第7話 最後のキス


「これで、あとは市役所行って出せば、本当に終わりね」


 妻は、そう言って清々しい笑顔を俺に向けた。何年振りに見た笑顔は、出会った頃と変わりなかった。


 半を押した離婚届を、素早く折り畳み鞄に仕舞う。そんな急いで仕舞わなくても、取り上げたり破ったりする訳ないのに。俺は顔に出さず、心の中で呆れた。


 いつからかだろう。

 会話が無くなったのは。


 いつからだろう。

 妻の顔を、笑顔を、見なくなったのは。


 いつからだろう。

 身体を重ねなくなったのは。


 そんな事を、今更、考える。考えた所で、何の役にも立たないし、もう元にも戻れない。戻る気も無い。お互い、もう心が無いのだから。


 俺がそんな事を考えていると、妻が「ねぇ、最後に一つ、お願いがあるの」と、澄ました顔で言う。


「……なんだ。金の話は、もう話し合って決めたろ」

「そんな話しじゃないわよ」

「じゃあ、なんだ」


 俺が感情の無い声で訊ねると、妻は小さく苦笑いした。


「最後の最後まで、私に対して無感情なのね」


 無感情。

 自分では、分からなかった。昔がどうだったのか、それすら今では思い出せない。

 俺はそれに対して何も答えず、先を促した。


「キスして欲しいの」


 その言葉に、俺は僅かに目を見開いた。


「私、あなたとのキスが、好きだった。本当は、ずっと……。私が疲れているだろうからって、いつからか抱いてもくれなくなって。私を理由に、何もしてくれなくなって。……私は……。私は、もっとあなたに、触れていたかったし、触れていて欲しかった」


 初めて聞く妻の思い。俺は、自然と奥歯に力が入る。申し訳ない気持ちと、やるせ無い気持ちと、誰に対してでもない、苛立ちと。


「最後のお願い。キスして」

「……わかった」


 俺は、妻に分からない様に小さく息を吐いた。


「……そんなに、嫌? 私とキスするの」

「……何でそう思う?」

「あなた、いつも溜息吐くの。私がお願いすると。それって、バレてないと思っているみたいだけど、わかるものよ。その静かな溜息に、どれだけ私が傷付いてきたか、あなたには分からないわよね……」


 その言葉に、胸の奥がヒヤリとし、次にぎゅっと何者かに掴まれた様に痛んだ。


「まぁ、いいや。もう、いい。ごめんなさい。変なお願いして」


 妻が鞄を肩に掛けて、ソファから立ち上がった。俺は無意識に立ち上がり、妻の腕を掴んだ。


「なによ、痛いわ」

「……すまん……。ただ……申し訳無かった。君の願いが嫌だったんじゃない。その……俺は……」


 何を言っても、今更だし、嘘だと思われても仕方ないことだ。今までの俺自身の態度が、彼女にとって全てが事実なのだから。


「もういいわ」


 そう言った妻を、俺は抱き寄せた。


「悪かった。本当に」


 妻は、僅か震えていた。声を殺して泣いている事に気が付いて、俺は何も言わずに抱き締める腕に力を込めた。こんなに細い身体で、ずっと強くあろうとしていたんだな。


「俺には、幸せにしてやれなかったが……。幸せになって欲しいと、心から思っているよ」

「……」

「あいつと、うまくやれよ」


 腕の中で、彼女が小さく頷いた。

 今の妻には、俺のかつて親友だった男がついている。


 腕の中で妻が小さく身じろいだので、腕の力を弱めた。顔を上げた妻の顔は、穏やかで優しいものだった。もう随分と見ていない、その表情に、自然と吸い寄せられる。

 互いの唇に触れるだけの、小さな口付けをすると、妻が「ありがとう」と、囁いた。

 俺は両腕の力を緩め、彼女を離した。


「元気でね」

「ああ。そっちも」

「煙草、少し控えなさいよ」


 俺は思わず鼻で笑う。


「わかったよ」

「じゃあ、行くわ」

「ああ」

「さようなら」

「……さようなら」


 妻は、今度こそ玄関へ向かって歩き出した。俺が玄関先まで見送ろうとついていくと、不意に妻が振り向いた。


 そして、俺の首に腕を巻き付けキスをしてきた。

 俺はそれに応えるように、深くキスをした。しばらくして妻が離れ、俺の顔を覗き込んだ。


「やっぱり、あなたのキスが一番好きだった」


 そう言って小さく笑う。そして、その笑みはすぐに消えた。


「じゃあ、今度こそ、本当にさようなら。ありがとう」


 玄関のドアが静かに閉まるのを、俺は黙って眺めていた。


「さようなら……」


 頬に何か流れ、俺はそれに触れた。濡れた頬に、自分が泣いていることを知った。

 

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