第23話
石造りの階段をカツカツと靴を鳴らしながら降りてくるシモンに、着いてくるのはペリーヌさんと見知らぬ男性だ。市場で見かける町人風のごく普通の服を着たその人は険しい顔をしている。顔が強張っていた。誰だろう。そんな疑問を一蹴したのはシモンが佩いていた剣をしゃらんっと音を立てて抜いた事だった。部屋の隅に集まっていた仮面の令嬢たちがヒッと声を鳴らす。だけどシモンがまず向かったのは、呆気に取られている魔術師の方からだった。そう言えば魔法陣の光が消えている。
いくつか首に掛けられていた宝石の原石みたいなものを、剣でつなぎ目を切る事で床に散らばらせる。そして肩に掛けられていた本も取り上げた。これで魔術師は無効化されたのか、ああ、と膝を付いて後ずさる。
令嬢たちはペリーヌさんの怒気に当てられて、すっかり縮こまってしまっていた。彼女達の仮面を、持っていた扇でペリーヌさんは一人一人引き剥がしていく。ぱぁん、ぱあんっと飛ばされた仮面の中にいるのはまだ幼い様子の少女たちだった。あんなに不気味に見えていたのに、そう見ると子供ばかりだ。私と同じぐらいか、それ以上。
「貧乏貴族の次女三女ばかりだな。お前を疎ましく思ったのも解る」
言ってシモンはぶちぶちっと私が吊るされていた紐を足の方から絶って行った。首を絞められていなくて良かったと思う。最後に左手を切られると、落ちた身体はシモンに抱き留められた。一気に肺に空気が入って来てげほげほと噎せる。身体はまだ力が入らず、あちこちがうっ血しているのが分かった。抱き寄せ方はいつかのような俵抱きじゃなく、お姫様抱っこ。そのまま壁際に連れられて身体を起こすように座らされ、シモンはあの点眼薬を懐から取り出す。
「眼を開けていろよ」
言われて精一杯にまだ重い瞼を上げていると、ちょん、ちょんと両方に差される。ぱちぱちと瞬きをしてほーっと溜息を吐くと、シモンも同じように息を吐いた。それから抱き締められる。矢栖理、と呼ばれて、うん、と返した。まだちょっと痺れた腕を背中に回し、ぽんぽんっと撫でる。大丈夫。大丈夫だから。もうそんなに心配しないで良い。
「丁度良いから教えて差し上げましょうか。この方はセドリック・ジャルダン。わたくしの夫になる人よ」
ペリーヌさんの声がくわんっと密室に響いて、令嬢たちは戸惑ったようにざわざわする。ジャルダン? 誰? という声の中で、男の人はちょっと居心地悪そうにしていた。多分貴族じゃないんだろう。もしかして、と思うより早く、ペリーヌさんが嫣然とした。
「わたくしが十歳の時にプロポーズをされて、わたくしはそれをずっと守るつもりでいる。爵位なんて捨ててでも一緒に生きていきたいと思った初めての人よ。わたくしはこの人を愛していますの。シモンとの婚約なんて、家を納得させておくためだけのブラフにすぎませんわ。いずれ折を見て家を出る予定だったの。そして今日それが訪れた。シモンがわたくし以上に愛する女性が現れた。用済みの婚約者の地位を捨てたらさっさと出て行くつもりでしたのに、あなた達のお陰でこんな所での発表になったのは迷惑この上ありませんわ。さあセディ、さっさと抜け出しましょうか。家には書置きを残しておきましたし、もうわたくしは――あたしは晴れて自由の身よ。約束、守ってくれるんでしょ?」
「お前はいつもマイペースだな、ペリーヌ」
「そうよ。だからあなたの妻になるって約束も、覚えてたんじゃない。私を連れ去る馬車を追い掛けて泣きながら呼んでくれた声が、今も耳にこびりついてるわよ」
肩を竦めた男の人は、手袋をしていないペリーヌさんの手を取る。ぎゅっと握り合ったその手は、幸せが溢れ出ているようだった。
しかしペリーヌさんに心に決めた人がいるのは知らなかった。もしかしたらシモンは知ってて、何度か私にそれを伝えようとしていたのかもしれない。思い返せば私が逃げた言葉の中からその破片は見付けられる。絶対に結婚しない相手だったのだろうか。咳も治まって来た私の方を向いて、ペリーヌさんが申し訳なさそうにする。
「ごめんなさいね、矢栖理さん。シモンに任せるんじゃなく、あたしから陛下に申し上げるべきだったわ。婚約は破談にするって――こんなにいつまでもぐじぐじするとは思っていなくて。まったく、ヘタレだったらありゃしない。我が従兄弟ながら情けないわ」
「いと、こ?」
きょとん、と眼を開くと、ああ、とペリーヌさんは私の肩に顔をうずめたままのシモンの後ろ頭を扇でぺちんと叩く。
「そんなことも言っていなかったの? シモン」
「……お前こそ」
「あたしの名前はペトロニーユ・ラプラス。もっとも今からペトロニーユ・ジャルダンになるのだけれどね。だからシモンはいらないの。私には私だけを愛してくれる人がいるんだもの。ずっとずっと、十年間も、私の物だった人よ」
いつものにこやかさでなく、あけすけなけらけらとした笑いで、ペリーヌさんはセドリックさんの腕に抱き着く。
恋愛で飛び越えて行ける壁なんてないと思っていた私には、その姿は羨ましくも情熱的だった。
突然どかどかと小さな階段を駆け下りて来るのは、シモンとは色が違うけれど、騎士団の服を着た人たちだった。数は五人。シモンは顔を上げて、騎士団長の顔になる。目元が赤いのはこの暗さでは分からないだろう。震えあがっていた令嬢たちを連れて行かせる。これは大変なことになってるな、とどこか他人事のように考える。他人事。じゃないよなあ、この場合。何せ生贄にされ掛かったのは我が身なのだから。
ドレスの肩には小さなシミが二つ。シモンの泣き痕。そっと紛れて出て行ったペリーヌさんたちは、もう下町から帰ってくるつもりは無いんだろう。伯爵はどうするのかな。ラプラス伯。ペトロニーユ・ラプラス。本当、聞いてない。聞かなかったのは私だ。耳を塞いできたのは私だ。
ペリーヌさんには心に決めた人がいて、その人と一緒に幸せになる。じゃあ振られんぼのシモンは、何の制約もなく私を婚約者に出来る。否、身分の違いとかはあると思うし、今日みたいに嵌められる機会も増えるかもしれないけれど、とりあえず表面上の問題は解決していると言って良いだろう。私はシモンを拒絶する壁を失った。つまり。つまり、だ。
私は今度こそ、婚約者にされるんじゃないか?
メイドでも、それが無くなっても良いとシモンは言っていた。
あの時確かにシモンは、私を選んだのだから。
「シモン」
「お前もすぐに城に連れて行くからな。魔術師に診てもらおう。後遺症が無いとは限らない。魔術の生贄にされ掛かったのだから」
「あのさ」
「ん?」
「愛してるよ」
ぼんっと顔を真っ赤にさせた騎士団長様は、声にならない声を上げた後で、私を見下ろしていた。
私はへらっと笑ったけれど、意識が持ったのはそこまでだった。
毒消しにもなるって言う点眼薬だったけれど、私が食らったの残念ながら毒じゃなく薬だったからなあ。どっちも同じかもしれないけれど、毒薬って言うぐらいだし。でもとにかく何だか眠くて堪らない。その前に告白できたのは良い事だと思う。
シモンはまた私をお姫様抱っこして地上に連れて行ってくれる。小さな階段のカツカツいう音が気持ち良くて、私はそのまま目を閉じてしまった。
口唇に何か柔らかいものが触れた気がしたけれど、それが何だったかは、よく分からないことにした。
ほんとは正体なんて知っている。
ファーストキスを持って行かれたなんて、知っている。
でもそれは幸福な事なんだろう。
家に帰ったら、最近入れなかったシモンの私室の掃除しなきゃなあ。多分またお酒の瓶を溜めている。やっぱり考え方がメイドに偏っているけれど、仕方ないだろう。ここんとこ毎日ずーっと、部屋の惨状は気になっていた事なんだから。
箒も出して、モップも出して。雑巾がけもして、料理もして。
それが私の、幸せだ。
伯爵夫人としては謗られるかもしれないけれど、それが私の毎日なのだ。
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