第21話
週末は一人ドレスを着て昨日に作ったパイを携え、私は玄関の外で迎えの馬車を待っていた。シモンはまだ眠っているから、と行ってきますはしない。ここ数日行ってきますとただいま以外の会話が殆ど無いのが私達だった。具体的にはあの告白から、私達は会話をしなくなった。それは応えを問う言葉になるだろうことが分かっていたからだ。
シモンが好きだとは素直に言えない。彼にはペリーヌさんがいる。彼女がセラーから出して以来そのままのテーブルセットに腰掛けて、私は考える。幸せになる方法なんて私が身を引くことしかないじゃないか。それが一番いいと思っているのに、シモンはそれじゃ幸せになれないと言う。どうして私なんて選んだんだろう、シモンは。掃除や食事が心地良いから。王様には答えていた。
でもそれってのは『メイドの私』への評価なのだ。メイドじゃなくなった私をシモンがどう思うのか。貴族の夫人になった私にシモンが何を求めて来るのか。それが分からないのは怖いし、やっぱり心配だった。伯爵令嬢から婚約者を略奪した平民、として見られるのは、居心地が悪くて仕方がない。かと言って引き籠ってもいられないだろう。社交シーズンには夜会も開かれるだろうし、そうでなくてもお茶会はどこかで開催され、私は無視できない立場でそこに向かわなければならない。
今のように何だか分からないけど面白そうなもの、と思われてお茶会に呼ばれるのは良い。それは私だけの恥だ。でも地位が付いたらそれはラプラス家の恥になってしまう。それはやっぱり気が引ける。
器用な立ち回りは出来ない。腹の探り合いも出来ない。求められているスキルが無い。そんな私と結婚するより、上流階級の酸いも甘いも解り切って渡っているペリーヌさんの方が向いているのは、考えるまでもない事だ。
なのにシモンはペリーヌさんを蔑ろにしてでも私と結婚したいと言う。変な人だ。最初にきったねえ屋敷を見た時から思っていたけれど、シモンは変な人なんだろう。貴族として。
去年まで騎士団の寄宿舎にいたぐらいだから、多分シモン自身も社交界には疎い。だからその重要性が分かっていない。自分に付けられた婚約者がどれだけ上物かも分からなければ、恋愛感情で押し通せると思っているぐらいには若い。そしてその若さがちんちくりんな私に、一つ屋根の下に暮らす下女に、同情めいた恋をした。
そう、これは同情だ。異世界から来た何にも分からない娘に対する憐憫だ。手元に置いておけばホッとするから。何事にも付いて行ければ安心だから。だから、ここにいさせたい。
なんか惨めだなーとお化粧が崩れないように目頭を指でつまむ。涙は引いた。今日は手袋も付けている。何もする気が無い自己主張だ。メイドの分際で、と思われそうだけど、身の程知らずなのが私だ。そもそもからしてメイドの身分でお茶会に招かれていると言うのがおかしいのだから。
それに、あかぎれた手を晒すのも恥ずかしいし。シモンに貰ったハンドクリームはよく効いているけれど、やっぱり毎日水仕事をしていたら完全には無くならない。
無くならない現実って言うのは結構あるのだ。身分差とか、異世界とか。汚屋敷とか、増えた酒量とか。その所為でぐっすり眠っているシモンは、休みなのだしそれで良いだろう。昼まで眠ってストレスを解消すると良い。私は私で勝手にする。男爵家、か。貴族階級ではそんなに上じゃない方だったよな。伯爵令嬢のペリーヌさんはVIPだろう。私は呼びやすいおもちゃって所か。
やがて門の前に馬車が停まると、私はパイを包んだスカーフ――これしか包めそうなのが無かった――を持って、そこに向かう。ペリーヌさんの所の御者さんよりもっと無口な人は、無言でドアを開け私を馬車の中に入れた。ありがとうございます、と言っても返事はない。
まあこの人だって貴族にお仕えしているんだから、ド平民の娘に挨拶をする口は持ち合わせていないのかも。私にはその不愛想さでお似合いだって事だろう。別に構わない。自分の立場は、分かってる。だから、大丈夫。
馬車が歩いたのは二十分程度、郊外の程よい緑に囲まれたお屋敷だった。やっぱり無言でドアを開けられ、やっぱりお礼は無視され、私はぽてぽてと開け放された玄関アーチを潜る。笑い声が聞こえて来て、こっちかな、と庭に向かおうとしたけれど、案内を待った方が良いんだろうか。悩んでいると、紺色のドレスを着たメイド長のような人が出て来て、こちらです、と庭へ案内してくれた。やっぱりお礼は無視されたけれど、この前よりちょっと小規模なパーティーだ。呼ばれているのは十人に満たないぐらい。これならパイは足りそうだな、とほっとしていると、くすくす笑う声に迎えられる。
男爵令嬢はやっぱりペリーヌさんの所で見たことのある顔だった。ぺこりと頭を下げると、にっこり笑われた。嘲りが多分に含まれているのは、言うまでもない。
「アニエス・フォーレルですわ。先日はペトロニーユ様のおうちでお目に掛かりましたけれど、覚えていらっしゃいますかしら」
「鮮やかな赤いドレスをお召しになっていた方ですよね。覚えております。こちらこそお見知りおきいただき、ありがとうございます」
「あら良いのよ堅苦しい挨拶なんて。そちらはお土産かしら。良い匂いがしているのね」
「お口に合うか分かりませんが、ブルーベリーパイをお持ちいたしました。お茶のお供にでもお召し上がりください」
「誰か! 誰か、パイを切り分けて頂戴!」
ささっと出てきたメイドさんが私からパイを受け取り、スカーフを解いて綺麗に切り分ける。迷いの無い裁き方にプロを見た。このぐらいできなきゃメイドとは言えないのか。覚えておこうっと。
勧められるまま椅子に座り、メイドさんが入れた紅茶を頂く。ちょっとスース―する感じが合って、ミントか何かのハーブティーかな? と思えた。でも味はちょっと苦い。何だろう。そう言えば誰も座ってないしお茶にも手を付けないな。それに――
「あの、ペリーヌさんは」
「ペトロニーユ様は少し遅れていらっしゃるそうよ。あなたには私達と楽しくしていて欲しいと」
「そ、そうでしたか」
生ぬるい温度のお茶は飲みやすくて、ちょっと変な味でもぐいぐい飲めてしまった。しかしハーブティーか。うちコーヒー派だから慣れないな。でもこういうのも鎮静効果があるって言うし、その内試してみようかな。その上でシモンとも、怒鳴り合いでない話し合いが出来れば――
底の方に沈んでいた一等苦い味を飲み込むと同時に、くらっと頭の中が揺らされるような眩暈めいた感覚に襲われ、思わずカップを綺麗に整備された芝生に落としてしまう。割れてはいないけれど、それを追い掛けるように私も椅子からずり落ちた。くすくすくすくす、笑う声が響く錯覚。
何これ。動けない。あの魔術師の眼を見た時みたいな、変な感覚だ。意識が白く染められていく。何も考えられない。落ちて行く。指一つ動かせないのに瞼は落ちて行って――。
「筋弛緩剤入りのお茶よ。魔術師なんか仕向けるより最初からこうしていた方が良かったわね」
くすくすくすくすくす――
「異世界人は異世界人らしく、異世界にお帰りなさいな。シモン様を誑かす毒婦が」
シモン――
意識が途切れて、私は目を閉じた。
「もしもし、ペリーヌ? 矢栖理と一緒か? え? だって茶会の招待状が来ていたぞ。お前も来ると書いてあった。フォーレル男爵の令嬢からだった。約束が無い? じゃあ矢栖理はどうしたんだ? ――まさか誘拐? そう言えば城に捕えされた魔術師もまだ雇い人を吐かないが、どうやら下級貴族の家を出入りしていたという噂が――ペリーヌ、すまない、今から馬車でこっちに来てくれないか。嫌な予感がする。多分当たる気がするんだ、こういう時の勘は」
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