第18話
その人が現れたのは夕飯のデザートの為に生クリームをかき回していた時だった。書斎から持って来た料理の本を開いて、作り方を確認していく。しかしこういう時は男手が欲しいな、思いながら玄関から響いたノックの音にはぁい、と返事をする。氷水の入ったボウルの中に生クリームの入ったボウルを置き、ぺけぺけ急ぎ足で先日牛乳で死ぬほど拭いたホールを抜ける。
玄関を開けると、そこには見たことのないへんてこりんな格好をした男の人が、私を見下ろしていた。
落ちくぼんだ眼に痩せた首。肩からは古い本を何冊も繋げて垂らしている。頭にはローブを被っていて、どっかで見た格好だな、と思った。本の辺りとか。あ、と私は閃く。そうそう、こんな格好は。
「魔術師さんですか?」
「ああ、そうだよ、可愛いお嬢ちゃん。少し私とお散歩してくれないかねえ。街に着いたばかりで難儀しているんだ。ここは騎士団長様の役宅だろう? 庶民を憐れんでくれるのも、役目だと思うんだが」
「私もここに来て一か月なので全然分かりません。シモンが帰って来るまで中で待っててください。コーヒーぐらい出せますよ」
笑ってそう言うと、魔術師さんはぽかん、とした顔の後で、ふーっと溜息を吐いた。はて何か変な事を言っただろうか。徒歩圏内で私が行けるのは市場だけだし、馬車で行ってる仕立て屋さんなんかは場所も知らない。でもここに来るためには市場を抜けなきゃ無理なはず。
はてこの人は何に困ってシモンに助けてもらいたいんだろう。じっと見上げてみると、カッとその眼が光った。ように見えた。
もろにそれを見た私の、身体が動かなくなる。悲鳴も上げる暇がない。身体が傾ぐのを、魔術師さんは支える。
「下手な芝居なんかせず、最初からこうすれば良かったよ。まったく人の良い嬢ちゃんだ、魔術師と分かっていながら眼を真っ直ぐに見上げて来るなんて、警戒心が無いにもほどがある」
何か言ってるのは分かるのに、何を言ってるのかは分からない。
「さてと、さっさとずらからないと団長が帰って――」
「俺が帰って来たらどうだと言うんだ」
馬車の音に振り向く魔術師に向かって一足飛びに、帰って来たシモンが距離を詰めた。剣を抜いて頬を掠める程度に突きを放つ。ひぇっと腰を抜かした魔術師は私の身体を手放す。倒れそうになったそれは、シモンに支えられた。よろよろ逃げようとする魔術師のうなじを、シモンは剣を握った手でガンッと殴りつける。気絶したらしく倒れた魔術師は、御者さんに縄で縛られた。こういう事態も想定しているものなのか、城直属の馬車って言うのは。だったら凄いな。
シモンの腕の中で、私はまだちかちかする眼の奥に、瞼が重くなる。するとシモンは懐から点眼薬を取り出して、閉じかけた私の瞼を上げるようにしてそれを差した。突然視界が開けて、あ、と声も出せるようになる。身体もだ。慌てて身体を起こすと、シモンはほっとまあるい溜息を吐いて、私を抱きしめる。その強さに男の人なんだなあと思えば、今更当たり前の事なのにちょっと頬が熱くなった。
「そいつは城の魔術師に任せてくれ。誰が仕組んだか吐くまで外には出さないよう」
「はい、シモン様」
ずるっと引きずられて馬車に乗せられた魔術師は、そのまま城に向かって行く。
ようやく私を少し離したシモンは、でももう一度やっぱりぎゅーっと抱きしめて、それから私の眼をまっすぐに見降ろした。赤い目。歪められているのが勿体ないぐらいの、綺麗な眼。あ、と私は声を漏らし、それから咳払いをした。大丈夫、喋れる。
「ありがと、シモン。なんかよく解んないけれどピンチだった」
「魔術師の装束だったからな。おそらくお前が異世界人だと知って実験にでも使おうとしたんだろう。お前の星はお前の世界にあるから、お前をどうしようとこの世界には関係ないと思って。――多元宇宙論も知らない魔術師がいたとは、思えないのだが」
多元宇宙論。ああ、そう言えば映画とかで聞いた事があるなあ。城の魔術師さんが言ってた平行世界ってそう言う事だったのか。はーっと息を吐いてシモンを見上げると、ぺたぺた私の身体を触って来る。いやらしい感じじゃなく、何かの確認のようだった。
「なに、シモン」
「何か他に術を掛けられていないだろうかとな。見た様子では大丈夫なようだが、邪視ぐらいのものらしい。それならあの点眼薬で中和できる」
「そう言えばよく都合良くあんなもの持ってたね?」
「軽い魔法なら中和できるからな。まあ、必要な装備の一つだと思ってくれればいい。本当に――無事で、良かった」
また抱き締められて、外なんですけど、と言いたくなる。身体をずりずり後ろに下げて、玄関の中に入った。それから手を伸ばして、ドアノブに引っ掛け、閉める。うちの中なら大丈夫、ほっとすると私もちょっと泣きたくなった。
いきなり異世界に飛ばされて、嫌がらせされて、変な魔術に巻き込まれそうになって。シモンの帰宅時間じゃなかったらどうなっていただろうと考えると、ゾッとした。これからは郵便屋さんだとしてもドアを開けるのが怖くなりそうで、そんな弱い自分に腹が立った。自分の身体なのに自分で何とかできない自分に、怒りが向く。いつも誰かがお膳立てしてくれるわけじゃない、助けに来てくれるわけじゃない。しっかりしなきゃ、思うほどに自分が情けなくて涙が出そうになる。
でもここで泣いたら薬が流れちゃうかもしんないし、シモンを困らせるだけだから、ぐっと堪える。泣くのはもうしたことだ。繰り返してなんかいられない。ぽんぽん、とシモンの背に手をまわして撫でる。筋肉が固い。良い音がする。他所事を考えれば、涙は引いて行った。
「ねえシモン、そう言えば気になったんだけど訊いて良い?」
「……なんだ?」
「ペリーヌさんの眼の色って緑だよね。でも最初に王様と謁見した時は、一般的な国民は黒髪黒眼って聞いた気がするんだけど、彼女の色は何処から?」
「あれは伯爵の愛人の色だと聞いた事がある。隣国からやって来た人間だったと」
「しゃあシモンは?」
「俺?」
身体を離されて、頭に乗っていた顎の感触が無くなる。結構とがってて痛かったので、それは助かる。きょとんとした顔、赤い眼。ふっと一瞬荒んだ色を見せたけれど、ふるふるっと頭を振って、シモンは私を見下ろした。
「俺も母親由来だ。隣国の人間だった」
「隣国ってそんなカラフルなの?」
「違う。――これは隣国の王家の人間にしか遺伝しない色らしい」
「え」
「俺の父親は、隣国の姫と通じて俺を作った。姫は殺され、俺だけが父親のもとに残されたと聞いている。だから俺の後見人は王なんだ」
結構シリアスなことを訊いてしまった。どうしよう、と反応に迷っていると、くっとシモンは喉を鳴らして笑い、私の髪をなでる。
「お前が気にすることじゃない。騎士団では実力主義の中を上って行ったし、たまに酒を飲んで憂さ晴らししていたのも今はない。お前のお陰だ」
「私?」
「お前の作る食事が楽しみで、まっすぐ家に帰るようになった。ちゃんとしたタオルでシャワーを浴びるのも億劫じゃなくなった。そしたらぐったり疲れて眠れるようにもなった。布団はいつも日向の匂いがするようになったし、床はいつもピカピカだ。ここは俺の家だと思えるようになった。騎士団長の役宅なのだと、俺自身が思えるようになった。お前のお陰だ、矢栖理」
ふっと笑われて、また頬が熱くなる。シモンもどこか自分の居場所を疑っていたのか。それが私によって解放されたのだとしたら、それは嬉しい事かもしれない。私がいることでシモンの場所が固定されるなら――それは、嬉しい。
いつか私もこの家をそう思う日が来るのだろうか。だけど私はただのメイドだ。それに、私はどうせここから出て行くつもりなのだ。ペリーヌさんが輿入れしてきたら、私はここに居られない。シモンには悪いけれど、それは決めている事だ。
寄る辺の星もない世界で、私は生きている。結構危なっかしいんだな、異世界人って立場は。今度の就職先では隠しておこう。思いながら、そう言えば生クリームを泡立てていたのを思い出す。後でシモンに、やってもらおう。私の料理が良いと言うのなら。
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