第24話 戻れなくなる
職場の玄関を出た所で、私は空を見上げた。
よく晴れた夜空には、黄金色に輝く月の姿。
「わぁ! 綺麗ですねぇ!」
突然、隣から声を掛けられ、そちらに顔を向ける。同じ部署の女性社員が笑みを浮かべながら、空を見上げている。
「ああ。今夜は月が綺麗ですね」
私は彼女の言葉に同意する様に答えた。
すると、彼女は私の言葉に「あは」と声を上げ短く笑う。何故笑われたのか分からず、彼女を見遣ると。
「課長、それ口説き文句ですかぁ?」
その言葉に、私は夏目漱石を思い出し苦笑いをした。
「いえ、そんな意味合いは無いですよ。そもそも、私の様な年配の男に言われても、貴女は嬉しく無いでしょうに」
「あら、そんな事ないですよ? 課長はダンディでカッコいいですもん! 口説かれたら嬉しい女性社員は意外と多いと思いますよ?」
アタシも、その一人ですし、と笑いながら言う彼女に、私は更に困った様に笑みを浮かべる。社交辞令だと分かっては居ても、少し嬉しくなる自分の心がバレない様に「お世辞として受け取っておきます」と答えるに止めた。
「確か、明日か明後日だったか、満月ですからね」
「ああ、なるほど。だから綺麗なんですね。今日が晴れていて良かった」
彼女は天体が好きなのか、少し意外に感じた。先程の夏目漱石といい、華やかな外見からは、あまりそういう事には興味が無さそうだと思ったからだ。偏見にも程があると、心の中で反省する。
「ねぇ、課長」
「はい?」
「十月の満月の名前、何て言うかご存知ですか?」
彼女の問いに、満月に名前などあるのかと「いえ、先月の中秋の名月くらいしか、知りませんねぇ」と答えると、彼女は一歩、私に近寄りニヤリと口角を上げた。
「十月の満月の名前は、ハンターズムーンって言うんですよ」
そう言って指で銃を構える様な格好し、月に向かって撃つような仕草をして見せた。
「詳しいんですね」
「中学生の頃、好きだった先輩が天文学部に居たので、追いかけて入って。それから、天体観測にハマった時期があって」
「なるほど」
「課長って、その時の先輩に少し似てるんです。ああ、彼が歳を取ったら、こんな感じなのかなぁ……なんて」
月明かりと街灯だけの、心許ない明かりの下、彼女の顔色がどうかは見えなかったが、照れた様に笑う顔は、何とも言えない可愛らしさと色気があった。
好いた先輩に似ていると言われ、少し浮かれたか。離婚してから恋だの愛だの、そういう類の感情には縁遠く、揺らいだ事が無い心が、ほんの少し柔らかなモノに包まれた様な、なんとも言えない気分になる。
「課長、この後、ご予定は?」
不意に彼女から聞かれた予定に少々驚きつつ「いえ、何も。帰ってご飯を食べて寝るだけです」と答える。
「なら、今から一緒にお月見しません?」
「お月見?」
「はい!」
明日は土曜日で休みですし、と、彼女は明るい声で誘う。特に用という用も無い。まぁ、明日が休みならば、と思いはしたが。しかし……。
「こんな時間に私と二人で飲みに行っているのを誰かに見られたら、変な噂が立ちますよ?」
「別にやましい事をしている訳じゃないですから、良いじゃ無いですか! それにアタシは、気にしませんから、そういうの!」
あまりに元気よく言うので、私は笑ってしまった。
「なら、行きましょうか。お月見」
「はい!」
何処か展望台のレストランが良いのか、ちょっと洒落た居酒屋が良いのか悩んでいると、彼女はコンビニに入って行った。
「課長、お酒どのくらい飲みます?」
「え……、あの、どこでお月見するんです?」
「ああ、日比谷公園ですよ」
そう言って、彼女は籠の中に自分が飲む酒数本と自分が食べたい菓子やつまみをポンポンと入れていく。
私もビールを二本、籠に入れると彼女から籠を受け取りレジで精算を済ませた。
コンビニを出ると「ありがとうございます、いくらでしたか?」と聞いて来たので「奢りですよ」と返し、日比谷公園へと向かって歩き出した。
夜の日比谷公園は噴水のライトアップなどされており、人もそこそこ居る。あまり奥に行くのは憚られ、噴水近くの人通りがまぁまぁある場所のベンチに腰を下ろすと、彼女もその隣に座った。
二人で自分の酒を開けて乾杯をする。
暫し黙って、酒を飲みながら月を見上げる。周りの光が目の中に入って来るが、それでも月の光は負けずに輝き綺麗だ。
「なんか、こうしてゆっくりと空を眺めるなんて、久しぶりです」
彼女がふんわりした口調で言う。隣を見ると、もう既に二本目に手を出していて、あまりのピッチの早さに私はギョッとする。
それに気が付いたのか、彼女は笑いながら「いつもの事なので、お気になさらず!」と言うが、本当に大丈夫だろうかと若干、不安になる。
暫くして。
案の定、彼女は四本目の酒を飲みつつベロベロに酔っ払い、呂律の回らない口調で他愛のない話をしていた。
主には、自分の恋愛について。
話を聞く限り、お世辞にもあまり良い恋愛とは言えないそれらは、彼女にとっては泣きながら話す程、大切な思い出だったようだ。
「……そえでぇ、あたしだってねぇー……ちょっと! かちょー!? きいてまふぅ??」
「ええ……。聞いてますよ……」
私は二本目を飲む気にもなれず、彼女が買ったカルパスを齧った。
「……いいこと、あるまふかねぇ……あたし」
空を見上げて、独りごちるように言った彼女の声に「ありますよ、きっと」と囁いて返す。
その声は、しっかりと彼女の耳に届いた様で、えへへと笑った。
「かちょー……」
「何ですか?」
月を見上げていた私の腕を、彼女が引っ張る。何だと驚き彼女に顔を向けると、唇に柔らかい感触が当たる。
喰む様に唇を堪能する彼女に、私は驚きのあまり動けずにいた。
喰まれていた下唇がぷつりと離れる。
とろりとした瞳で私を見つめる彼女は、月明かりの下で妖艶に微笑む。
「すきですよ……かちょー……」
「……随分と酔っ払ってますね……。もう、帰りましょう」
飲み終えた空き缶を袋に入れて、食べていない菓子類を彼女の鞄に押し込むと「さぁ、帰りましょう」と立ち上がる。
「すきなんです。ほんとうに……」
泣き出しそうな声に、私は参ってしまった。
が、このまま捨て置く訳にもいかない。もう一度、ベンチに座り直すと、彼女に向き合った。
「ありがとうございます。ですが、それは今の貴女が寂しいからですよ。酔った勢いの告白は、後で後悔します。これからは、こんな飲み方は止めなさい。貴女は、とても素敵な女性ですから。もっと良い人を見る目を養って。幸せになりなさい」
静かに、言い聞かせるように、ゆっくりと伝える。
彼女は、瞳にたくさんの涙を溜めて小さく頷く。だが……。
「酔ってなくても、課長が好きなのは、本当です」
先程の様に呂律の回らない声では無い。私は目を見張る。ハッキリとした口調で言い切った彼女を、まじまじと見つめる。
「はは……。飲まないと、言えないって。思ったんですよ。振られちゃいましたけど」
彼女は私のスーツの裾を掴み、俯いた。
「……好きです」
「……しかし、私と貴女とでは、十以上も歳が離れてます。貴女なら同世代で、もっと良い人がいますよ」
何と答えたら良いか分からず、とりあえず年齢差を盾に彼女の考えを改めさせようとする。
だが、彼女はゆるゆると首を横に振る。
「そんな事、関係ないんです」
「……」
「課長は、私が嫌いですか?」
「……好きとか、嫌いとか……そういう事は……」
「私がさっきキスしたの、嫌でしたか?」
「……!! それは……」
ハッと息を飲み込む音を聞いた彼女は、顔を上げると私の襟を勢いよく掴み、再び口付けをしてきた。
ゆっくりと離れる。
「抵抗しないのは、嫌じゃないって事ですよね?」
彼女の言葉に、私はぐっと強く目を閉じる。そして、彼女の両肩に手を置き引き離す。
「これ以上は、ダメです」
「なんでですか?」
「……戻れなくなる……」
苦しさを持って押し殺すように口の中で呟いた言葉は、しっかりと彼女は聞き取った。
「戻らなくて良いじゃ無いですか。前に進めば良いだけです」
「……強引ですね」
「ハンターズムーンのせいですよ。狙った獲物は逃さない。なんて」
そう言って、笑いながら彼女は私に抱きつき柔らかなキスをした。
私は……。
どうやら、ハンターに捕らわれた様だ。
×××
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