1-17 夢は現実ではない

 言われたとおり手を洗ってからリビングに向かうと、六夏の姿はなかった。代わりと言ってはなんだが、テーブルの上には氷が浮かぶグラスが置かれている。表面に水滴はほとんどついておらず、ついさっき入れられたことが伺える。

 どうしたものかとソファに腰を下ろそうとしたところで、キッチンから六夏が出てきた。手には何色と表現したらいいかわからない謎の飲み物を持っていた。飲み物と言ったのはグラスに注がれていたからで、見た目だけで言えば、口の中に入れても大丈夫なのかどうかさえ危うい。


「はい、どうぞ」


 得体の知れないものを、六夏は渉の前に置いた。グラスをふたつ持っていたことで嫌な予感はしていたが、ひとつは渉の分だったらしい。


「えーと、これは……?」


 訊くのも恐ろしかったが、知らずしてアクションを起こせるわけもない。

 六夏は自分の分のグラスにシロップを注いでいた。この家には大の甘党である六夏のために、シロップが多数揃えられている。今六夏が注いでいるシロップははちみつで作られたものだった。

 はちみつシロップを大量に投入し、ドロドロの状態のものをかき混ぜながら六夏が口を開く。


「スムージーだよ、グリーンスムージー。野菜だけじゃなくてりんごとか、あと柑橘系も入れてるからさっぱりするよ」


 ためらいもなく六夏はグラスに口をつけた。ごくごくと喉が鳴る。なんとも大胆な飲みっぷりだ。


「あ、その前に水飲んで。レモンウォーターだから」


 渉は真っ先にあらかじめテーブルに置かれていたグラスを持った。現実逃避の時間を長く取りたかったのだ。しかし、レモンウォーターを飲んだところで、その先に待つスムージー現実がなくならないことも知っている。

 レモンウォーターは間違いなくおいしかった。汗をかいた身体をさっぱりと洗い流してくれるようだった。

 渉はレモンウォーターを半分ほど残した。は取っておくに越したことはない。

 目の前で美味しそうに飲み干している六夏を前に、渉はそれでも半信半疑にグラスを持った。恐る恐る口元に近づけ、ほんの少しだけ口の中に入れる。


「あ、おいしい」

「でしょ?」六夏がドヤ顔で決め込む。「これだけは得意なんだ」


 自信ありげに鼻を高くする六夏に、確かにこの味ならその顔も許されると思った。ただ、このスムージーはすでに十分な甘さを持っていた。先ほど目の前でこれでもかとシロップを注いでいた六夏のグラスの中の甘さを想像するだけで鳥肌が立った。


「運動したあとはミネラルも必要だし、エネルギーも摂取した方がいいからね。固形物は無理でも、これなら手軽にどちらも補える」

「ありがとうございます」

「落ち着いたら、今日見た夢の話を聞いてもいいかな?」

「あー……えーと、ここに来て初めて見た夢と同じでした」


 訊かれることはわかっていた。速やかに話を終えるために、心の準備もしていたつもりだったが、実際にその場に置かれると吃ってしまうあたり、不器用さを感じる。渉の不器用は今に始まったことではないので致し方ない。

 それでも簡潔に、軽口を意識した。


「最初に見た夢というと?」

「溺れる夢です。真っ直ぐな道を歩いていたら突然水が溢れて、それでもしばらくは普通に歩いているんですけど、転んでしまって、そのあとは水の中に沈んでいくっていう。依頼人がここに来たときに悪夢としてお話しされていたあの夢です」

「何か変わりはなかったかい? 些細なことでも構わないんだ。何か気になったことはなかった?」


 少し考えたフリをして、間を置いてから口にした。「ありませんでした」

 六夏は渉の顔を見つめていた。渉は思わず目を逸らしたが、六夏の目線は渉を逃さない。

「ピョン吉くんは嘘が下手だね。素直なんだろうなぁ。隠してることがあるってバレバレだよ」

 渉は顔をしかめた。六夏と出会って過ごしていく中で、彼に何かを隠そうとしたところで無駄に終わるということはわかっていたはずだ。にもかかわらず、隠し通せる気でいた自分に辟易する。走りに出て、得られた結果がこれかと自嘲する。

 それでも渉が話す気になったのは、眉を下げて笑う六夏の姿が映ったからだろう。


「これは調査の手助けになるかどうかはわからないんですけど」保身の前置きをしてから続ける。「依頼人の足を引いていた人物——引いていたのは人だったんですけど、その人の顔が見えたんです」

 六夏は目を丸める。「誰だったんだい? 知ってる人だったのかな?」


 前のめりになる六夏に、ついさっき言った前提を念頭に置いてほしいと内心こぼす。

 言いづらさが増したが、言わないわけにもいかない。


「光昭さんだったんです。あの、寝タバコの火災で亡くなったっていう」


 渉は『蓮水 火災』と検索して出てきたネット記事を読んでいた。そこには事故で亡くなった蓮水光昭氏の顔写真も載っていたのだ。

 渉は光昭氏の顔を知っていた。だからこそ、夢の中で依頼人の足を引く人物が光昭氏であることがわかったのだ。

 足を引いている人物は一人ではなく、光昭氏の他にもいたのだが、誰なのかまでは特定できなかった。


「これって、俺が結びつけてるんでしょうか?」

「どういう意味?」

「依頼人の夢をいくつか見たから、それらをすべて繋げて、あたかも関連があるかのように見ているのかなと思って……足を引く人の顔が見えて、それが見たことのある人物だったのも、俺が調べて顔を知っていたからで」


 渉の懸念はそこにあった。

 あまりにできすぎている夢の内容に、これまでに夢と現実で得た情報を結びつけているのだと考えていた。そうだと言われても不思議はなかった。

 もし渉の思っているとおりだったとして、であれば、今朝見た夢は六夏の仕事の役には立たない。完全に無意味と化す。


「ピョン吉くんは夢を構成できるのかい?」


 六夏の口調は渉をバカにするでも、威圧感を感じさせるものでもなかった。


「これはの夢じゃない。あくまでの夢だよ」


 でも、と口を開きかけた渉を六夏が止める。


「それに、ピョン吉くんはもうひとつ勘違いしていることがある」

「勘違い?」

「そう。それはね、夢は現実ではないってこと。夢は確かに現実を反映する部分もあるけれど、完全に一致しているわけではない。そこを混在させてはいけない。夢はあくまで夢だ。時に問題解決の糸口にはなるけれど、現実世界で起きていることは現実世界でしか起き得ない。夢に完全に喰われてしまってはいけないよ」


 グラスの底に残っていたスムージーを飲み干すと、六夏は立ち上がった。


「期日も迫ってきたね。そろそろ、彼の悪夢を解決させようか」

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