第8話 雨の日の図書館


 雨の日は憂鬱。だけど、読書は進む。


 私は今、市立図書館へ来ている。

 先週借りた本を返しに来たのだけど、雨が降って来てしまって。


 朝は雲一つない、いい天気だったのに。傘持って来てないよ。


 そんなことを思いつつ、特に急用も無かったので、雨が止むまで本でも読んで時間を潰す事にした。かれこれ、二時間程経ったか。一向に止みそうもない雨空を、濡れた窓越しに恨めしい顔で見上げる。雨粒は、楽しげに銀色の光を纏いながら降り注ぐ。

 私は小さく息を吐き、読み終えた本を持って棚へ向かった。

 

 平日の、しかも雨の日の図書館は、とても静かだ。普段なら子連れ家族や、本好きの年寄りさま達が来ているのに。そう思うと、貸し切り気分になって、まぁ、悪いことばかりでも無いな、なんて思う。


 目的の棚に来ると、先客が居た。それでも、私は本を戻して、違う本を取りたかったので、小声で「失礼します」と言いながら、その人が立つ前の棚に本を戻した。


「あ……。あの……」


 先客が声を掛けてきたので、私は「あ、ごめんなさい」と反射的に謝る。


「あ、いや、ごめんなさい。えっと、もしかして……」


 先客は、私の名前を囁いた。

 私は驚きつつ、その人物に顔を向ける。

 さっきまで、さして興味もなく、ああ、先客がいるな、程度で性別すら気にして無かった。


「あ、人違いかな。ごめんなさい」と、その人物は言った。


 長い前髪で、表情がよく分からない。けど、男性である事は分かった。身長は私より少し高いくらいで、たいして変わらないので、不躾と承知でマジマジと見つめる。そして、ある一人の人物を思い出した。

 私は思わず、声を張って彼の名を呼んだ。


「しっ!」と、すかさず目の前の彼がいう。

 私は慌てて口に手を当て、首を窄めた。


「やっぱり、キミだったんだね」と、彼は少し私に体を寄せて、静かに柔らかな声で言った。

 二の腕が僅かに当たり、ほんのり体温を感じる。この距離感、なんだか気恥ずかしくも懐かしい。


 彼とは中学生の頃に同じクラスで、同じ図書室係で、私の初めての彼氏……でも、あった。

 まさか、この図書館で彼に会うとは……。

 私は、彼から顔を逸らした。


「どうしたの?」


 身体を僅かに猫背にして、顔を覗き込む様に訊ねてきた。

 近いた顔に、私はさらに視線を逸らす。


「なんでも、ないわよ。それより、ちょっと近過ぎると思う」

「ああ……。ごめん……」


 彼は、そっと私から離れた。少し、寂しげに。


 私は、顔は俯き加減のまま、視線だけ彼に向ける。前髪から除く切長な目に、長いまつ毛。少し歳を取ったけど、ほぼ変わりない。


「……こんな所で会うなんて、なんか、変な感じだ……」


 彼は静かに言う。彼の声は、柔らかく降り注ぐ雨音のようだ。

 ずっと聴いていると、図書館の海の中へ沈んで行きそうな……。


「……ねぇ、聞いてる?」


 ふいに耳元で彼が囁いてきて、私の心臓は大きく跳ねた。


「え? なに? ごめん、ちょっとぼんやりしていたみたい……」

「ふふ……そういうところ、変わってないね」


 彼の笑顔に、私も釣られて笑う。

 すると、ふと、彼は笑うのをやめた。


「僕たち、何で別れてしまったんだっけ……」

「……」


 何故だっけ。


 高校が別々になって、私は初日から挫いて、新生活が上手くいかなくて。毎日、自分の事で精一杯で。それで疎遠になって。気が付けば、連絡すら取らなくなっていたんだ……。


「僕のことが、嫌いになったから、かな?」

「それは、違う。そうじゃないわ……」


 彼は「いま、恋人はいるの?」と、訊いてきた。なぜ、そんな事を訊くのだろうと、思いつつも、首を横に振った。


「じゃあ僕ら、あの日から、もう一度、始めない?」

「あの日……?」

「そう、あの日」


 顔を上げた私の視界は、目を閉じた彼の顔で一杯になっている。

 唇に当たる湿った感触。

 

 ゆっくり離れた彼が、まるでスローモーションのようで。


「あの日、僕がこうしたから、君は僕を嫌になったのかと。そう、思っていた」


 蓋をしていた記憶の箱が開く。


 そうだ。

 あの日は、卒業式前で。最後の仕事をしようと、二人で図書室にいて。

 あの日も、雨が降っていたんだ。


 薄暗い図書室で、私たちはキスをしたんだ。


「嫌だったわけじゃない……。私は……」


 再び、口が塞がれる。私は抵抗する事なく、それを受け入れた。なぜか、それが自然なことのように感じて。


 雨粒が、窓を叩く。

 

 遠くで雷鳴が聞こえた。



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