第3話 夜の展望台で見下ろす街は
もう人もまばらな閉館間際の展望台。
一人で夜景を観に来た。
見下ろした都会の明かり。ミニチュア模型みたいに動く車の流れ。ただ、ぼんやりと眺めながら閉館の音楽を聴き、帰る。
ほんの数十分だけの、私の楽しみ。
展望台の中でも、お気に入りの場所がある。どの位置から見ても良いと言うわけでは無いのだ。私だけの、小さなこだわり。
私はいつもの様に、帰っていく客とは逆方向へと足を進め、お気に入りの位置へ向かった。が、先客がいる。いつも平日のこの時間は、ほぼ無人で、私一人の特別感があった。
私一人で独占したかった夜景。
しかも、私が一番好きな場所に、陣取って立つ背の高いスーツ姿の男は、ぴくりとも動かず帰る気配がない。
時間もないので、仕方なく私は、少し距離を空けて隣りに立って夜景を眺めた。
隣に気配を感じた男は、チラリと私を観た。
「大丈夫?」
「え?」
なに? この人、いま、私に話しかけたの?
私は男に顔を向けると、男は益々眉間に皺を寄せ、スーツのポケットに手を入れる。随分と整った顔立ちの人だと、ぼんやりと思う。
「良かったら、使って。大丈夫、ちゃんと洗濯して綺麗だから」
男が私にハンカチを差し出してきた。濃紺のシンプルなハンカチだ。
「え?」と、戸惑っていると、男は一歩、私に近づきハンカチを頬に当てた。
「泣いてるから……」
私は自分が泣いている事に、全く気が付いて居なかった。
「なんで……」
私は男からハンカチを受け取り、頬を拭う。
「いつも、ここに立って泣いてるから、ずっと気になってたんだ……」
「え……? いつも?」
「あ……えっと、俺はそこのバーカウンターで働いてて……今日は休みだけど……」
後ろを振り向くと、確かにバーカウンターがある。既に閉店しており、店員は誰もいない。彼の言うように、今日は休みなのか。
「俺、普段、ラストが多いから、この時間は後片付けを一人でしてて……。週に何度か来るあなたの事は、それで知ってて。で、ずっと気になってたんです」
突然の言葉に、私が戸惑っていると、彼は名刺を差し出す。それを受け取り、名前を見る。素敵な名前だ。
「突然で、気持ち悪いですよね、ごめんなさい。ただ、どうしても……一度、あなたと話がしたくて……」
何故だか、嫌ではなかった。
普段なら、絶対あり得ないと拒絶反応を見せるはずなのに。なぜか、彼のことは受け入れられる。そんな自分に、私は僅かに戸惑う。
なぜ……。
私は彼から顔を逸らし、夜景に目を向けた。
いつもと違う、いつも通りの風景。
彼は何故か黙ったまま、立ち去る事もなく隣で一緒に夜景を見下ろしている。
暫くして、閉館の音楽が心地よい音量で流れ始める。
「行きましょうか……」
私がそういうと、彼は一瞬、驚いた顔をした。私から話しかけられるとは、思っていなかった様だ。しかし、「ええ、行きましょう」と頷き、私の歩調に合わせ歩き出した。
外に出ると、彼にハンカチを返そうとして思い止まる。
「あの……ハンカチ、ありがとうございます。これ、洗ってからお返ししますので……」
「いや、良いですよ、そのままで」
「いえ。後日、お返ししますから。……あの……」
彼は一瞬だけ、停止した。そして。
「じゃあ……お願いしようかな。また会えるきっかけにもなるし」
私の思考を読んだように、彼は言った。
そう。私は、またこの彼に「会いたい」と思っていたのだ。このまま、さよならは、嫌だと。なぜか、そう感じたのだ。
「あの……何か、お礼がしたいのですが……」
私がそういうと、彼は「いや、特に何もしてないけど」と断った。しかし、何か思案するような表情をし、「じゃあ、ひとつ、簡単なものを」と言って、私を見つめた。
私は黙って次の言葉を待つ。
「ちょっとだけ、目を閉じてもらえますか?」
「目を、ですか?」
「ええ」
私は何だろうかと思いつつ、その言葉に従う。
ふわりと鼻腔をくすぐる香り。と同時に、唇に何やら柔らかなものを当てがわれた。
私は薄っすらと目を開け、驚いた。
「ごちそうさまでした」
彼は片方だけ口角を上げ、悪そうな笑みを浮かべる。
私はただ驚き、熱くなる顔と唇に手を当てる。
「じゃあ、行きましょう。暗いですし、駅まで送りますよ」
そういうと、彼は前を向いて歩き出した。私は立ち止まったまま……。だけど、ふと、普段の自分なら、思いもよらない気持ちが湧き上がり、気が付いたら行動に出ていた。
彼を小走りで追いかけ、その腕を掴む。
彼は少し驚いた顔で私を振り向く。私はその顔を引き寄せる様に彼の頬に手を当て、先程、私の唇に触れたそれに重ねた。
彼は数秒して直ぐに私を受け入れ、お互いを求める様に重ね合わせる。
名残惜しそうに離れると、私は小さく息を吐く。
「行きましょうか」と彼。
「ええ」と私。
私達は手を繋いで、夜の街をゆっくり歩く。
×××
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