第17話 花の香り
煙の匂いがする。
近所の公園で花火をやっているのだろう。子供の声がするから。
エアコンが得意ではない僕は、窓を全開にして扇風機を回して過ごしている。
まぁ、そうは言っても、どうにもならない暑さの時は、小一時間ほどエアコンを付けもするが。
不意に、夜空に一瞬だけ咲く花を、初めて彼女と二人で見た時のことを思い出す。
高校二年の夏。
「夜店の雰囲気って、何故かわからないけど、好きなの。それに、不思議じゃない? なんでこうも普通のものが美味しく感じるのかなぁって」
ほとんど具の入っていない焼きそばを口にしなが、彼女が言った。
「外で食べているから、とか?」
「それもあるかもね。ピクニックとかも、いつもと同じお弁当が何故か美味しく感じるものね」
そう笑いながら、残りの半分を僕に渡す。僕はそのまま受け取り、何も思わず口に運ぶと。
「あら、そのまま食べちゃうんだ?」
「あ? ダメなの? お前が渡してきたんじゃん」
「いやぁ〜? 替えの割り箸、渡してあったけどぉ?」
そう言われてから、ハッと気が付いた。僕が気が付いたことに気付いた彼女は、カラッと晴れた夏空みたいな笑い声を上げる。
「間接キスしちゃったぁ」と、揶揄うように言い、再び笑った。
「……別に。ガキじゃあるまいし、こんな事でいちいち騒ぐなよ。悪かったな、お前の割り箸使って」
そう不機嫌に返すと「別にいいよ。私がそのまま渡したんだから」と笑う。
僕も小さく笑い返したが、つい今し方まで食べていた焼きそばの味が、急に分からなくなった。
僕は焼きそばを、かき込む様に食べ終える。
「花火、そろそろ始まるかな?」
彼女は何かのキャラクターが描かれた袋を開けて、綿飴を食べ始めた。
僕は腕時計をチラリと観て時間を確認する。
「ああ、あと二、三分くらいかな」と答えると同時に、ドン、と腹の底に響く音が空いっぱいに広がった。
「時計、少し遅れていたね」
耳元でそう言った彼女の声が、今でも花火の音と共に耳の奥に残っている。
彼女とは、その頃は付き合っていなかった。よく一緒に遊ぶし、出掛けるけど、付き合ってはいなかったんだ……。
でも、僕らは……。
花火がクライマックスを迎え盛大に空を彩っている中、こっそりとキスをした。
彼女が「みんな花火を見ているから、バレないよ」と、いたずらっ子の様に微笑んで。その笑みが、僕の目には、あまりにも魅力的に映って。唇を重ねるだけの、拙いキスを交わした。
その後も、僕らは付き合う事は無かった。
そんな僕らが、ちゃんとお付き合いを始めたのは、社会人になってからだった。
彼女を家に送る途中、何処からともなく、香水のような濃厚な花の香りがした。
「ああ、お隣の家の百合の花が咲いたんだ。すごく良い香りがする」と、彼女が言ったので、これが百合の花の香りなのだと、その時知った。
「百合、好きなの?」
「そうね、好きかな。白いのが好きかな。花開くと赤い花粉が目に止まる。その様が、すごくゴージャスで。でも薔薇と違って派手というより上品な佇まいがあって。凛と立つ姿が、なんか理想なんだよね」
百合の花をまるで人間の様に語る彼女は、いつでもピンと背筋を伸ばしていて美しい。目指すのが、憧れの人ではなく、花だとは。何とも彼女らしいとも思った。そして、何となしに調べた彼女の誕生花は、百合の花だった。
以来、僕は彼女の誕生日には、百合の花をプレゼントした。
その度、彼女はいつでも大輪の百合のように柔らかな美しい笑みを浮かべ、僕にキスをした。
花火の匂いがしなくなって、近所の子供達の声も聞こえない。
僕は部屋の電気を消し、眠りについた。
明日、花屋で百合の花を買って、君に会いに行こう。
そう、思いながら。
翌朝、僕は駅前にある花屋へ向かい、百合の花の花束を作ってもらい、そのまま電車で彼女の元へ。
夏の暑い日差しで、百合が弱らないか気になったが、それでも彼女が喜ぶならと、僕は百合の花束を大切に抱えた。
梅雨が明けたと同時に蝉の声が響く様になった。この場所も、蝉の大合唱だ。帰りの電車の時間を調べ、腕時計を見る。僕の腕時計の針は、今も二分遅れだ。気を付けないとな、と思いながら、緩やかな坂道を登る。
春になると桜の花が咲く並木道を行き、辿り着いた。
「会いに来たよ。僕の愛しい奥さん」
そう言って、墓石に触れる。
洋型墓石には、彼女の名前が刻んである。その溝をなぞる様に撫でる。
桜の木の下に位置する彼女の墓は、木漏れ日に照らされキラキラと輝いて見える。
その様が、まるで百合の花束を見て、あの笑みを浮かべる彼女の様で。僕は小さく微笑んで、墓石に唇を寄せた。
唇に触れる石の温度が、君の熱のようで。
僕を包み込む百合の花の香りが、君と抱き合っているようで。
「奥さん……。会いたいよ」
僕の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
×××
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