Case X

X-1

 梅雨に入り、毎日のように雨が降り続いていた。

 湿度が高く、ジメジメしたこの季節はなるべく外出を控えたい六夏だったが、バクが散歩をねだったので、仕方なくリードを握っていた。いつもはひとり、勝手に出かけるというのに、どういう風の吹き回しだろう。おかげで六夏の髪は爆発していた。


「前と逆だね」


 力なく笑う六夏に、バクはふいと顔を背けた。

 バクの見た目はすっかりバクそのものになっていた。あの可愛らしかったウリ坊のような面影はない。

 全身黒い毛で覆われ、お腹の部分だけが白い毛に変色している。いわゆるパンツを履いているような形態をしていた。

 見た目は変わってもリボンチョーカーは相変わらず身につけたままだった。体が大きくなった分、以前使用していたリボンは使えなくなったので、新調したが、色は同じままだ。


 バクは六夏の前を歩く。慣れたように坂道を登っていく。

 相変わらず、雨の中だというのに身ひとつで歩いていた。あの頃よりも少し歩幅が変わり、歩くスピードも変化はあったが、六夏の体感的にはさほど違いはなかった。





 渉が眠りについて数週間ほど経った頃、事務所の扉が叩かれた。事務所はしばらく休みをとっており、その旨を扉の前にも提げていたにもかかわらず、来客があった。

 休みにしていたとはいえ、事務所で調べものをしており、明かりを煌々とつけていたので居留守を使うこともできず、仕方なく席を立つ。説明して帰ってもらおうと扉を開けた先に立っていた人物を見て、六夏は驚いた。なんと訪問者は稔だった。


「六夏さん、お久しぶりです」


 声は出なかった。夢でも見ているのか、そんなことを思うが、夢を見るわけないことは自分が一番わかっていた。

 本当に稔なのか。改めてまじまじと見つめる。あの頃より随分痩せてしまってはいたが、間違いなく稔だった。


「どうして……」

「ちょっと前に目が覚めたんです。本当はすぐにでも六夏さんのところに伺いたかったんですけど、体力が戻らなくて」


 眉を下げて笑う。年ですかね、とこぼす笑顔が幼く見えた。


「仕事、途中で投げ出すかたちになってしまって、ずっと謝りたかったんです」

「いや、謝るのはこっちの方で……」

「いえ、六夏さんに言われてたのに——夢の中の人に話しかけちゃいけないって。なのに俺、思わず声が出ちゃって……そのあとは夢の中を探索して、何とか外に出ようと試みたんですけど、どうにもできなくて……時間の感覚もなくなっていって、そのうち何もわからなくなって。今思い返しても夢の中に閉じ込められたあとのことはあんまり覚えてないんです。だけど、外に出たいって気持ちだけは残ってたみたいで」


稔は照れくさそうに頭をかく。


「そしたら、知らない誰かが俺を導いてくれたんです。何も言ってなかったと思うんですけど、出口はこっちだって、ついてこいって連れてってくれるみたいに。その辺の記憶も曖昧なんですけどね。それで、その人が光の先に俺を連れていってくれたんです。でも、その光は消えかけてて、消える直前にその人が俺の手を引いて助けてくれたんですよ」

「そうか、それはよかった……本当によかった」


 心の底から安堵の声を漏らす六夏に、稔の表情も緩む。


「それで……その助けてくれた人っていうのは?」

「その人がそのあとどうなったのかはわかりません。すぐに光が消えてしまって、次に目が覚めたとき、俺は病室にいたので」

「そう……」


 そのあとは他愛ない話で時間を費やした。見た目こそ痩せ細ってしまっていたが、しゃべればあの頃と変わらない稔の姿が垣間見られた。

 嬉しい気持ちはもちろんあったが、それ以上にやるせない感情が再会の喜びを半減させた。






 雨は朝から降り続いていた。

 傘をさしている六夏とは違い、何も纏っていない無防備なバクは雨を一身に受けている。さほど強い雨ではないものの、家を出たときから降られているため、すでに全身が濡れていた。

 バクでも着られるレインコートもあるのだが、本人が着たがらないので、帰ったらひたすら拭く作業が待っている。雨の日の散歩のあとに、渉が何の文句も言わず——むしろ楽しそうにバクを拭いている姿を見たことがあったが、六夏にはどうにも真似できそうになかった。


「ピョン吉くんはどこにいるんだろうね」


 ポツリとこぼした独り言は雨の音にかき消される。

 渉の身体は六夏の自宅——渉が使っていた部屋で眠っている。あの日、眠りについてから目覚めることなくそのままだ。病院に連れていくことも考えたが、そばに置いておいたのは、六夏のわがままだ。その分、しっかり身体のメインテナンスも滞りなく行なっている。もちろん六夏だけではどうにもできないので、そこはコネクションをこれでもかと活用している。


 助けてくれた人がいると稔は言っていた。それは間違いなく渉だろう。

 渉は見つけたのだ。夢の出口を。出口を見つけた渉は、ギリギリのところで稔だけをへと戻した。それが精一杯だったのだろう。

 渉はまだ夢の中にいる。誰かの夢の中を彷徨っている。


「そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなるとピョン吉くんが心配するからね」


 まだ散歩コースの折り返し地点には満たなかったが、バクは大人しく従った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る