第12話

 タルトを半分残してから帰路につくペリーヌさんをなんとなく呆けた頭で見送ると、馬車はうちの馬車小屋に留められていたらしかった。シモンは御者を雇うのを嫌ったのだろう、馬車は持ってない。ナマモノの飼育にも向いていないから馬すらいない。それも知っている、慣れている様子は、確かに婚約者と言う言葉に重みを持たせて私の胸をずんっとさせる。テーブルは出したままで良いか。ティーセットとタルトの残りを台所に持っていくと、それだけで座り込んでしまった。ずるずるずるっとしゃがみ込むと、まだちょっと埃っぽい床がスカートに触れる。


 婚約者がいるってのに私との婚約を取り付けに行くとか、流石に流石じゃないだろうか。ペリーヌさんに対しても失礼だし、私にとっても寝耳に水で心臓に悪かった。じくじくした痛みが広がるのを潰すイメージをする。ニキビとかの要領で。でも膿は広がって行く。射殺せない。この痛みは、射殺せない。

 不誠実な婚約者を責めるでもなく、ペリーヌさんは私に笑顔以外を見せなかった。黒い巻き毛に緑の眼。グリーンアイズ、って言うのは英語で嫉妬深い人を指すらしいけれど、あの眼にはそんなもの全然なかった。むしろ私達を後押しするような言葉が目立ったのは、どうしてだろう。夢見がちな異世界人をからかっていた、と言う風でもない。彼女はそもそも何をしに来たんだろう。偵察? ティータイム? 根本から分からない人だった。上品な軽いドレス、丁寧なお化粧。私はすっぴん、黒い汚れの目立たないワンピースに、合わないだぼっとしたエプロン。どっちがお姫様に近いかなんて、火を見るより明らかだった。


 取り敢えず洗い物をして夕食の準備をする。考えるのが億劫だから煮れば良いだけのポトフにした。鶏手羽元を突っ込んで肉分を足しておく。アイントプフとの違いが実はよく解ってないんだよな、と庭で取れたハーブも入れた。月桂樹があったからその葉っぱを。って言うか本当にスパイスとかハーブとかがちゃんと植えられてるんだよな。ミントだけが謎だ。誰の手違いだったんだろう。まったく。お陰で他の草木が吸われてる。そのミントも洗って入れた。お腹にもたれなくて丁度良いのだ。まあメイン根菜類だから別に良いんだけどさ、もたれないし。

 役立たずになっていた庭のハーブ園を整備するのは、自分が役立たずじゃないと証明するようなものなのかもしれない。代替行為に代償好意。そうだ、布団をしまい込まなくちゃ。やっと埃が出なくなってきた所なのだ、こっちも。

 私にはやっぱり家事が合っている。深窓の令嬢にはなれない。でもそれはペリーヌさんも同じだ。となると物を言うのは立ち位置だろう。伯爵令嬢に対するアドバンテージが、私には少しもない。どうしようもない。私はこの世界において、どういう人間として生きれば良いんだろう。急に途方に暮れた気分になった。シモンが誰かと結婚して。私はそのメイドとしてここで働く。それはちょっと妬ましい想像だった。


 でもその隣にいるのがペリーヌさんだとしたら、私は何も言えず床磨きをするだろう。あの人は良い人だ。茶目っ気もあるし、お料理も上手だし、仕事を奪われそうなぐらい私に構ってくれるだろう。それは楽しそうな想像だった。なのに胸は重くなった。私はシモンの事をどう思っているんだろうと、急に不安になる。


 騎士団長。ご主人様。それだけ? 家族になると言ってくれた。じゃあ家族。でもそれがどんな形のものなのかは、解らない。シモンは私を妻にする気でいるらしい。じゃあ私は伯爵夫人にふさわしい立ち居振る舞いが出来る? 無理だ。中学三年生だぞ、こちとらは。貴族社会の渡り歩き方なんて知らない。人を嘲笑しに庭を覗き込んでくる礼儀知らずでもご令嬢になれるんだから、私はそこそこ大人しくしていれば良いだけだろうか。それだけ? 本当に? じゃあ、シモンに対しての振る舞いは?


 何を考えているか分からない、突飛でちょっと傲慢で生活破綻者で。私が掃除するのを止めたら、この家はたちまちまた汚屋敷に逆戻りだろう。それを防ぐためにも私はやっぱりメイドで居続けたい。だけどそんなのただ他のメイドを雇えば良いだけだろう。執事だってシモンの財力なら簡単に雇えるはずだ。メイド用の部屋だって掃除はしてある。執事用の部屋も。それらを有効活用すれば良いだけで、この汚屋敷は最初から私の物ではないのだ。

 私にしか出来ない事って何だろう。鍋にコンソメの素をぱらぱら入れて行く。意外と進んでるな、この異世界。カレー粉もあるから、今度はスープカレーにしようかな。材料は大して変わらない。私にしか出来ない料理を作っておくのも、胃袋を掴むためには必要かも知れない。

 胃袋を掴む。まるで押し掛け女房だ。くひっと笑うと出窓にある置時計は五時を指している。一時間も煮込めば十分だろう。先にシャワーを浴びてもらった方が良いかな。時間は稼げるだけ稼ぎたい。その方が野菜にコンソメも滲みるし。最後の調節である塩とコショウは自分でやってもらうとして。

 スープ用のマグと野菜用の取り皿を用意しておく。鍋に少し水を足す。ぽちゃんっと何かが落ちて、それが涙だと気付く。


 やばいな、また情緒不安定かよ私。別に何があったわけでもない、ただの世間話があっただけだ。気の良いご令嬢との出会いがあって、その人はシモンの婚約者で。あの人なら愛人ぐらい許してしまいそうだと思うから、しんどくなる。眼にも入っていないんだろう、私の事なんか。どうとでも出来るからこその、余裕。日々切羽詰まっている私にはないもの。シモンを困らせる私にはないもの。

 ああ、私、シモンのこと好きなのかなあ。お嫁さんになりたいのかなあ。でも現状のメイド暮らしで充分な気もしているから、やっぱり分かんないや。なんてったって私は元の世界に戻ったら義務教育年齢なのだ。平安時代の人とかみたいにさっさと輿入れ先を決めて、なんてことはあり得ない。中流家庭のごく普通の暮らしをしていただけに、この異世界での生き方はよく解らない。だから縋る先としてシモンを好きになったつもりでいるだけなのかも。だとしたら空しいなあ。私、ただの自己中心的な女じゃないか。


「矢栖理?」

「へっ」

「どうした。具合でも悪いのか?」

 公務員の定時帰宅のような正確さで帰って来たシモンに問われて、私は反射的にふるふると頭を振る。倒れた夜から私とシモンは一緒に食事をとることにしていた。食堂のテーブルは会食が開けるぐらいには大きな長方形だ。その短辺で向かい合いながら、私達は食事をとる。スープと野菜を分けて食べるポトフは、あの小さなシンクには食器がちょっと多い。ついでに今日はデザートのタルトがある。水切り籠に収まるか、ちょっと不安だ。

「今日は色んなお客さんがいたから、それだけ」

「このタルトは?」

「それはお客さんのおみやげ。二人で食べてねって置いてってくれた」

「ふうん? 誰だ? 俺も知っている人間だろうか」

「知り尽くしてる人間だと思うよ、なんてったって婚約者だもん」

「え?」

 きょとんっとすんなよ。可哀想だろ。

「ペリーヌさんが持って来てくれたんだよ」

「ペリ……おっお前、ペリーヌに会ったのか!?」

 何を慌てているんだろうなあこの人は、なんて冷めた目で見てしまう。机を叩いて立ち上がったシモンは、ぶんぶん頭を振りながら座り直す。お食事は礼儀正しくね、ご主人様。

「別に隠さなくて良いよ、良い人だったよ。カフェオレも美味しいって言ってくれたし、ティーセットくれたし」

「また来ると言う事か」

「かもね。今度は私もシモンの事色々聞いちゃおうかな」

「……お前。まさか何か誤解してないだろうな」

「何を? 婚約者なんでしょ?」

「あいつの親の伯爵が言い張っているだけだ。俺達同士にその気はない」

「そう言う事にしておきますか」

「矢栖理!」

「良いから食べちゃってよ。冷めちゃうよ、スープ」

 私の言葉の方が冷めていたかもしれない、と思うのは、洗い物の最中の事だった。

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