X-2
「ただいま」
返ってこないとわかっているのに、いつもの癖で口にしてしまう。一種の期待だった。そうすることで、返事があるかもしれないと。眠っている渉に声をかけ続けているのも、きっとそんな期待があるのだろう。独り言に終わるたびに、虚しさを抱えなければならなくなるのだが。
玄関先で傘をしまい、行きがけに玄関に置いておいたタオルでバクの身体を拭く。
「タオルそれだけじゃ足りないですよね」
横からタオルで覆われた手が伸び、バクの身体を包んだ。
「え……」
六夏はこれまでで一番まの抜けた顔をしていた。口は半開きで、目も見開かれている。
またしても夢を見ているかのようだった。家を間違えたのだろうか。そっくりさんでも見ているのだろうかと混乱した頭で的外れなことばかり考える。
呆気にとられる六夏の横で、バクが嬉しそうにその人に身体を擦り寄せる。
「あぁ、まだ乾いてないんだから俺まで濡れちゃうじゃないか」
言葉とは裏腹に、声は喜んでいた。顔も、口元を綻ばせ、嬉しさを滲ませている。
「え、なんで……ピョン吉くん……? え、本物? いつ戻ったの!?」
「戻ったのはついさっきです。ちなみに偽物がいるかは知りませんが、一応本物です」
手を動かしながら、自分の体を確かめる。
「あ、あと稔さんに会いに行きたいんですけど、まだ入院してますかね?」
稔がどうなったのか知りたいのだと淡々と話す渉を、六夏は力一杯抱きしめた。
「え、は、何?! 何ですか?」
「バカ! 心配したじゃないか!」
間に挟まれたバクが暴れ、ひとり先に逃げ出す。
隙間はなくなった。その分、抱きしめる腕に力が込められる。からかいの言葉のひとつもかけようと思ったが、抱きしめられた身体が微かに震えているような気がして、渉は謝ることしかできなかった。
「すぐに戻ってこられると思ってたんです。だから、こっちの身体のこととか心配してなかったんですけど……次に移った夢の持ち主があまり眠らない人で、出口を探すのに思ったより時間がかかってしまって。ご迷惑をおかけしました」
「それは全然迷惑じゃないよ……迷惑って言わないよ……無事で良かった!」
二人の間にさらに距離がなくなる。六夏の震えは止まらない。
渉はため息をこぼしながら、右手を彼の背中に触れた。宥めるようにぽんぽんと触れる。
「言いつけ破ってごめんなさい」 渉の反省は短い。「それより、稔さんは? 今からならまだ再会できるかな」
「稔くんならこの前ここに来てくれたよ。助けてくれた人がいたって。君のことだね?」
「よかった……ちゃんと起きられたんだ」
安堵のため息をこぼす渉に、六夏は身体を放し、渉の顔を見た。六夏は眉を下げていた。
「やっぱり君って人は、人が良すぎるよね。自分を犠牲にしてでも、誰かを助けようとするから、それができる人だから……本当に尊敬するけど、心臓がいくつあっても足りない」
「こうして戻ってこられたんだから、結果オーライってことにしてくださいよ。あ、そういえば、依頼人に睡眠時間を増やしてくれるよう、お願いしてくれたんですよね。ありがとうございます」
「何で、そのこと……」
「さっき電話があって、あ、勝手に出ちゃいました。すみません。それで、お礼の電話だったんですけど、そのときに教えてくれたんです。あなたが依頼人のところにお願いに行ってくれたんだって。夢の始まりがいつもより早いなと思うときがあったんです。俺はてっきり昼寝でもしてるのかなって思ってたんですけど、はは、呑気ですよね。自分でもそう思います。依頼人が夢を見ている時間が増えて、出口を探す時間も得られたのはかなり助けられました。あなたが力を貸してくれたんです。出口を見つけられたのは、あなたのおかげです。本当にありがとうございました」
渉が深々と頭を下げる。六夏も何か口にしようとしていたが、渉がそれを阻んだ。感謝も謝罪も自分は散々口にしたというのに、六夏には言わせないのは、どこまでもずるい。
けれど、六夏はこれ以上怒れなかった。元々怒ってはいないが、動いて喋っている、自分の前であの頃のように悪態をついたり、いろんな表情を見せてくれる。ただそれだけのことが温かくて、やはりもうこれ以上何も言えなかった。
頭を下げていた渉が顔を上げる。先ほどまで真剣な表情で、六夏の対応するときには見せたことのない顔、そして言ったことのないような言葉を向けていた人物とは思えないほどに、その顔はいつもどおりの見慣れたものへと変わっていた。
「ところで、お腹空いてませんか?」
六夏はどうあれ、渉は腹ペコだった。
「大東さんですかね? 冷蔵庫にたくさん調理されたものが入ってますけど、あれいただいてもいいですか? あ、でも急に固形食は控えた方がいいのかな」
渉は自分用におかゆでも作ろうかと呟いてから、六夏の方を向いた。
「何か食べます? 食べるなら、冷蔵庫に入ってるもの温めますけど」
「あ、ちょっと待って」
キッチンに向かう渉を六夏が引き止める。
「もしよかったら、ピョン吉くんが作ってくれたものが食べたいな」
メニューのリクエストまでする六夏に、渉は笑った。
END.
悪夢専門探偵事務所 小鳥遊 蒼 @sou532
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます