第26話 秋山コーチ、立ちはだかる
週が明けた月曜日。放課後になって
「ふたりとも、なぜ体操から逃げるのかしら」
見た目から理知的な人だと思っていたのだけれど、この人も勘違い系か。
「ただバク転とバク宙を習いたかったから入部した。しかしトランポリン部へ入れられて、松本コーチと交渉してバク転とバク宙を習ったら退部する。そうよね?」
「間違いないですね。交渉は成立し、僕たちの希望が叶って松本コーチの願い通り退部。WIN−WINの関係ですよ。皆がすっきりしています」
「でもうちの高村は納得していないわよ」
「あの人はこの件では部外者ですよね。交渉にいっさいかかわっていませんから。部外者まで納得するような解決っていうのは実際ありえませんよ」
綺麗な顔を歪めて鋭い視線を飛ばしてくる。自分の魅力をよくわかっている人のやることだな。露骨に嫌悪感を表現している。
「ここは
「そうでしょうか。あの場にいたすべての男子体操部員はこの交渉に同意して、僕たちはバク転とバク宙を教えてもらう。そして成功させたから退部した。誰もが納得するきわめて合理的な過程と結果でしたが」
「私が認めていないわ」
「部外者ですから関係ありませんね。僕たちが女子だったら、確かに女子コーチの秋山さんが認めなければこの交渉は成立しません。ですが僕たちは男子で、男子コーチの松本さんが認めて合意しました。ならこの交渉は正当なものです」
「さすがに口が達者よね。その口で体操部からバク転とバク宙を習うという目的を達成したわけね。できるようになったから退部する。自分たちに都合のよい条件に見えるのだけど?」
さすがに全日本選抜のコーチを任されているだけはある。交渉では今まででいちばん筋が通っている。
「生徒の都合に合わせて教えるのが学校教育です。教える側の都合で生徒を振りまわすのは横暴でしかありません」
「ふたりに体操を続けさせようとしているのは、私たちの横暴だと言いたいわけ?」
「それ以外に聞こえましたか?」
秀麗な目元にしわを寄せている。
「私はあなたたちの技の完成度を見ていません。ふたりが習ったのが本物のバク転とバク宙なのか。大いに疑問なのよ」
「疑問のままでかまいませんよ。実際僕たちは自分が納得するバク転とバク宙を教えてもらったのですから」
「それなら体操場で見せてもらおうかしら? どれほどのものかを」
「お断りします。部外者が体操場を使うのは体育の授業くらいなもののはずです。ましてそこで部外者が技を見せるのは校則に触れますよ。生徒手帳にも書いてありますから」
ジャケットの内ポケットから生徒手帳を取り出した。
「見せなくて結構。その条項を追加したのは私ですから」
生徒手帳をしまって、煩わしそうな態度をとる。
「そもそも、大人がド素人になんの期待をしているのかわかりませんがね。こちらはいい迷惑なんですよ。僕らはヒーローに憧れていたんです。そのヒーローがバク転とバク宙をやっていたから自分たちもできるようになりたかった。ド素人なりの理屈です」
どうにも勘違いしている大人が多いんだよな。
バク転とバク宙に興味があれば、体操をやりたがっていると決めつける。
どこに関連性があるのだろうか。
「つまり、興味があるのはヒーローであって、体操ではない、と?」
にんまりと笑ってみせた。
「そのとおりです。だから僕たちは体操をやる気はないんですよ」
「それなら、ヒーローが二回宙返りやトカチェフをやっていたら、あなたたちはそれをマスターしたかったのかしら?」
「それは否定しません。でも僕たちが観たのはただのバク転とバク宙ですから、すでに夢は手に入れているんですよ」
秋山さんの眉間にしわが寄り、口元がどんどん歪んでいっているな。この状況がよほど気に入らないのだろう。
「あなたたちには体操の才能があると思ったのだけど、どうやらバク転とバク宙だけしかできない三流なのね」
「いえ、三流にも値しないド素人ですよ。松本コーチから聞いていないんですか?」
「聞いているわよ。でも稲葉コーチがあなたたちに期待しているのも聞いているの」
「また部外者ですか。どうして皆さん部外者の言うことを真に受けるのかな。リップ・サービスに決まっているじゃないですか」
「どうやらそのようね。あの稲葉コーチの言うことだから信じてしまったけど」
「ご理解いただけて、僕たちもようやく帰宅できますよ。それでは秋山コーチ、お先に失礼します。部活動頑張ってくださいね」
秋山さんを残し、かばんを持って教室を後にした。
「なあ
なにか探るような物言いだな。
「もしかして、秋山コーチに惚れた、とか?」
「まあ、あれほどの美人ならちょっと考えちゃうな」
「男子はだいたい25歳くらいまで競技を続けられるけど、女子は高校までで長くても大学くらいまではやっているはず。だから秋山コーチもそんなに年をとっているわけでもないだろうけど」
「だよなあ。美人で二十代くらいかあ」
「まあ美人に弱いのが玉にキズだよな。お前って」
「そういう巽はほんと女っ気がないよな」
「ヒーローに特定の彼女は必要ないからね」
仁科はなにか考えているようだった。
「なあ、俺、トランポリン部に入ろうかと思っているんだけど」
確かに仁科はトランポリンを面白がっていたからな。
「いいんじゃないか。体操部に入って悪目立ちするより、やりたいことができるのなら」
「毎日あれだけ高く跳べたら気持ちよさそうだからな」
「技を憶えろとか言われて、つらい居残り練習をさせられるかもな」
「それは勘弁してほしいわ。俺は趣味の範囲で楽しみたいだけ。大会を目指すなんてごめんだね」
趣味だとしてもトランポリンをやりたいと思ったのって……。
「もしかして富澤コーチもタイプなのか?」
「好みで言えばやっぱり高村さんかなあ」
「彼女の気を引きたければ体操部に入るんだな」
「それはお断りするわ。あの松本の下で練習したくないからな」
「同感。教わる相手を選ぶ権利が生徒の側にあって然るべきだからな」
学び舎では、教わる相手も選べるべきなんだよな。変に思想が絡む教師も中にはいるからな。
「巽、お前はどうする? 何部に入るんだよ」
「僕は帰宅部でいいよ。習ったバク転とバク宙に磨きをかけて、どこでもできるようにしたいからな」
「で、ヒーローショーの着ぐるみに入りたいわけだ」
「お金も稼げて一石二鳥だろ?」
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