1-10 レム睡眠の夢
暗闇にぼんやりと光が差す。豆電球のような小さな光だ。
築50年。六畳一間のアパートは、小さな机を置いただけでいっぱいになる。タンスも、食器棚もない。テレビもない。あるのは小さな机と布団だけ。
朝起きて布団をたたみ、隅に寄せる。使うときだけ必要なものを出し、そのあとは随時片付けないと何もできないような小さな部屋だ。
隣人の生活音も耳をすまさなくても聞こえてくるような薄い壁。上階もまた然り。部屋の者が歩くだけで天井が軋む。
小さな窓にかけられた薄汚れたカーテンは、もう随分と開けられていない。
簡単に朝食をすませ、食器を洗った流しでそのまま歯を磨く。何も考えなくともできる、いつものルーティーンだ。
変な感触があった。嫌な音もした。
恐る恐る口の中のものを吐き出す。覗き込む動作はやけに慎重だ。
白い塊が目に入る。嫌な予感はしていた。
そこに出ていたのは、磨いていたはずの歯だった。
慌てて飛び起きた。
汗をかいている額を拭い、舌で口の中を確認する。歯は抜けていないだろうかと、下の歯から順に辿っていく。真ん中から右へ、戻って左、そして上の歯も同様に確かめる。
歯は抜けていなかった。隙間はどこにもない。
どうやら夢だったようだ。夢でよかった。
安堵のため息をこぼし、男は再び眠りについた。
***
早朝、リビングに向かうと、六夏が先に起きてきていた。
おはよう、とご機嫌な様子で手を振る六夏の前には、大きな鍋が置かれていた。
「それなんですか?」
「昨日、ピョン吉くんが作ってくれたぜんざいだよ」
「ぜんざい?」
確かに昨日、六夏からリクエストがあり、鍋いっぱいにぜんざいを作った。鍋いっぱいに、だ。
「え、食べたんですか?」
「うん、とてもおいしかったよ」
「え、え、本当に食べたんですか? 全部?」
テーブルの上には昨日、渉がぜんざいを作ったときに使った鍋だけが置かれていた。中身はない。
よくよく見るとその中にはおたまのようなものが入れられている。周りに皿らしきものは見当たらない。
驚きで言葉を失う渉に「ピョン吉くんも食べたかったかい? それは悪いことをしたね」と見当違いなことを言う。六夏のために作ったので、完食したこと自体は問題ではない。問題は量だ。一人で食べられる量ではなかった。
間違いなく今朝、渉が起きてくる前に食べきっている。あの鍋いっぱいに作ったぜんざいを。
「朝食入ります?」無理だろうなと思いながら、首を捻る。「食パン焼けるようにセットしちゃってたから、それは冷凍に回して……」
「いやいや、朝食はいただくよ」
「え? いや、無理しなくていいですよ。冷凍すればいいだけなので」
「無理なんかしてないよ。甘いものとご飯は胃が別なんだ」
つっこむ気は起きなかった。
よくわからないが、ご飯は食べられると言うので、渉は支度を始めた。
「なるほど、今日はちょっと違う夢を見たんだね」
日課となった夢の報告を、パンを主とした朝食を食べながら話していた。
食パンは初めて作ったが、できは悪くない。ホームベーカリー様様というところか。
食パンは焼き、ハチミツをかけてハニートーストに。付け合わせはスクランブルエッグとソーセージ。コーンスープとカットしたフルーツを添えて完成だ。
パンなら飲み物はコーヒーがいいと、どこから出してきたのかミルとコーヒー豆を持ち、自ら挽いたコーヒーを淹れていた。なんだ、コーヒー豆はあったのかと呆然と眺める。豆と道具一式は物入れの奥の方から引っ張り出されてきたので、それなら見つけられなくても仕方ないと一人納得する。
六夏の淹れてくれたコーヒーは飲みやすく、美味しかった。渉は少し悔しい気持ちになる。渉自身、なぜそんな風に思うのかわからない不思議な感情だ。
しかし、ミルはあるのに、紅茶を淹れるティーポットがないのはなぜなんだろう。もしかすると、ティーポットもどこか奥の方で眠っているのかもしれない。そのうち訊いてみようと決意する。
六夏はコーヒーカップの中に角砂糖を入れていく。ひとつでは終わらない。いくつ入れたのか、途中から数えるのも見るのも嫌になったので、正確な数はわからない。
「実際には夢を見ている夢、というのでしょうか」目を逸らしながら話を続ける。「夢の中で眠っているんです。夢の中で眠っていて、さらに夢を見る。その夢が歯が抜けるという内容だったんです。歯が抜けた夢を見て、慌てて目が覚める。それすらも夢で、夢でよかったと思っているのも夢という……不思議な夢でした」
「夢の中で夢を見るというのも、多くはないけど、全くないことではないんだよ」
六夏の言葉に、そうなのかと納得する。
「でも、依頼人はこの夢のことは何も言ってなかったですよね? 悪夢じゃないから? それにしてはひどい汗でしたけど」
「おそらくはレム睡眠のときの夢なんだろうね」
「レム睡眠?」
六夏の話では、寝ている間ほとんどの時間、人は夢を見ているとのことだった。夢を見ていたことを——どんな夢だったか覚えているかどうかは別として——記憶しておけるのはノンレム睡眠のときの夢らしい。
ノンレム睡眠、レム睡眠の各段階において夢の内容は異なり、ストーリー性も変わってくる。
レム睡眠時の夢はフィクションのような奇抜さがあったり、ストーリーに一貫性がない。
逆にノンレム睡眠時の夢は、現実に起きていることの影響を受けやすいとか何とか。
うんうん、と頷きながら聞いていたが、渉は半分も理解できていなかった。
レム睡眠やノンレム睡眠という言葉は聞いたことはあるが、説明しろと言われればごっちゃになった記憶を披露する羽目になるだろう。
六夏の話から、おそらくノンレム睡眠が目覚める直前の睡眠だということだけは理解した。
「寝る時間は変えてないのに、どうして夢の内容が変わったんでしょう?」
「ピョン吉くんの場合はちょっと特殊だからね。しかも、相手が必ずしも同じ時間に眠ってくれるとも限らない。少し違えば、かなり違ってくるものなのだよ。それに睡眠の質も影響してくるからね」
「そういうものですか……」
眉根を寄せる渉に、六夏がさらに説明を加える。
レム睡眠とノンレム睡眠は周期で回っていて、人によってそのサイクルは異なるとのことだった。
偶然、同じ時間に眠りについたとして、さらに偶然レム睡眠の第一段階に到達するタイミングが同じだったとしても、その後の第二段階やノンレム睡眠の時間やサイクルにはずれが生じる。同じような周期をたどることはあっても、完全一致することはない。
「不思議なのは、夢の中の彼が怯えていたってことだね。歯が抜けた夢を見て怯える夢……迷信が関係してるのかな?」
「迷信、ですか?」
「あぁ、聞いたことないかい? 歯が抜ける夢というのは、悪いことが起こる前兆だと言われてるんだ。身近な人に不幸があるとか、ね」
そんな話は聞いたことがなかった。
歯が抜ける夢を見たことすら、今までにない。もしこれまで見ていた夢がすべて他人の夢だったとしても、渉が干渉した夢に『歯が抜ける夢』はなかった。
「でも、あの人が怯えていたのはそういう理由じゃないような気がします。怯えてたっていうか、歯が抜けたことをショックに思ってたっていうか……目が覚めたとき——夢の中でですけど、歯が抜けてないかどうか確かめてたくらいなので」
「確かにね。でも、結局はそれも夢の中の話だ。目が覚めてから実際にどうしたのかはわからないし、それが依頼人にとって怯える理由になるかどうかは、それも今の時点ではやっぱりわからない」
六夏はそれ以上何も言わなかった。考え込むように腕を組んで、目を伏せる。
渉も邪魔にならないよう質問は控えた。
お茶を飲むかと訊ねると、「いただくよ」と返ってきたので、早足にキッチンへと向かった。
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