第15話 愛への献身
「子供の頃、雷が怖いのに、空が光るのが綺麗だと思って、怖がりながら窓の外を見ていたわ……」
僕の腕の中で、君が静かにそう言った。
少し汗ばんだ互いの肌を寄せ合いながら、雨の降る窓の外を見つめる。稲光が時々空を明るくし、瞬時に消える。
彼女の言葉に耳を傾けながら、僕はぼんやりと稲光を眺めていた。
「夕立が過ぎたら、もうすぐ夏ね」
「そうだね……」
夏が来れば、僕らは別々の道を歩む。
それは、随分前から決まっていて。最初から別れが来ることを前提とした付き合い。
彼女は、僕より三つ上の隣の家のお姉さん。僕が中学生の頃に彼女の家の隣に引越して以来、ずっと憧れいた。
僕は、彼女が好きで。大好きで。
別れる事が決まっていると分かった上で、期間限定の付き合いを申し込んだ。何度も、何度も。
僕のしつこさに根負けした彼女は、僕と期間限定のお付き合いをしてくれることになって。
その日から、僕は。
短くも忘れられないくらい、濃い日々を過ごすと決めた。彼女が、別れを考え直すくらいに、濃厚な日々を。
夏の訪れと共に、彼女は異国の地へ行ってしまう。
世界的な流行病により、延期していた旅立ち。
彼女はチェリストで、海外のプロオーケストラに入団が決まっていたが、なかなか行く事が出来なかった。
その時、僕は「チャンスは今しかない」と思った。
ずっと憧れていた彼女に告白を決意し、それからは何度も何度も交際を申し込んだ。
彼女から了承の返事がされた日には「天にも昇る心地とは、この事だ」と思うほど、心の底から浮かれた。
いつ「その日」が来るか分からない付き合い。
僕は精一杯に彼女を大切にし、愛した。
期限付きだから、そうしたんじゃなくて。期限付きじゃ無くても、そうした。そのくらい、彼女は僕にとって、大切で、特別な人なんだ。
「タチアオイって花、知ってる?」
「タチアオイ?」
「そう。真っ直ぐに立つ、背の高い花よ。下から順に咲いていくの。てっぺんまで咲いたら、夏が来るって言われているのよ」
僕は植物には詳しくないから、どんな花か分からなかったけど、その花を見たらきっと僕は、てっぺんの蕾を全て取ってしまうかも知れない。
夏が来ない様に。君と一緒にいる今が、終わらない様に。
「ねぇ」
僕が「ん〜?」と間延びした声で返すと、背中を向けていた彼女が、腕の中でモゾモゾと動き、僕の方へ向き直る。ベッドが微かに揺れ、収まる。
「今、タチアオイの蕾、全部摘んでしまおう。なんて、思わなかった?」
真っ直ぐに僕を見つめる瞳は、どこか楽しげで、口元は柔らかな弧を描く。
僕はその唇に軽く口付けをすると「いやぁ? 思ってないよ? なんで?」と
「あなたと付き合ってから、子供の頃以上に、あなたの事を沢山知ったわ。あなたの性格はもちろん、癖も、好みも、苦手なものも。あなたの考えていること、あなたは私に何度となく伝えて来てくれたもの。だから、私はあなたの考えている事が、家族より分かる。きっと、私ほど、あなたを知る人間は居ないんじゃ無いかってくらい、分かるのよ」
その答えに、僕は小さく笑った。
「じゃあ、僕がずっと側に居たいって思っていること、分かるでしょ?」
「タチアオイの蕾を全部摘んでしまったとしても、夏は来るわ」
「僕は別れたく無いって、思っていることも」
その返答には、彼女は僅かに首を横に振る。
「それは言わない約束。最初から伝えていたでしょ? 私は、向こうへ行ったら集中したいからって」
「電話くらいは、してもいい?」
「出られない事の方が多いわ」
「メールは?」
「なかなか返信、出来ないと思う」
「じゃあ……」
僕が喋ろうとする口に、彼女が唇を重ねて来た。甘く、柔らかい唇が、ゆっくり離れる。
「それ以上は、言わないで?」
困った様な、泣き出しそうな、そんな表情に胸の奥がぎゅっと痛む。
「……うん」
僕はゆっくり目を瞑る。
「私が向こうへ行ったら、紫のタチアオイの花言葉を調べてみて。日本語では無くて、英語で」
「英語で?」
「うん、英語の意味が重要なの」
「……うん、わかった」
それから二週間後、彼女は異国の地へと旅立った。
彼女は旅立つ日に、僕宛に手紙を書いてよこした。
「紫のタチアオイの意味を調べてから、この手紙を読んで? 約束よ?」
そう言って、口付けを一つ残して颯爽と去って行った。
僕は空港から帰るリムジンバスの中で、スマホで意味を調べた。
紫のタチアオイの意味を英語で調べ、すぐに手紙を読む。
僕は僅かに笑ったのち、涙が止まらなくなった。
花言葉
紫のタチアオイ
【愛への献身】
『あなたが大学を卒業したら、きっと迎えに来て。その時まで、お互い自分の事を精一杯に頑張りましょう。いつか来る日を、あなたが私にくれた献身的な愛を胸に、待っているわ』
×××
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