私はきっと、期待していたんだ。
恋人だけの、特権を。
私にだけしか見せてくれない笑顔とか。私だけには、甘い言葉をくれるとか。
だけど、そんなものは……。
この半年、何一つ無かった。
もう子供でもない。キスの一つくらいあってもいい筈なのに、それすら無かった。
私から好きになったし、私は一生懸命に話し掛けたり、食事やデートに誘ったりしたけど、彼はいつも業務的な感じで、笑顔も無く、言葉も「ああ」とか甘い雰囲気など一切無かった。
私から手を繋いでみたり、二人きりの時に抱きついてみたり。勇気を出して私からキスしようとした時……そっと身体を離して顔を背けられた……。
それから、私は彼に触れることも、デートに誘うことも、やめた。
なんで彼は私と付き合う事をOKしたのだろうと、不思議になるくらいだった。
そんなに私が嫌なら、振ってくれて良いのに。
でも、私は。
自分から振る勇気が出なかった。まだ、心の真ん中に、彼が好きという気持ちがあったから。
それでも……二ヶ月という私には長く感じる時間を、少しずつ少しずつ。気持ちを手放す努力した。
そして今、私は涙を堪えながら、別れを切り出した。
「それじゃ」と言いながら背を向け逃げ出そうとした私の腕を「待って」と引き留める。
私は立ち止まり、ゆっくりと彼を見上げた。
「……離してよ」
「……嫌いなんかじゃ、無いんだ……」
「え……?」
「だから……嫌いじゃない。……好きだ……」
その言葉に、私は大きく目を見開いた。
***
いま、私の部屋に居る。
彼が「ちゃんと、話がしたい」というから。私の家が近いからと、やって来たのだ。
今まで、送ってくれた事はあったけど、上がった事は無い。
はじめて私の部屋に入った彼は、どこか落ち着かない様子で目だけをキョロキョロと動かしている。
私がローテーブルに二人分のコーヒーを置くと「ありがとう」と呟き、マグカップに手を伸ばす。私は彼が座る二人掛けのソファの隣に座った。
彼はコーヒーを一口飲むと俯いたまま、話を始めた。
「……俺、今まで、誰とも付き合ったこと、なくて……」
突然のカミングアウトに、私は無言で驚き、動きを止めた。
嘘でしょ?!
だって、彼は女子の中では密かに人気があったから。寡黙だけど、さりげなく優しいと。それに、背も高くいつも黒尽くめの服装だけど、それがとても似合っていて、カッコいいと。
だから私は、きっと今までもずっとモテて来たんだろうなぁと思っていた。
「俺、高校までめちゃくちゃ分厚い眼鏡で。髪の毛も、こんなんじゃ、無くて……その……」
彼はモソモソと動きスマホを取り出すと、私に差し出した。
「……みて、いいの?」
彼がこくりと頷き、私はその差し出された画面を見つめた。
その画面の中には数人の冴えない男子生徒が写っていて、その中に際立って背の高い男子は、少し太っていて、分厚い眼鏡と坊主頭……。
「もしかして、この人……?」
と、私が指差した背の高い男子生徒に、彼は「そう、それ」と呟く。
全っ然違う!!!
人って、こんなに変わるものなの!!??
「大学入ったら、絶対に変わるんだって……。色んな雑誌見て、髪も伸ばして、ダイエットもして……。でも、女の子と話した事、無くて……」
元々小さな声が、どんどん声が小さくなって消えていく。
私は「ん? なに?」と彼に身体を寄せ、耳を傾けた。太腿がピッタリ触れ合うと、彼は身体をキュッと硬直させたのが分かった。
「あ……頭の中では、こうしたいとか……こんな話をしよう……とか……色々、考えてたんだ……けど……」
「……うん。けど?」
先を促す様に相槌を打つ。
「……けど……君をどんどん好きになるにつれて、君に幻滅されたくなくて……。君が好きになったのは、寡黙な俺で……それで……そのまま、演じていようと……」
彼の告白には、ただただ驚きで。でも、なら何で……。
「何で……私がデートに誘ったり……その……キスしようとしたとき、嫌そうにしたの……」
「嫌だったんじゃ無いんだ!」
初めて聞く彼の大声に、私はビクリと身体を動かすと、彼は慌てて「ごめん」と言い、また私から視線を逸らす。
「嫌だったんじゃ無いんだ……。どうしたら良いか、わからなくて……。不慣れだと……バレたく無かった……。初めてだって、知ったら、嫌われるかと……」
思わず「そんな事で?」と言いそうになったのを、グッと堪える。
「じゃあ……。ねぇ、これから私と、色んな初めてを知っていかない? 例えば、あなたが私としたいって、思ってた事はなに? それを一つずつ一緒にやって行きましょうよ。ね?」
教えて? と優しく囁く様に言うと、彼は顔を上げて私を見た。
「……じゃあ……キス、したい……です」
顔を真っ赤にして私の瞳を見つめる彼に、私はゴクリと唾を飲み込む。自分の顔もどんどん赤くなっていくのが分かる。
小さく頷くと、彼は忙しなく瞬きを繰り返して。何かを決意するかの様に薄い唇を一文字にし座り直すと、私に真正面から向き合った。
彼は、人生初のキスを私にした。それは、とても優しく、そっと唇を重ねるだけのキスだった。
顔が離れると、私はゆっくり瞼を上げ彼を見る。とても不安そうな表情で私の顔を覗き込む。
「嫌じゃ、無かった?」
「ふふ。うん、全然」
「本当?」
「あはは、本当だってば。……嬉しいよ、すごく」
その言葉に、彼は今まで見せた事のない、驚くほど可愛い笑顔を見せた。
「もう一回、しても?」
「うん……たくさん、して……?」
チュッとリップ音が耳の奥に甘く響く。
「……大丈夫?」
彼は優しい笑みを湛えながら、私の顔を覗き込む。小さく頷くと、再び唇を奪われた。
柔らかく喰むように角度を変え、私の唇を楽しんでは離れ、再び塞がれる。
彼はいったい、誰なの?
いや、誰かは分かっている。さっき私から別れを告げた、彼氏だ。
だけど……あまりにも……あまりにも、ついさっきまでの態度と違い過ぎて……。私は混乱状態で、彼からの甘いキスを、今、受け入れている。
私達の初キスは、彼のファーストキスでもあったわけだけど……。
本当に本当に、初めてなの? と、聞きたくなるくらいに、気持ち良くて。
そんな事を私が思っていると知ってか知らずか、彼は人が変わった様に甘い笑顔を見せながら、「シュミレーションだけは、たくさんして来たから!」と嬉しそうに言った。
この日を境に、彼は私にだけ、優しい笑顔と甘い言葉をくれている。
他の人には、未だに寡黙で表情も乏しい。
そう。彼は、私が夢にまで見た「恋人だけの特権」をたくさんくれている。
×××
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