3-2 引き受ける基準

 新しい依頼人が探偵事務所を訪れたのは、桜の開花が発表された日のことだった。

 前回依頼を受けてから今日まで、何人かの依頼人が探偵事務所の扉を叩いたが、六夏が依頼を引き受けることはなかった。皆それぞれに悪夢に悩まされていて、話を聞く限りではかなり困っているようだった。引き受けそうな案件もあったように思うが、渉の予想に反し、六夏が首を縦に振ることはなかった。これまで以上に依頼を受けるハードルが上がっているように思えた。


 今度の依頼人は高校生くらいの男の子だった。渉よりも身長は少し高く、体つきは華奢。色白なことも華奢な印象を与える要因のひとつとなっているだろう。

 か弱そうな見た目とは裏腹に、事務所に足を踏み入れるや否や、依頼人は大きな声で挨拶した。お辞儀の仕方からも礼儀正しさを感じる。

 が、すぐ足元で大きな声を聞くハメになったバクは、飛び上がるほどに驚いていた。そしてそのまま事務所の奥へと逃げる。足元で黒いものが動いたことに依頼人も驚いていた。少し傾向は違うが、ある意味お約束の流れだ。


「連絡したやなぎです。えーと……」

「ようこそ、悪夢専門探偵事務所へ。どうぞ、おかけください」


 いつものように上座に設置されたソファを指し、かけるよう勧める。

 依頼人が腰を下ろしたところで、その前に紅茶の入ったカップとシュガー、ミルクを置き、渉も六夏の隣に座った。


「早速ですが、あなたの悪夢をお聞かせください」


 入室してきたよりも声のトーンを抑え、依頼人は少しずつ夢を語り始めた。

 依頼人の話はこうだ。

 夢の始まりは当たり障りのない平凡な内容なのだという。直近に見たものでいうと、学校で友人と話していたり、旅行に行く準備をするといったような内容だ。夢ということもあり、現在通っている高校の校舎ではなく、中学生のときに通っていた校舎で現在の友人と語らっている。

 その夢自体に恐怖はないらしい。いじめられるということもなければ、語らっていたあとに暴力を振るわれることもない。言葉によるものも、物理的被害もないのだという。

 楽しみにしていた旅行が頓挫することも、寝坊して行けなくなるということもない。実際はその先を見ることがないまま場面が切り替わるので、悪い夢になるかどうかは判断できない。


 しかし、悪夢はその先にあるという。

 目が覚める直前に突然男が現れるのだ。なぜ目覚める直前かどうかわかるのかというと、夢の中に目覚まし時計の音が入り込んでくるからだそうだ。もちろん、その時点では目覚まし時計だという自覚はないが、目が覚めたあとに、あの音は目覚まし時計の音だったと気づくのだという。


「知らない人だと思うんですけど、急に現れて手を引くんです。それで僕、動けなくなって、起きられなくて……その夢を見たときは必ず寝坊してしまうんです」


 目覚まし時計の音が鳴り止まないため、母親が起こしにやってきて、そこでやっと目を覚ますことができるのだとか。


「手を引かれるというのはどのような感じですか? どこかに連れて行かれそうになるとか、そんな感じですか?」

「いえ……あまり具体的には覚えていないんですけど、連れて行かれるというよりは、どこかに連れて行ってほしいみたいな感じですかね。引っ張られるというよりは、掴んだあとは離そうとしてくれないみたいな。ちょっと曖昧なんですけど」

「そうですか……」


 話を聞き終えるとすぐ、六夏は渋い顔をした。

 これも断ってしまうのだろうかと、眉を下げている依頼人に同情の気持ちが芽生える。

 沈黙が生まれた。依頼人は六夏の言葉を待っていた。


 しばらく続くかと思われた静寂は、思いのほか早く破られた。

 息を吐く音に、依頼人の肩が跳ねる。


「依頼を受けることになると——柳さんはまだ未成年なので、保護者の方の同意が必要となります。そちらは大丈夫ですか?」

「はい、母に相談してくるようにと言われたので、それは大丈夫だと思います」


 母親もこの場に同席したいとのことだったが、話の信憑性を左右されないようにということと、知っている人間——特に近しい人物が話し合いに同席することで情報を隠されることを懸念したため、一人で来るよう予め伝えていた。

 六夏は契約書を渡し、再度相談した上で、依頼を決めた場合は必要箇所の記入をしたあと、提出するよう伝えた。つまりは、依頼人次第では依頼を引き受けるつもりがあるということだ。


「やっぱり何か基準があるんじゃないんですか?」


 依頼人が帰宅したあと、渉は率直な疑問を六夏にぶつけた。


「何のことだい?」

「ここ最近ずっと依頼を断っていたじゃないですか。断っていた夢と、今日の依頼人の夢。何が違うのかなって。俺には全然わからないんですけど、何か基準があるんじゃないんですか?」

「基準、か」六夏が笑う。「そんなものはないよ。基準なんてものを僕が持っているわけないでしょ?」

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