第17話
定期試験まで一週間と少し。
そんなある日マルクスは少し早めに学園についた。図書館で借りていた参考書を朝のうちに返却しようと思ったのだ。
鼻歌を歌いながら廊下を歩いていると突然腕を捕まれぎょっとする。
「マルクス!お前聞いたか?」
「何を?」
同じ班であるモーリッツの勢いに、マルクスは面食らったように彼の顔を眺める。いつも彼は早めにやってきて武芸の自主練習を他の面々とやっていたのを思い出したのだ。テスト前ということでマルクスは参加を控えていたのだが、彼はどうやら今日も自主練習をしていたようだ。
「イリス様の婚約破棄だよ!」
「……は?」
「今日一緒に朝練してたやつが言ってたんだけど」
そう前置きしてモーリッツは話を始める。昨日の放課後にルフトがイリスに婚約破棄を迫ったこと。その場にエーファがいた事。
「円満解消とかじゃなくて?」
「ヴァイス様がブチギレて殿下殴ったって。少なくとも円満って雰囲気じゃなかったらしい」
個室での事で詳しく聞いてはいないのだが、部屋から出てきたヴァイスとオリヴァーの会話や覗き見た部屋の様子など余程モーリッツに話した者は印象に残っていたのだろう、事細かに話していたらしい。
その場はオリヴァーにより強制的に解散させられたが、あっという間に話は広がった。
「……まじか。え。これどうなんの?」
「わかんねぇけど、ほら、最近殿下とエーファが親しすぎないか?って言われてたろ。イリス様が生徒会同士の話だろうって流してたから周りもあんま言わなかったけど」
「あー。うん。よく聞いた」
結局あのお忍び後辺りから露骨に距離感が近くなっているのにはマルクスも気がついてた。けれどまさか一足飛びで婚約破棄に至るとは思っておらず、せいぜいイリス様にもう少し気を使えばいいのにと心の中で思う程度だったのだ。
「ロートスは?まだ来てない?」
「……流石に来ないんじゃねぇか」
「だよな……えっと。あのさ……」
迷ったように視線を彷徨わせるマルクスを眺め、モーリッツは笑うと彼の背中を軽く叩く。
「今日の授業のノートは俺がとっとくから」
「え?」
「ロートスの事気になるんだろ?行ってこいよ。お前授業ちゃんと普段出てるから一日ぐらいサボっても大丈夫だろ」
「ありがと。行ってくる」
「おう」
持つべきものは友達だ、そう思いモーリッツに再度礼を言うと早足でマルクスは学園の門へ引き返していった。
しかしながら行った所で会えるだろうか、手ぶらとかやっぱ失礼かな、いやいやそれどころじゃないけど一応訪問のお伺いを立てたほうがいいだろうか、そんな事をぐるぐる考えながら歩いていると声をかけられてマルクスは振り返る。
「ベルント・ゲルラッハ?」
「あ、名前覚えててくれたんだ」
「いや、生徒会だろ?それくらい知ってる」
生徒会のメンバーとしてより同じ班であるオスカーの友達と言う認識であるのだが、マルクスが名前を呼べばベルントはおっとりと微笑んだ。癖のある金髪の髪とそのどちらかと言えば可愛らしい顔立ちのお陰で令嬢からの人気もある。
そんな彼が自分に何の用事であろうかとマルクスが不思議そうな顔をすると、建物の陰に引っ張り込まれ小声で囁かれる。
「ノイ伯爵家に行くの?君、ロートスと仲良かったよね」
「……様子見に行くだけ。追い返されるかもしれないけど」
「君なら大丈夫じゃないの。中央からの使者も研究所からの使者も門前払いだけど」
「まじで!?完全にご立腹!?」
「昨日の段階で研究所にノイ伯爵から辞職届け出された。所長預かりで保留してるけど受理されないなら強硬手段に出るって」
ベルントの強硬手段と言う言葉に、マルクスは先日のヴァイスとの会話を思い出し顔色を変えて頭を抱える。
「爵位返上?国外逃亡?辞職受けないとまじで国庫ヤバいじゃん!いや!受けてもヤバいけど!!」
「へぇ……君脳筋かと思ってたけど、ちゃんとそういう所まで考えるんだ」
意外そうなベルントの表情にマルクスは、はたっと彼の父親が国の財務を預かる職についている事を思い出し、だから詳しいのかと納得した。
「お前の親父さんが大変的な?」
「……ただでさえ寂しい頭髪の毛根が死滅しそうな勢いかな。昨日寝てないんじゃない」
「うわぁ……」
会ったこともないベルントの父親の頭髪の事を考えて思わずマルクスは遠い目をする。そして、ヴァイスの予測通りになってしまった事に途方に暮れるしかない。
「殿下もなんで無茶しちゃったんだよぅ。イリス様降ろさずエーファを愛妾位に止めておけばよかったのに。いや俺個人としてはムカつくけど。イリス様ないがしろにしてるみたいで嫌だけど」
「……君はそんなタイプだからロートスに気に入られたんだろうな」
「は?いや、友達の姉ちゃん心配するだろ普通。っていうか、お前も親父さんの頭髪今頃心配するなら殿下なりエーファなりとめろよー」
「だからオスカーとの仲を推してたのにアイツが途中でヘタレた。殿下がライバルじゃ無理だって」
「……あ、なんかごめん」
自分の知らない所でベルントなりに頑張っていたのだろう事を察して素直にマルクスが謝ると、彼は少しだけあっけにとられたような顔をしたが、気を取り直したように口を開いた。
「とにかく満面の笑みで辞職届叩きつけて帰った後、こちらからの打診にだんまりなんで対策が立てにくいらしいんだ。少し様子を見てきて欲しい。今回はヴァイス様もどう動くかわからないし」
「え?ヴァイス様宰相の息子だし、ノイ伯爵とも仲良いんじゃないの?俺より絶対上手く仲介してくれると思うけど」
「君に仲介は流石に求めてない。様子だけでいいよ。……あと、ヴァイス様は今日の朝イチでミュラー伯爵家との養子縁組届け提出してる。完全に宰相閣下の手を離れた」
「……まじか」
「元々卒業後に養子縁組する予定だったから手続きの準備だけはしてたらしい。宰相閣下も流石に慌ててた」
恐らく書類を提出するだけで良い所まで段取りをしていたのだろう。それを独断か、ミュラー伯爵家の了承で提出したのだろう。
「金の卵を生むノイ伯爵家の後ろ盾になる気だろうね。まぁ……国に愛想をつかしても、せめてミュラー商会には愛想をつかさないようにって言う予防線かもしれないけど……」
「ヴァイス様は金の卵生むとかそんな理由でイリス様の味方してるんじゃない。命の恩人切り捨てる薄情者になりたくないからだと思う」
はっきりと言い放ったマルクスの言葉にベルントは驚いたように彼の顔を眺める。
「……そうかもしれないね……僕にはどっちでもいいけど」
「とりあえずロートスんとこ行ってくる。お前もオスカー慰めてやれよ!流石にへこんでるだろうし」
「……授業終わったら行くよ。本当に君は人がいい」
「お前は可愛い顔して打算的だよな。でも将来国の財政預かるならそれぐらいでもいいんじゃないの?」
「否定しないんだ」
「持ち場立場だろ。俺は気楽な貧乏子爵の息子だし」
あっけらかんと言い放たれれば毒気が抜かれたようにベルントは笑うとマルクスを送り出す。
必要以上にノイ伯爵家の人間に干渉しなかったのは、魔具の作成と身内の安寧さえあれば怠惰な一族で手間も大してかからず金の卵を生み出す為。無理に懐に入らなくても国庫は潤う。
今回の失敗は第二王子がノイ一族の性質を見誤ったからだろう。
確かにイリス自体は優しいし、ノイ一族は国政に興味もないので一見無欲な上に、国に利用されることに対してすら興味もない。けれど身内のことになれば話は別である。国が傾こうが、無辜の民が泣こうがどうでもいい。身内が何よりも大事で、その大事な娘を一方的な婚約破棄で疵物にしたなど許せる筈がないのだ。
例えばルフトがイリスに相談をしてノイ家から円満に婚約解消を申し出て貰うと言う形ならば違っただろう。それすらせずに司祭まで連れて押しかけたなど最悪の展開だとベルントはため息をつく。
ただ、ルフトがそんな短慮に至った理由は恐らくエーファだろうとぼんやりとベルントは予測していた。何を吹き込まれたのか。初めての恋に溺れたか。側近であるオリヴァーすら遠ざけて育んだ愛とやらは一気に国を傾けた。
「……神殿が余計なことを」
吐き捨てるようにベルントは小さく零すと、授業を受けるために講堂へ向かった。
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