無色透明の女の子 /彬 15歳

「あー、北川めっちゃ可愛い」


 五時間目の自習の時間に運よく芽衣のクラスは外で体育だったから、考え込んでいる振りをして見学していたら下のほうからそんな声が聞こえてきた。


「性格もいいじゃん? うちの姉ちゃんが言っていたけれど女友だちの多い女の子はマジでいいって」

「イイコちゃんって感じもしないしなー」


 ……ふうん。


「小柄で細身なのに胸があるのもいい。走っているとき胸がぷるんぷるん揺れるのとか、いいっ!」

「「わかる!」」


 芽衣の顔と性格を褒めるまでなら許容できたが胸の話となると別……誰だ?


「でもさ、北川って男と同棲しているんだろ?」

「あー、三組の朝比奈な。あのイケメンが相手じゃ俺たちに勝ち目はないか」

「いいなあ、朝比奈。あの胸、いつも揉んでんだ」


 揉んでねえし、触ったこともねえし、見たことだって……いや、ないことはないな。


 もちろん着替えを覗いたとかではない。

 キャミソールとか緩い襟元からちらっと見えただけで、不可抗力だったんです。


 芽衣の母親である莉乃さんに向かって心の中で必死に弁明する。



「何してんだ? また芽衣ちゃん観察?」

「人聞きの悪いことを言うな、玲央」


 野間玲央、カタカナで書くと「ノマレオ」。何かゲームの魔物のような名前。野間さんの息子で最近転校してきたばかりだけれど、お互いによく会社見学家業手伝いに行っていたから付き合いは長い。


 玲央は俺が芽衣のことを好きなことを知っている数少な……いや、少なくはないな。外堀を埋めたり牽制したりで俺の気持ちは結構知られている。伯父さんや花さんには「分かりやすい」って言われるし。


 でもなんでか芽衣は気づかない、鈍感だから?


「ちょうど良かった。この下で喋っている三人の名前を知ってるか?」


 玲央はこの明るい性格と人当たりの良さで同学年は把握している。


「ああ、右からす……危なっ! お前、何をするつもりだ?」

「あいつら、芽衣の胸がどうこう言ってやがった」


 玲央が冷たい目を俺に向ける。


「王子様、口が悪いし器が小さい。そのくらい大目に見ようよ、俺たちみんなそういうお年頃なんだよ。お前だって興味あるだろ?」

「ない」


 玲央が俺をジッと見る。


「本当は?」

「ないわけがない」

「だよな!」


 男って本当に厄介だと思う。芽衣のこと大切にしたいと思うのに何かこう……ドロドロッとした仄暗い感情が時折湧いてくる。


 芽衣はこの世で一番俺の大切な子。


 莉乃さんと伯父さんも大切な人なんだけど、莉乃さんは亡くなったし伯父さんには「お前の助けが俺に必要とでも?」と言われたから俺は芽衣に一点集中している。以前それを玲央に言ったら「こえーよ」とドン引きされた。なぜだ?


「芽衣に実は天使とカミングアウトされても驚かない自信がある」

「へー」


「芽衣は完璧なんだよ。今朝だって可愛い笑顔付きで挨拶してくれるし、朝食の味噌汁だって一生飲み続けたいくらい美味しいし、花さんのこと色々手伝ってから時間厳守で登校しているんだぞ。最高じゃないか?」

「うんうん。今日も彬が朝から絶好調なことが分かった」


「これで不調だったら芽衣に申し訳なさ過ぎる。あー、早く結婚したい」

「お前、まだ恋人にもなっていないのに……」


 そうなんだよなあ。


「伯父さんに中学卒業するまで付き合いは認めないって言われたんだ。前は頑張れって言ってくれたのに何それって思うだろ? 最近めちゃくちゃ条件が増えていてさ、結婚だって年収五百万円を超えるまでうちの芽衣はやらんって言われた。伯父さんの娘じゃないのに」

「五百万って微妙に現実的だな!」


 本当だよなあ……いつ五百万超えるだろう。とにかく精進して……やっぱり大学に行ったら起業しようかな。


「玲央」

「なんだ?」

「さっきの突っ込み、野間さんに似てきたね」


 玲央はちょっと驚いた顔をしたあと嬉しそうな顔をする。


「お前も悠斗さんに似てきたよ」

「それは嬉しいなあ」


 伯父さんに似てきたってどこがかな、顔?


 俺は夢を聞かれたら「伯父さんみたいにかっこいい大人になりたい」と言う。いま一番気をつけているのが背。顔はあとでどうにかなるかもしれないけれど、伯父さんみたいに背が高くなるには成長期のいましかチャンスはない。


 芽衣に背のことを相談したら食事に気を使ってくれるようになった。はあ、芽衣って本当に最高。




 芽衣の好きなところはいくらでも挙げられるけれど一番は「無色透明なところ」。他人の意見を聞き入れないわけではないけれど物事の判断は他人に左右されない。


 ――― お母さん、この子お腹が空いているんだって!


 小学生になってあの人がほぼ世話を放棄すると「清潔な生活」ができなくなり、見ずぼらしいガリガリの体は悪臭がしていた。二年生になると給食だけじゃ足りなくて、それでもお金がなくて何も買えなくて、空腹を抱えていると芽衣が「お腹空いたままだと死んじゃうよ」と言って俺の手をぐいぐい引っ張っていった。


 そうなんだよな、空腹なら死ぬ。


 死にたくないから食べたいと思っている俺に芽衣と莉乃さんは飯をくれた。莉乃さんは俺が飯を食っている間にドラッグストアに行って色々買ってきて、「風呂に入らないと感染症に罹ってあとで余計苦労する」と「虫歯は病院で治らないから歯磨きはしたほうがいい」とかなぜ必要かを脅し込みで教えてくれた。


 幸いあの人の時間と自由を邪魔せず俺が一人で生きているならそれでよし。家賃も光熱費も銀行引き落としで手間はかからないから支払い続け、莉乃さんがレシートと「この分を払え」というメモ書きを残せばちゃんとお金を置いていった。


 ――― そういう人っているのよ。


 莉乃さんはそれであの人のことを片付けた。



 芽衣や莉乃さんのように困っていること「だけ」を適確に助けてくれることができる人はなかなかいない。俺を見つけ出した伯父さんが呼んだ児童相談所の人と接して初めて知った。


 彼らは俺に同情し、痛ましいものを見るような目で見た。

 俺を慰めるようにジュースや菓子を買ってきた。


 同情も優しさもいらなかった。


 俺が気にしていたのは明日からの生活。


 俺はどこに連れていかれるのか、そこで十分な生活ができるのか、学校はどうなる、そして芽衣と莉乃さんと離れ離れになるかどうかということ。


 いま思えば俺は確かにあの人の子どもだ。


 あの人が息子に興味がなかったように、俺も母親に興味がなかった。選択肢のない俺と違ってあの人には「母親にならない」という選択肢があったのだから完全に同じというわけではないのが唯一の救い。


 色々な人が狭いアパートにやって来て帰っていく。ただ一人最後まで伯父さんだけがそこにいて、俺の世話をしてくれると言った。生きていきたい以上、俺に拒否権はなかったから「乗れ」と言われて扉をあけられた車に乗った。


 ――― 彬、転校するの?


 あとで伯父さんは「ああいうときって普通どこに連れていくのかとか、大丈夫かとか聞くんじゃないか?」と笑いながら面白い子だと言っていた。


 でもあのとき俺が一番気になるのはそこだった。


 だって転校しないってことはまた芽衣と会えるってことだから。


 同じ学区内だから転校の必要はないこと、新生活の準備で今週は休むことになるが来週には学校に行けるであろうこと。伯父さんの説明に芽衣は満足したようだった。


 ――― 良かった。また来週、学校でね。


 あの瞬間、俺の心は完全に芽衣のものになった。



 だって伯父さんのように普通なら気にしない。


 母親の暴力にさらされていた子どもが良識ある大人、それも一目見て金持ちだと何となく分かるお金持ちに引き取られたら俺は完全にシンデレラで「めでたし、めでたし」だ。



 でもあのときの「また」ほど嬉しかったものはまだ一つもない。

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