第19話 夏空教室
私は、彼に嫌われているのだと、ずっと思っていた。
夏休みに入ってから、文化部は特に学校へ来る必要は無いんだけど。私は夏休み明けにある文化祭に向けて描いている油絵を、少しでも進めたくて学校へ来た。
他の部員は殆ど来ない。強制でもないので、来ても来なくても良いのだ。自分の進捗状況で、来る来ないを判断して、と部活顧問の先生も言っていたから。
私は教員室へ行ってクラスと名前を言い、美術室の鍵を借りようとした。
すると、もう既に鍵は借りられており、記入簿にも名前が書いてあった。
「副部長、もう来てるんだ……」
彼の名前を見て、少し気が重くなる。
この春から、私が部長で彼が副部長になった。
副部長の彼とは、あまり会話はない。彼の作品は、透明水彩が多く、絵の中に吸い込まれるのではないかと思うほどに美しく惹かれる。たまに、粘土作品もあるが、それも繊細で観入ってしまう魅力がある。
だから私は、彼の作品が好きで、気がつけば彼自身にも惹かれていた。
でも、彼からは、嫌われているみたい。
話しかけても、全然目を合わせてくれないし、返事もぶっきらぼうで。元々、口数も少なくて、クラスでも一人でいる事が多いと、彼と同じクラスの子に聞いた事がある。別に、友達が居ないわけではないらしい。時々、休憩時間にふらりと消えてしまうことが多いんだとか。
でも、他の男子生徒と雑談して笑う姿を、私も見た事があるから友達は居るんだと思う。
私は、もやっと暑い校舎内をゆっくり歩く。美術室までの廊下を、少しの憂鬱を抱えながら。
誰か、他に来てるといいな。
そんな、ありそうも無い事を思いながら、美術室のドアを開けた。
窓際にイーゼルを置いて、既に絵を描き始めている彼が振り向いた。
「おはよ」
「……おはよう。早いね」
「まぁね」
そこから、話題もなく会話は終わる。
私は小さく息を吐く。気を取り直し、絵を描く準備をした。
彼から少し離れた窓際にイーゼルを置く。
私も彼も、この美術室から見える風景を描いているのだ。
高台にあるこの高校は、教室の場所によっては、街を一望出来る。
この美術室は、その街が見下ろせる場所なのだ。程よく田舎。程よく建物もある。遠くに山も見える。そんな風景。
二人黙って、描き続ける。
集中してしまうと、お互いの存在など気にならない。教室に響く筆を洗う音。キャンバスに触れる筆の音。
どのくらい描いていただろう。
彼が、ふぅと、息を吐いた。
その気配に、私の集中力もふと切れた。教室内の壁時計を見ると、まもなく昼になる。
「ちょい、弁当買ってくるわ。部長、何か欲しいものあれば買ってくるけど」
珍しく彼がそう聞いてきたので、私は驚きのあまり何も思い浮かばず「いや、特にないや。お弁当持って来てるから」と言ってしまった。
「そ。じゃあ、ちょっと出てくる」
「うん、気を付けてね」
美術室から出て行く彼の後ろ姿を見送ってから、私はふぅと深く息を吐き出した。
「あ……。ありがとうって、言ってないや……」
せっかく気を遣って声を掛けてくれたのに。感じ悪かったかな……。
そう思いつつも、もう過ぎてしまったこと。仕方ない。
私も持って来たお弁当を食べる事にした。
外の風景を見ながら、もそもそと一人食べる。
ふと、彼の絵が気になって、観てみたくなった。弁当を机に置いて椅子から立ち上がる。
三歩隣に移動する。
「わぁ……すごい……」
思わず、声が漏れた。
今回、彼も油絵を描いている。普段は水彩画ばかりなのに、どういう心境の変化なのか分からないけど。
深みのある空の色は、何度も繰り返し重ねた色だ。油絵は下色に反対色を塗ると、色に深みが出る。油絵が初めての筈の彼が、それを知っている事にも驚いたが、何よりも、油絵なのに水彩画の様に繊細なタッチが印象的だ。
早く完成した作品が見たい。そう、心から思った。
あ〜あ……。才能って、やっぱり生まれながらのモノなのかなぁ。
私は勝手に見て、勝手に傷付いた。
お弁当の残りを食べる気になれず、鞄にしまうと、美術室の隅にある長椅子に座った。そのままズルズルと倒れ込み、横になった。白い天井から、視線を上へ。僅かに見える窓の外。青空に真っ白な雲がモクモクと出来ていく。彼の描く絵の様だ。
ぼんやり眺めていたら、いつの間にか眠ってしまった。
「……ちょう……部長。起きないの?」
副部長の声がする。けど、何だか瞼が重たくて目を開けられない。
「……無防備過ぎんだろ……」
囁く様な声が、とても近くに聞こえる不思議。すると、私の唇に、とても柔らかい何かが触れた。
「……早く俺を好きになれよ……」
私の心臓は痛いほど胸を打つ。
待って、待って、待って、待って!!
いま、なんつった!!??
私は起きるに起きれず、寝返りをうつフリをして、唸りながら身体を捻った。
小さくため息を吐く音と共に、離れて行く足音が聞こえた。
翌日。
鍵を借りに行くと、まだ副部長は来ていない様だった。
少しホッとする。昨日は結局、私は起きるタイミングを逃して、「帰るぞ」と起こされるまで、長椅子で寝たフリを続けていた。
彼は何てことない、いつも通りの顔で居たけど……。
美術室に入ると、真っ先に彼の絵が目に入った。
昨日、絵の具を乾かす為に、イーゼルに立て掛けたまま帰った。近づいて絵を見る。やっぱり、すごい……。絵に魅入っていると……。
美術室のドアをが開く音に、私は驚き振り向いた。彼がコンビニ袋を持って入って来る。今日はお弁当を先に買ってから来たのか。
「なに、盗み見?」
無表情でそう言う彼に、「別に、そういうんじゃない……」と言いつつも、何だか私はばつが悪くなる。
何となく、気になっていた事が口からついて出る。
「副部長は、ずっと水彩画だったのに、なんで今回は油絵を選んだのかなって……」
私の質問になってない質問。きっと彼はいつも通り「別に」と言って会話は終わるだろうと、そう思っていた。
「部活で……。好きな人が、油絵を描いているから」
ドキリとした。
嘘でしょ……? いま、好きな人がって、言ったよね……。
私の戸惑いを無視して、彼は続けた。
「好きな人と同じ風景を見ながら、同じ絵の具を使って描いてみたいと思った。それだけ」
「……」
「わかった?」
隣に立つ私の顔を、覗き込む様に身を屈めてきた。
間近にある整った顔に驚く。
そうなのよ、いつも無表情だから忘れてたけど、この人、そこそこ綺麗な顔なのよ。
「……うそ、でしょ?」
「何が?」
「す……好きって……」
「本当だよ」
今、美術部員で油絵を描いているのは、私と彼だけだ。
「信じられない? こんな分かりやすくアピールしてたのに」
私は、彼を見上げた。
「信じ……られない……」と、辛うじて出た声で答えると、不意に彼の顔が視界いっぱいになる。
唇が触れるだけのそれは、昨日、長椅子で寝ていた時の感触と同じで……。
ゆっくり離れる彼が、また私を覗き込む様に見る。
「信じてくれた?」
きっと今、私は顔だけじゃなく、耳も首も、真っ赤だと思う。
コクリと頷くと、私は目を見張った。
その穏やかな笑みは、私だけに向けられていて。
その笑顔に、私は更に固まった。困った様に笑う彼は、私の頭を軽く撫でると「早く、俺を好きになって」と言って、自分の絵の前にある椅子に座った。
私は、固まったままなのに。
「あ!」と、何か思い出したように、彼が振り返り私を見上げる。
「好きだって、わかってもらう為に、今日から毎日、好きって伝えるよ」
と、いたずらっ子の様な笑みを浮かべ、再び前を向いた。
反則だわ。
今まで、無表情だった人が、いくつもの笑顔を見せて「好き」って言うなんて……!!
「そんなん、好きになっちゃうに決まってるじゃん!」
あ、心の声が、ダダ漏れてしまった……。
×××
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