第11話 ある晴れた春の日のこと


「どうやったって過去には戻れねぇんだから、そんなら前を向いて歩いて行くしかねぇんだよ!」


 男は必死の形相で、そう私に向かって言った。

 

「いつまで、そこでウダウダしてんだよ! 良いから、早くこっちへ来い!」


 私に向かって、精一杯に腕を伸ばす。


 私は今、マンションの屋上にいて。

 柵を乗り越え、建物の縁に立っている。


 私は、もう生きていたくなくて。だから、ほっておいて欲しいのに。なんで、知らんぷりしてくれないのよ。


「アンタに何があったか、オレは知らねぇけどよ!」

 

 でしょうね。私も貴方を知らないもの。だから、ほっておいてよ。


「こっから落ちた所を想像してみろ! めちゃくちゃスプラッターな状態になるんだぜ? アンタの、その美人顔も見る影も無くなるんだ! それをよ、下を歩く連中が、うっかり見てみろ! 今は昼間で、人も少ねぇがよ! 万が一、通りすがりにでも見てみろ! 一生、トラウマ級の映像が脳裏に残って消えなくなる! 人によっちゃぁ、飯だって食えなくなる! アンタは死んで何も分からないだろうけどよ、その場に残った赤の他人の人生を、不幸にする権利がアンタにあんのかよ! ねぇよな!!」


 機関銃のように捲し立ててくる。

 なんで、そんな見ず知らずの人のこと、必死になっていうの? 私の知らない人の、その後の人生なんて……。


 私は「知るわけない」と言いたかったけど、言えなかった。


 だって私は、そんな事、望んで無いもの……。そうだ。自分のせいで、誰かが不幸になるのは、もう懲り懲りだ……。そう。この人の言う通り……。


 私は、ゆっくり男を振り返った。男は、僅かに笑みを浮かべ「こっち来い。な?」と、優しい声色で言った。

 私は一つ小さく頷くと、左手で手摺に捕まり、ゆっくりと男の伸ばす手に、自分の右手を伸ばそうとした。


 その瞬間。


 強い風が吹いて、私の体が軽く浮く感覚が。


「危ない!!」


 男が機敏な動きで、すぐさま私の体を手摺越しに抱きしめた。その際、何がどうなってそうなったのか、男の唇と私のそれが、ぶつかった。思っ切りぶつかったものだから、歯がぶつかり、口の中に血の味が滲む。唇が痛くて、ジリジリする。


「ってぇぇ……。大丈夫か?」


 男は唇に血を滲ませながら、私の顔を覗きこむ。そして、私と目が合うと「持ち上げるぞ」と、私の両脇に腕を入れ、軽々と持ち上げた。私は足を縮め柵を越える。柵を無事に越えると、男は安心したのか、私を抱えたまま数歩後ろに下がり、そのまま倒れ込んだ。

 私は男の上に乗っている状態。


「あ、あの……。大丈夫、ですか?」


 倒れ込んだ時、頭をぶつけてないか不安になって聞いたのだが、男は気が抜けた声で「はん?」と聞き返して来た。


「あ、頭、打ってないですか……?」


 私の言葉に、男はふっと、鼻で笑う。


「心配すんな。オレは大丈夫だよ。こう見えて、頑丈な作りをしてるもんでね」


 そう言って笑う男の身体は、少しずつ落ち着いて来た私も、確かに頑丈そうだと思った。筋肉質な身体つきに、何故だか安心して。でも……。


「あ、あの、そろそろ離して……ください」


 そう。男はガッチリ私を抱きしめているのだ。男は「ん?」と数回瞬きをする。


「もう、柵越えないか?」

「は、はい」

「……よし。約束だ」

「はい」

 

 男が、私の身体に巻き付けた腕の力を緩める。私は、ふと男の顔を見た。

 血の滲んだ唇。

 何を思ったか、私は男の唇をペロリと舐めた。


「ッ! な、なに?」


 男が驚きの声を出し、私は自分のした事にハッと気がつく。


「あ……! ご、ごめんなさい。……血が……」

「え、あ……。さっき、ぶつかったんだっけ……。そういう、アンタも血が滲んだままだぜ?」


 その言葉に、今度は自分の唇をペロリと舐めた。血の味が口の中に広がる。


「ごめんなさい……。あ、あの……。助けてくれて、ありがとうございました……」

「……なんで、あんな事した?」

「……」

「まぁ、人それぞれ、色々あるわな。でもな、あんな事、もう二度すんじゃねぇぞ?」

「はい……」

「なんか、一気に疲れたな」と、男は困ったように笑った。


「礼として旨いもんでも、ご馳走してもらいたいくらいだ」と笑う。


 私は死ぬ気でいたから、手持ちが無くて。


「お礼……。あの、私、今、お金無くて……。他の事なら……」


 私がそういうと、彼は一瞬間を置いて「じゃあ」と、私の唇に親指でそっと触れた。


「これを一つ、もらおうかな?」


 ニヤリと口角を上げ笑うその唇に、私は何の躊躇もなくキスをした。


 男は、自分で言っておきながら驚いたようで、身体を硬直させていたが、すぐに解れ、私の背中に優しく手を回した。


 それは、うららかに晴れた春の日の出来事だった。



×××

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