ちいさなインク瓶

百瀬 由里子

これは、ある日の有隣堂の物語

「このインク、瓶の蓋がなかなか開かないんですよ。

 ブッコロー、開けてみてくれません?」


ほとほと困り果てた顔で、ザキさんこと岡﨑さんが話しかけてきた。


「何すかソレ?インクの瓶?うわっ!ちっさ!!」

俺は少しばかり驚いて、左右色違いの目で、岡﨑さんの手元を凝視する。

彼女が手にしていたのは、人間の大人の親指ほどのサイズの小さな瓶だった。


ここは横浜の伊勢佐木町。老舗書店、有隣堂の本店だ。

俺の名前はR.Bブッコロー。この歴史ある書店が運営するYouTubeチャンネルで、MCを務めているミミズクだ。ある夜、羽を伸ばして空を飛んでいたら、ここ数年会っていなかった知人から電話があり、MCを依頼された。

有隣堂なんて地方の弱小書店のことは知らなかったが、MCとしてチャンネルに出演するうちに、個性豊かな有隣堂社員たちと文房具、たまに食べ物、その他諸々、マニアックな世界に引き込まれていった。

ちなみに声をかけてくれた知人というのは、チャンネルのプロデューサーであるハヤシユタカその人である。ハヤシ、884で覚えてもらえるといいと思う。


…と、今はそんな話はどうでもいい。

とりあえず岡﨑さんの訴えに耳を傾けてあげよう。

彼女は有隣堂の文房具バイヤーだ。チャンネルにも度々出演して様々な文房具を紹介してくれるが、独特のセンスの持ち主であり、決して万人受けはしなさそうなモノをよく持ってくる。だが逆にそれがウケている節もあり、動画再生数の向上に少なからず貢献しているのだから、世の中わからないものである。


「インクの瓶っていうからさァ、もう少し大きいもんだと思いましたよ。

 ほら、意識高そうな高級ジャムとかハチミツとか入ってそうなサイズ感の?

 なーんなのコレは、何ミリリットルよ!?」

「これね、3つで1セットなんですよ。

 大きいサイズの瓶もとっても可愛いんですけどね。フフフ。

 でもこのちっちゃいのも可愛いでしょう?ラメ入りですよ。

 外国のメーカーさんなんですけどね、ここ数年は日本でも…って、聞いてます?」

岡﨑さんが何やらインクの解説をしているようだったが、俺の興味は既に、この極小サイズの瓶の蓋を開けることに移っていた。

「んぐぐぐぐぐ…」

自慢のふわふわの翼でインク瓶を支え、蓋を開けようと力を込めてみるが、ツルツルと滑ってしまう。

「ダメだ!開かねぇ!ちっちゃ過ぎて力が入らないよ」

「人間より、ミミズクの手をお借りしたら開けられるかと期待したんですが、

 やっぱりダメですかねぇ…?このインクと一緒に使うためのガラスペンも

 用意してあるんですよ。何か月も前から工房に予約してて…」

岡﨑さんは早くこのインクを使いたくてしょうがないようだったが、開かないものは開かない。


そこへ、有隣堂YouTubeを裏で牛耳る女こと、広報の渡邊郁さんが現れた。

「それ、開きました?私もさっき岡﨑さんに頼まれたんですけど、

 開けられなくて…すみません」

郁さんは申し訳なさそうに言った。


「ザキさん、こういう時こそ何かないんですか?固い蓋を開ける文房具とか!

 用途がめちゃくちゃ限られてるモノ、よく持ってるじゃないですか?」

「残念ながら、蓋を開ける道具は持ってないです」

「エェー?肝心な時に役に立たないんだからもう…」

と、岡﨑さんに向かって悪態をついてみても事態は改善しない。

「じゃあさ、もう瓶ごと叩き割っちゃえば?そしたらインク使えるよ。

 え?ダメ?ダメかあ…うーん、仕方ないっすね。

 他に開けられそうな人に当たってみましょうよ」


俺は今までに出会った有隣堂社員の面々を思い浮かべる。

「あ、問仁田さんはどう?」

問仁田さんとは、文房具の仕入れの全権を担っている身でありながら、有隣堂が展開する飲食店の皿洗いにも行かされている男だ。しかしその希望も、郁さんの返事によって潰えた。

「問仁田さん、最近皿洗いのし過ぎで手が荒れちゃってるみたいなので、

 ちょっと難しいかも…」

「エェー?全くしょうがないねぇ。

 ヴィレヴァンで変な見た目の保湿クリームでも買って、差し入れてやるか」

辺りを沈黙が支配する。

「…はあ、相変わらずだーーれもツッコんでくれないんだから。

 で、次の候補は…雅代ねえさんなんかいいんじゃない?」

雅代姐さんとは、有隣堂の頼れる姉御主任、大平雅代さんのことだ。

書店員として40年近いキャリアを持ち、本にブックカバーをかける早業でテレビ番組に出演したことでも知られている。

「こういうのはさァ、もうパワーの問題じゃないのよ。

 手先の器用な雅代姐さんなら、なんか上手いことコツがありそうじゃん」


彼女は現在アトレ恵比寿店で勤務している。有隣堂は東京にも店舗があるのだ。

早速、郁さんが雅代姐さんに連絡を取ってくれた。

「インク瓶の蓋が開かなくて困ってる?それは、ワクワクするね!

 どうやったら開くのかな!?」

雅代姐さんのテンションが上がっているのが電話越しにも伝わってくる。

「えっ?来られるんですか?今から大丈夫ですか…?

 へぇ、そうなんですか。はい。ではお願いします」

そう言って郁さんは電話を切った。どうやら雅代姐さんが来てくれるらしい。

「ちょうど、横浜にある演芸場に落語を見に行く予定だったそうで、

 その前に寄ってくださるそうです」

「おっ!さっすがフットワーク軽いねェ雅代姐さんは。じゃあちょっと待ちますか」


その間にも、あの手この手で蓋を開けようと奮闘してはみたが、どうにも上手くいかず。疲れ果てた俺の体からは、くたびれた羽角がはらりと一本抜け落ちた。

「わぁ~キレイ…!これ、羽ペンにできちゃいそう…!」

岡﨑さんは吞気にときめいている。


1時間後、満を持して雅代姐さんが現れた。

「お待たせー!どれどれ?」

「姐さん!お待ちしてましたよッ!

 書店員トライアスロン勝者の意地を見せてやってくださいよ!」

「いろいろ試してみたかったんだけど寄席の時間もあって、

 あんまりゆっくりできないから、とにかく力業で行くね!」

「エェ~!?手先が器用そうだから姐さんを呼んだのに、結局パワーなのォ?」

「まあまあ、せっかく恵比寿から来てくださったんですから、応援しましょう…」と、岡﨑さん。

「って何他人事みたいに言ってんのさ!

 そもそもザキさんがこんな厄介な瓶を持ってきたから~」

などと、不毛な議論を繰り広げている傍で、

「さあ!やるよー!」

と、雅代姐さんが、意気揚々と宣言した。いつの間にか、両手にピッタリとした軍手…いや、ゴム手袋を装着している。

「素手だとツルツル滑っちゃうからね。

 よーし。ふんっ!!!!うーーーん!!!!」

雅代姐さんの健闘むなしく、蓋はびくともしない。

「ちょっとブッコローもこれつけてくれる?で、瓶のほうを持って動かないで!」

有無を言わさず、俺の翼にはゴム手袋がかぶせられた。人間用の手袋なので、当然フィットはしていないが。


瓶を挟んで向かい合う俺と雅代姐さん。さながら綱引き大会だ。

「ブッコローと~、雅代おねえさんの~、ワクワク!インク瓶の蓋開けられるかな?

 大実験~!スタート!」

「うおォォォォ!!」

雅代姐さんのパワーに、体ごと引っ張られそうになる。

渾身の力を込めながら、ふと横に目をやると、岡﨑さんと郁さんが笑いをこらえてこちらを見ている。

「ちょっと!笑ってないで手伝って!」俺は嘴をパクパクさせて助けを求める。

「あっ!はい!ごめんなさい」

オロオロした岡﨑さんは、何を思ったか雅代姐さんの後ろへ赴き、彼女の腰を掴んで引っ張り始めた。それを見ていた郁さんも、戸惑いつつも岡﨑さんの背後に回り、同じ動作をする。

「うんとこしょ!どっこいしょ!」

3人が声を合わせる。

「なにこの構図!?

 これって…あれじゃん、あの有名な絵本!さすが書店員だね~って、オイ!」


俺のツッコミ反射神経が反応し、思わず体を傾ける。

その刹那、フッと力が抜ける感覚を覚えた。蓋が開いた。と同時に、瓶の部分がくるくると回転しながら宙を舞う。

きっと一瞬の出来事だったと思うのだが、まるで流星群のように、瓶からきらきらと光の粒がこぼれ落ちる光景が目に焼き付いた。


美しい。そんな柄にもない言葉が口をついて出そうになった瞬間、コツン、と頭に何かが当たった。

「いてッ!」

羽角のあたりをさすった羽先に目をやると、輝かしい紫色のラメが反射していた。

どうやら落ちてきた瓶が当たったようだ。辛うじて中のインクは少しばかり残っていた。

「わぁ!ブッコローの羽角がさらにカラフルに…!」

「ザキさん、何を喜んでるの!

 そっちこそ、その高級メガネのレンズがまだら模様になってますけどォ?」


「アハハ!これじゃあ寄席に行けないな~」

よく見ると雅代姐さんも、失敗した科学実験後のような出で立ちだ。

「キムワイプか何か、拭くやつ持ってきます!」

最後尾にいた郁さんだけは、被害を免れたらしい。


「じゃ、お疲れさまでしたー!寄席に行ってきまーす!」

インクで濡れた部分をささっと拭き取った雅代姐さんは、ラメの輝きを纏ったまま、颯爽と去っていった。


雅代姐さんと入れ違いで、ハヤシプロデューサーが現れた。

そういえば今日は、次回のYouTube動画企画の打ち合わせの日だった。

「うわ、どうしたんですか。何かあったんですか?」

雑然とした部屋に面食らっている様子だ。


俺はバスタオルを頭から被せられ、郁さんにゴシゴシと拭かれたまま答える。

「かくかくしかじか。それでインクまみれってわけよ。

 後はもう洗わないと落ちないかもね」

「へぇ、大変だったね。でもまぁ羽角のところだし、

 そんなに目立たないんじゃない?

 何ならクリーニングに出して、その間は2号機を…」

「2号機?ちょっと何言ってるかわかんないですね。

 ところでザキさんは何やってるの?さっきから机に向かってるけど」


「たいぶ減っちゃいましたけど、残ったインクで試し書きしてました。

 ウフフ…とっても綺麗です。皆さんのお陰で使えるようになって良かったです。

 ありがとうございます。大平さんにも改めてお礼に行きます」

相変わらずの文房具愛だ。


「じゃあ次の企画、このインクでいってみませんか?

 岡﨑さん、特徴を教えてくださいよ」

「もちろんです!じゃあ撮影用にもう1セット買わなきゃですね。

 えーっと、値段はいくらだったかな…」


プロデューサーの提案に岡﨑さんが食いつく。やれやれ、ようやく本来の仕事を始められそうだ。紫色に染まった羽角と、拭かれて毛羽立った全身を整えながら、俺はふたりがいる机に向かう。

「もう、ザキさんってば!ちゃんと値段は把握しといてくださいよ!

 また蓋が開かないのは勘弁してよね」


何だかんだ、この仕事は楽しくて、しばらく辞められそうにない。

有隣堂しか知らない世界は、まだまだ奥が深いのだ。


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ちいさなインク瓶 百瀬 由里子 @kakukaku-momomo-yuyuyu

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