第17話
シモンがお皿を下げるようになったのは、お茶会の翌日からだった。それまで私任せだった台所仕事を見学に来たり、掃除を眺めたり。牛乳をモップに漬けるのには鼻をつまんでいたけれど、興味深く観察しては、綺麗になったフローリングの床におおっと声を上げたり。
小さな子供がするようなそれに私はピロシキをあぐっと食べながら、ちらっとだけ向かいの椅子に座るシモンを見た。よくは見えない。ちょっと遠いのもあるけれど、薔薇の花を活けた花瓶が二人の間にある所為でもある。ぽこぽこ開いていく薔薇は絶えず、屋敷のあちこちに飾ってあった。お砂糖で長持ちさせる、という技を知らなかったシモンは最初それを見た時に薔薇も砂糖を舐めるのかと大真面目に聞いて来たのがおかしかったっけ。まあ閑話休題、私達の距離は実際よりちょっと遠くなっている。
ただでさえメイドなんてしてると裏で食事をするのが普通だろうと思うだけに、この感覚はなんか慣れない。思春期には自分が食事をとっているのを見られるのを嫌がる傾向がある、って本で読んだことがあるけれど、それなのかもしれない。だから薔薇は、良い衝立になっている。生垣に、なっている。
「矢栖理、このパンはどういうものだ?」
油で揚げた温度がまだ残っているそれをナプキン越しに掴んではむっと食べながら、興味深そうに訊いて来る。どういうものって言ってもなー、うーんと悩んでから私は言葉を探す。
「私のいた世界では寒い国で食べられてたものかな。エネルギーを吸収するために脂っこくなってるし、中にも挽肉とか入れて凍えないようにしてたのかも。冬はよくおやつで食べてたから、レシピはちょっとあやふやなんだけどね。ピロシキ、って言うの」
「ぴろしき。面白い名前だな。俺は好きだぞ、稽古で減った腹には丁度良い」
「そりゃ良かった」
「ところで冬とは一体どういう季節なんだ? そんなに冷えるのか?」
常春の国に住んでたらそんなイメージか。私が住んでたのも北国じゃなかったし、雪だって年に二・三度降るぐらいだから正直説明が難しい。またもうーんと悩んでしまうと、薔薇越しに好奇心たっぷりの視線を浴びせられているのが解って、私もまだ温かいピロシキをはむっと食べた。ちょっと甘い、イーストの匂い。スープは勿論ボルシチ。ビーツが売ってて良かった。赤いそれを白いエプロンに飛ばさないよう気を付けながら、それも一口。うん、美味しく出来てる。サワークリームが心地良い。これも売ってて良かった。
「気温が下がって、花も殆ど咲かなくて、出来る野菜も変わって、そんな季節だよ。雪って見たことある?」
「模擬戦で山に登った時に見たことがある。白くて冷たい」
「あれが降ってくる。どっかんと」
「降る!? あれは地面の水分じゃなかったのか!?」
「そう言うのもあるけどね、霜柱とか。雨の代わりみたいなもんだよ。上空で冷えて固まった水分が落ちてくる。雹とか無いの? この国。私の住んでたとこだとたまに冬じゃなくても降りまくってたもんだけど」
「ひょう……知らないな。後で百科事典を引いてみよう。お前は何でも知っているな、矢栖理」
「知らないことがたまたま少ないだけだよ、シモンとは専門が違うってだけ。その内休暇取って雪国にでも行ってくれば? 冬の季節を狙ってさ。ただし薄着は言語道断だよ。下手すると凍えるからね」
くすっと笑うと、そうだな、と騎士団長様は雪国のパンをお召しになる。そんな暇な時勢なのかは知らないけれど、シモンは今のところ定時退出してるし周りに脅威はないのだろう。それは良い事だ。いきなりどっかん、なんて来たら、恒久平和主義の国からやってきた私は簡単に死ねる。そう言う時って平行世界的にどうなるんだろうな。私にあたる人が死んだりするんだろうか。考えるとちょっと面白い、平行世界。
残ったピロシキは明日の私のお昼かな、なんて思いながら台所に食器を下げると、カチャカチャいう音がしてシモンが自分の分のお皿を持って来た。危なっかしい手つきでいるのを受け取って、はあっと溜息をつく。
「メイドの仕事取らないで下さいな、ご主人様。ここは寄宿舎でもないしそんなことする必要はないんだからさ。大体なんで突然こんなことするようにしたの?」
ちょっと問い詰めるような口調になっちゃったな、思いながらもじろっと見上げると、いやその、とシモンは口元をもゅもゅさせる。はっきり言いなさい男の子。とは男女差別だろうか。その辺この国どうなってんだろ。何て言うんだっけ、多様性? とかなんとか。いや、ジェンダー? 城の魔術師さんも神官さんも皆男だったし、王様もお祖父ちゃんだけど。そして騎士団長様もだ。
その、と口を開かれて、はい、と私は応える。ちょっと子供扱いかと思ったけれど、やもめ暮らしの長かっただろうシモンにはその方が話しやすいだろう。
「ペリーヌが」
予想しない名前が出て来て、ちょっと肩がはねる。
「自分の使った食器くらい下げられる男にならないと、良い物件があっても逃げられるぞと言うから」
「ペリーヌさんの言うことはそんなに素直に聞くんだ」
「え?」
ああ本当、無謀な望みだよなあ。ここでずっとメイドしていたいなんてのは。相手には婚約者がいるんだぞ。ド平民の私が勝てない伯爵令嬢が。しかも家事も出来るし気遣いも出来るご令嬢様が。
なんで私を選ぼうとしたのか。自分の立場をわきまえていなかったのか。それはどっちだろう。私が? シモンが? 両方が? 自嘲の笑みが浮かんで、奪い取った食器を持ってシンクの方に振り返る。苛立ってる? 馬鹿馬鹿しい。そんな権利すらも、私にはない。
「矢栖理、」
「まあ誰が言ったんでも良いけどね。お皿の重ね方が危なっかしいし、無理してやらなくても平気だよ。こっちにもう来て三週間だよ? 大分このメイド仕事にも慣れてきたところだし」
水を出して皿にこびりついている部分を流す。石鹸で泡立てたスポンジをぐしぐし擦りつけて、私は無表情のまま洗い物を始めた。後ろではシモンが戸惑っている気配がするけれど、あえて無視する。水は井戸水だから冷たくて気持ち良かった。手は荒れるけれど、このぐらいなら何ともないだろう。そのうち治る。もう少し温かくなったら。夏の薔薇も咲く頃になったら。その頃はこの家に居ないかもしれない、か。
シモンが二十歳になった辺りで、二人は多分結婚するだろう。一区切りつく年齢は、こっちも同じみたいだから。シモンはペリーヌさんの親が決めた事だと言っていたけれど、こういう界隈は親の言うことが絶対だ。シモンは爵位を持ち、王が後見人を務めている優良株でもある。さっさと手を付けなければならないから、目端を利かせているのだろう。こんな異世界娘にかっさらわれるのは、御免だろうし。
それだけのことをして囲おうとしていた男を、今更逃せないのは解る。解るから、私は出て行かなくてはならない。メイド部屋も毎日掃除しているのは、もし私がいなくても違うメイドを雇えるようにだ。執事部屋だってそう。伯爵家同士の繋がりになるのだから、持参金も莫大な額になるだろう。それで使用人を雇えば良い。
私である必要はないのだ。私はただのメイド。紹介状を書いて貰ったらそれ一つでさようなら出来る関係。そう思っていなくちゃ、やっていられない。
いっそお城の庭師になろうかな。風が吹いたら元の世界に戻れるかもしれないし。魔術師さんから勉強させてもらえるかもしれないし。勉強は嫌いじゃない。好きこそものの上手なれ、だ。気になることは勉強してみたい。
窓を見ると、まだシモンが私の後ろで立ち尽くしているのが見えた。鬱陶しいなあと思ってしまう。でもシモンは、ポケットに手を入れて、何かを取り出したらしかった。銀色のチューブは絵の具みたいにも見える。洗い物を終わらせて大量に買い込んだタオルで手を拭き振り向くと、それを突き出された。
カモミールの絵が描いてある、ハンドクリームだった。
「最近手が荒れているだろう。使ってくれ」
「それもペリーヌさんに言われたの?」
「違う、矢栖理、これは俺がお前に」
「冗談だよ。ありがと。寝る前にでも使うわ」
受け取ろうと伸ばした自分の手は赤切れていてみっともない。手袋で隠せるもんなのかな、なんて考えた。でもこれは私がここに居るための悪あがきだから、と、ちょっと手汗で湿ってるシール部分に触れる。
シモンは手袋をしていなかった。
そう言えば最近は外していることが多い。
その理由に気付くのは、もう少し後である。
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