第1話 囮の日常
その森は、5センチ先も見通せないほど濃い霧に満たされていた。まだ昼過ぎだというのに夜明けか夕暮れだと勘違いしそうになるほど薄暗く、15分ほど滞在したころには時間の感覚は濃霧に溶けてなくなってしまっていた。
太く立派なオークに背中を預け、少し湿った地面をはい回る大蛇のような根と根の間に座り込み、私はあるものが濃霧の奥から現れるのをじっと待っていた。都合のいいことに、地上10センチまでは霧が薄く、かなり向こうの様子まで――はっきりと、とはお世辞にも言えないが――目視で確認することができた。
目を凝らして耳を澄ませ、あまりに刺激がなくぼーっとしそうになる神経を尖らせてその兆候を逃すまいと集中していると、斜め後ろの方からざくざくと地面を一定のリズムで蹴りながら近づいてくる音を聞き取った。
足場の悪さを物ともしない軽快さは、人間や他の動物ではあり得ない。適当に伸ばしていた脚をそろえて横に倒した。近づいてくる足音を聞きながら、大きく深呼吸をして気を落ち着かせた。何度もしてきたことだが今だに慣れない。
その姿を捉えようと上体を後ろにひねると、柔らかい霧の向こうから一本のまっすぐな角を額から突き出した白い馬――ユニコーンがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
霧を抜けてはっきりと姿を現したユニコーンは黒いつぶらな目を私に合わせると、優美に脚を折り曲げて頭部を私の太ももの上にそっと寝かせた。
豊かな白い立髪をすくようになでると、ユニコーンはうっとりと目を細めて、それから徐々に瞼を閉じた。
ユニコーンが眠りに入り、力が抜けて頭を私の脚に沈めたと同時、濃霧の向こうから音もなく飛んできた光の筋がユニコーンの柔らかい腹に突き刺さって消えた。
痛みに暴れたりうめき声をあげる間もなくユニコーンは絶命した。完全に弛緩した頭がずしりと脚の血管を圧迫する。赤黒い血液が腹に空けられた穴からとろとろと流れ出て、私の脚元の土に染み込んでいく。
「仕留めた! 回収急げ!」
森中に響き渡る凛々しい女性の声を合図に、軍服を身にまとったいかにも頑健そうな5人程度の男性が、物々しい道具を携えて駆け足でユニコーンの死骸に寄ってきた。
青年たちは無言で手際よく死骸を黒い布に包み、木製の手押し車に詰め込んで再び霧の中に消えていった。彼らと入れ違いに、柔らかそうな黒髪を背中に流したサラ・アンダースンが歩み寄り、私の前に立ち止まった。
「お疲れ、メアリー」
サラは薄氷色の目で私を見据えながら、少々わざとらしく口元だけで笑ってみせた。
「本当に疲れるよ。ただ木の根元に座っているだけなんだけどね」
私は立ち上がって思い切り伸びをした。
「じっとしているのは退屈で疲れるものさ」サラは言った。「その血のついた服を着替えて散歩に行こうか」
見ると、黒のエプロンワンピースの裾が湿っていた。特にお気に入りだったわけではないが、それでも服が汚れているという事実に少なからず気落ちした。
「そうだね、座りっぱなしだったから歩かないと」
サラと私は、森を抜けようと足下に用心しながら霧の中を進んだ。
その途中で背の高い、先ほどの青年たちと同じ軍服姿の女性とすれ違った。その女性は背筋をピンと伸ばしてマスケット銃の銃床を地面につけ、どこかの一点をじっと見つめていた。彼女がユニコーンを撃ち、青年たちに指示を出していたのだろう。サラは彼女を気にも留めない様子で隣を通り過ぎたが、あまりに他人行儀なのも気まずいので私は軽く会釈した。
気付いたのか、女性はわずかに顔をこちらに傾けた。軍帽のつばから落ちる黒い影の奥から、鋭い赤い虹彩が覗いていた。
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