第13話

 翌朝、そろそろと私を振り向きながらそれでも馬車に乗ったシモンをにっこりと作り笑顔で見送り、ミルクをフローリングの床にぶちまける。白いそれの匂いにちょっとげろっとしながら、私はモップでごしごしとそれを伸ばして磨いた。そこまで傷んでいなかったからか劇的に綺麗にはならなかったけれど、まあよく磨けている方だろう。絨毯の方に行かないよう、気を付けてモップを動かしていった。無心にそうしているのは気持ちがいい。浮かんでくる思考を静寂に任せて脳内で射殺していく。私はいつまでこうしていられるのかな。風船のように膨らんでは沸いてくるものを、イメージの矢で弾き飛ばす。


 鏑矢は放たれていた。最初に市場に行った時、助けてもらったあの時から。この思いの鏑矢は放たれていたのだ。ああ肯定したら楽なのかもしれない。私は多分シモンが好きだ。でも結婚とかは考えられない、幼い感情だ。繰り返すように私は十五歳、とても結婚なんて考えていられる歳じゃない。目の前に迫る受験と対決している頃だ。なのに何だって貴族の婚姻事情に巻き込まれちゃってるのか。貴族なんて死語だよ。死語。立ち居振る舞いもダンスもお茶会も知った事じゃないよ。


 好きになった後で付いて来る面倒くさい事情を思えば、私はこの思いを押し隠していくのがベストだろう。幸い真の婚約者のペリーヌさんは良い人だ。私はこの家で働いて行くのに何の不自由もない。見ているのが辛いと思ったら別の奉公先を探せば良いだけだ。シモンの家で働いていた、騎士団長の家でメイドをしていたというアドバンテージは、どこに行くにもプラスイメージで働いてくれるだろう。でも私は一度王侯貴族の前で婚約宣言をされている。それはマイナスだな。床が光って行く。今日はモップ掛けだけで日が終わりそうだ。

 シモンの言葉も聞いてみて。言ったのはペリーヌさんだ。親が言っているだけ、とシモンは言っていたけれど、ペリーヌさんは私に彼の婚約者だと宣言して行った。と言う事は、ペリーヌさんの中では一応ながらもシモンは婚約者なのだろう。そして私を偵察に来た。私は何かに合格したのかもしれない。愛妾としてのそれだったら、こっちから願い下げだ。私は二番目や三番目になりたいとは思わない。シモンにとっての私。どうなんだろう。私は、私は。


 ミルクの中にぽつんと小さな水滴が落ちる。鼻水だった。昨日と逆じゃなくて良かった、思いながら溢れてくる涙を袖でぐしぐしと拭いた。大丈夫、私は、大丈夫。失恋でもないんだから。それ未満なのだから。つらい事なんて何にもない。悲しい事なんて何にもない。シモンの気持ち。爆弾発言しておきながら、シモンは私にそれ以上の言葉を重ねることはしなかった。やっぱり保護者の意味なんだろう。家族になるなんて。別にその形は結婚じゃなくても良いんだから、私がどう思っていようと関係なかったのかもしれない。傲慢。でも嫌いになれない。聞いてみたい。シモンの中の私の事を、訊いてみたい。


 廊下は磨かれ、私の精神も研ぎ澄まされていく。これが終わったらコーヒー牛乳を飲もう。お砂糖をたっぷり入れて、腹いせまがいにそうしよう。甘いものを飲めば少しは落ち着くはずだ。昨日のタルトも残っているからそれも食べよう。恋敵とは思えないけれど、一応そう言う立場を取っている人が作ったものでも、美味しさには変わりがない。恋敵。大人のおねーさんにそんな言葉は失礼だ。私はまだ、自分の感情の制御も出来ない子供なんだから。にこにこ笑うことに徹していたあのある意味の鉄面皮とは、レベルが違う。


 シモンはそんな人と歩いて行くんだなあ、と思うと、また涙が出た。廊下の突き当りにモップがぶつかって、まだ残っているミルクは明日の二階用にしておこうと台所に運ぶ。聞いた話ではフローリングのモップ掛けはより古い牛乳であるのが望ましいのだと言う。もう一日古くして、明日に挑もう。明日。当り前のようにこの屋敷に居る自分を想像しているところで、笑ってしまった。そんな根拠、どこにもない。帰って来たら荷物を纏めて放り出されるかもしれない。その後ろにはペリーヌさんが? ははっと乾いた笑いが出た。恋敵にもなれないと言いながら、十分嫉妬しているじゃないの、私。大きすぎて射ち殺せないぐらい。考えてしまうと止まらないぐらい。


 好きじゃ駄目かな? シモンのこと。騎士団長。朴念仁。傲慢。笑うと結構可愛い。怒ると滅茶苦茶格好良い。私は、何なんだろう。メイド。家政婦。一応婚約を申し込まれている。でも面と向かってじゃない、王様越しにだ。王様は反対しなかった。何故だろう。ペリーヌさんの事は知ってただろうに。

 庭に出たくないな、今日は。あの小うるさいお嬢様軍団にけたけた笑われるのも、ペリーヌさんに捉まってお茶会になるのも、御免な気分だった。手を洗って、手を洗って、手を洗って。綺麗にしてみてもちょっと荒れて来てるのが解るだけ。夕飯は何にしようかな。昨日のポトフがまだ余っているから。スープカレーにしようか。ちょっと多めにカレー粉を入れて。思いっきり辛くしてやろうかな。牛乳が欲しくなるぐらい。ただの嫌がらせだ。性格が悪いと思われるから止めよう。


 でも理不尽だよ。好きにさせといて婚約者がいたとか、信じらんない。酷くない? 私にもペリーヌさんにも失礼だとか思わない? その辺でキャッキャしてるご令嬢たちとは訳が違うんだよ? 契約が成り立ってるんだよ? なのにペリーヌさんは気にしたそぶりもないし、話を聞いてとか言うし。それが婚約者に言わせる言葉? あんまりにも、ひどいんじゃない?


 私はシモンが好きでも、シモンの好きとそれが違ったら、どうしようもない。ペリーヌさんの婚約と言う意味も、もしかしたら違うのかもしれない。例えば結婚してもお互い愛人作って良い事にしてるとか、仮面夫婦と言うか、本当に家だけの繋がりで愛はないのかもしれないとか。

 そんな私に都合の良いことあるわけないか。だとしたら愛人にすれば良いだけで、わざわざ婚約宣言をする必要もない。シモンは私を、どう思って。私の事を、どんな風に思っているのだろう。私の答えは自信が無いけれど一応出ている。シモンが好き。でも恋愛にするのはちょっと怖い。メイドの部分が自分から欠けてしまえば、シモンは私に興味を無くすかもしれない。こんな屋敷の『奥様』に、私は向いてない。かと言ってメイドでいることを続ければ、それはシモンの名前に傷を付ける。大体、結婚自体許されないだろう、そんなんじゃ。わざわざ結婚する意味は。家族になる。他の方法もあるだろうに、あえて私をお嫁さんにしたがったのは。自分に近付いてくるご令嬢たちを遠ざけるため? でも結局ペリーヌさんと言う人は昨日やって来た。目論見は失敗である。ペリーヌさんなら良かった? そこにある絶対の信頼は何だろう。この家にも慣れていた彼女。あの汚屋敷を知っていた彼女。この家で一体、何を?


 考えるな、ぶんぶん頭を振って脳みその中身を散らばらせてしまう。コーヒーをくいっと一息に飲んで、タルトも食べてしまう。やっぱり無糖のコーヒーの方がこのタルトには良いな。失敗した。ごくんっと飲み込んでから、ふーっと息を吐いて、台所にあったスツールに腰掛ける。ぼんやり見上げた天井は油汚れもなく綺麗だ。前の騎士団長さんかそのお手伝いさんが、綺麗にして出て行ってくれたのだろう。そしてシモンは料理をしないから、そのまま綺麗に残ってる。これを汚すのは私かな、それともペリーヌさんかな。なんだかんだ張り合ってる自分に、笑いが出た。

 私は彼女に勝るものなんて何も持ってない。シモンの事だって何にも知らない。家の事だってペリーヌさんの方が詳しいぐらい。私は、何のために。


 不意に玄関の方からコンコンコンコン、と言うノックが響いてきて、私は慌てて立ち上がった。はぁい、と返事をして開けると、見慣れない制服の男の人が立っていて、にっこり笑っている。

「郵便ですよ、お嬢さん」

「え、あ、はいっありがとうございます」

 それはペリーヌさんから、来週末のお茶会への招待状だった。

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