第10話

 翌日の私はいつもの黒いワンピースにあのだぼっとしたエプロンを掛けて、庭いじりに精を出していた。心臓に悪い登城をさせられたので帰りに買わせた麦わら帽子をかぶっているから、熱射病対策もばっちりである。黒い服は陽光を集めるけれどぽかぽか温かいぐらいで、丁度良い感じだった。薔薇は明日明後日にでも咲きそうなほどつぼみを緩くしていて、それが楽しみ。

 ちなみに夕べ出したカフェオレ――もうコーヒー牛乳で良いんじゃねえかってぐらい甘い――でトイレに走ることはなかったので、今朝から朝のメニューにカフェオレが加わった。でもそろそろ生乳は傷んでいる頃だから、明日は廊下磨きに使おうと思う。傷んだ牛乳はフローリング磨きに良いのだ。


 ハーブ畑からミントをじりじり遠ざけるよう移植ゴテで土を掘り返していると、くすくす笑う声が聞こえた。顔を上げるとまだ薔薇の蔓を伸ばしていないフェンスの方からそれが聞こえてくるのが解る。麦わら帽子の隙間から気付かれないよう探ってみると、軽いドレスを着た貴族のお嬢様っぽい方々が私を見て笑っているようだった。しかもあまり、いや全然、好意的でなく。

 あー。こう言うのもいるよね、どこに世界にだって。本で読んだことがある。身分階級云々って奴だ。異世界から来た私は身分が高い方じゃないんだろう。そしておじょーさま方はさるとりいぬのご身分であらせられる。シルクやレースの手袋をしているような。めんどくさっ。


 大方シモンの爆弾発言で沸いた妙齢のお嬢様たちなのだろう。無視してミントをぶちぶち千切りながら根を丁寧に処理していく。はいはいあんたは存在感あり過ぎだからもうちょっと離れてようね。誰の事だろう、それは。私自身にも言える事なんじゃないだろうか。わざと泥が跳ねるように如雨露の水をぶっかけると、きゃあ、と声が響いた。人の家覗いてんじゃねーぞ、お嬢様なら。私はあんまり人付き合いが得意な方じゃないのだ。むしろ苦手だ。シモンにずかずか物を言えるのは、一応一つ屋根の下で寝起きして掃除や布団干しなんかの世話もしてきたからだ。

 何せ威厳なんてものはこの屋敷に入った時から失われている。きったない部屋、きったない床、きったないグラスたち。それを全部片づけて信頼を得ているからこそずけずけ言えるのだ、私は。陰で狙ってたなんて連中知った事じゃない。かと言ってシモンは私の物でもない。私にとってのシモンは――なんだろう。職歴? それが一番強いと思う。多分。いきなり婚約者になんてなれるほど、私も図太くはない。こう言うのはまず周囲の機嫌を取ってから水面下で進める事だろう。少なくとも私の常識ではそうだ。


 いなくなったご令嬢たちからの目隠しに、私はまだ未成熟な薔薇の蔓を柵に絡めて行く。くすっと聞こえたのはまた笑い声だ。まだ残ってたのか、全員馬車に乗って行く音が聞こえたと思ったのに――また麦わら帽子の下から伺えば、そこに立っているのは二十歳ぐらいのお姉さんだった。シモンと同い年ぐらいだろうか。外出用の軽いドレスを纏って、手には手袋が無い。扇を持っているけれど、それは閉じられて、口元を隠すようになっていた。

 にこ、っと笑い掛けられて、私はぽかんとする。黒い髪に撒き毛の彼女は、さっき泥を跳ね散らかしたちょっと外にいた。偵察に小うるさい子女たちを使っていたのだろうか。だとしたら出来る、この人。そっと庭陰に隠れようとすると、待ってちょうだい、と呼び止められた。これは。帽子を取るしかない。緑の眼をしていた、その人は。


「わたくしはペトロニーユと申しますの。ペリーヌとお呼びくださいな、矢栖理さん。わたくしもそう呼んで良いかしら」

「えぁ、は、はい。ペリーヌ様」

「様、は結構ですわ。こちらが突然お邪魔してしまっているのですから」

 笑顔を絶やさない人は分かりにくい。シモンも仏頂面な所がちょっとあるけれど、もっと隙もたくさんある。それらは親しみを覚えさせるのに十分だ。逆に一部の隙もないと身構えて縮こまってタイミングが合わせられない。門扉の方に歩いて行くのをなんとなく見送って、ぎぃ、とそれが開けられたことに庭道具をぶっ飛ばして駆け付ける。彼女の足は一直線に倉庫に向かっていた。私もまだ入った事のないそこに、彼女は簡単に入って見せる。さっきから迷いが一切ない。人の家なのに。私だって入った事ないのに、とは言わない。それは私の勝手なのだから。でもちょっと、ちょっとだけ、悔しい。

「矢栖理さん、少し手伝って下さるかしらー?」

「は、はいっ」


 薄暗い倉庫から響いた声に、私はとたたたっと駆け寄る。底の平たい運動靴だ。こっちに来た時に履いていたものを使っている、普段は。泥で汚れてるけれど、まあ庭仕事用なら良いだろう。向こうでもそう使ってたんだし。

 埃塗れの倉庫の中、ペリーヌさんが奥から引っ張り出してきたのはテーブルセットだった。野外のお茶会に使うような丸いもので、椅子が三脚重ねられている。まずその椅子を引き受けると、ありがとう、と言った彼女は一気にテーブルを持ち上げた。何というお嬢様。えっさほいさと取り敢えず庭に出ると、白いそれは埃でいっぱいだった。あらぁ、残念そうに言うペリーヌさんに、何だか罪悪感を抱いてしまった私は、慌ててまだ使っていない雑巾と布巾を持って来る。水で絞ったそれでまず椅子の座面とテーブルを拭いて。次に仕上げとして布巾を使った。なんとか見れる程度になったそれに、ありがとう、とペリーヌさんは笑う。

「本当によく気の付く人でいらっしゃるのね、矢栖理さん。シモンが心を許す気になったのも解る気がするわ」

「しも……ご主人様とペリーヌさんは、どういったご関係で?」

「うふ。秘密」

 秘密にされた。だけど美人が口元に指を当ててそうする仕草は可愛かった。

「あ、えっと、何か飲みますか? とは言えこの家今はコーヒーと水とミルクしかないですけど」

「コーヒーがあるの? わたくし普段は紅茶だから、コーヒーが飲んでみたいわ。でも飲み慣れないとお腹を壊してしまうとも聞いているし……」

「でしたらお任せをっ。あ、甘いものは大丈夫ですか?」

「馬車にタルトを置いてきている程度には好きね」

「では少々お待ちをっ」


 ぺこっと頭を下げて私はキッチンに走る。一応私の分もあった方が良いだろうけれど――体裁的に――秘密って、どんな関係なんだろう。シモンと。うんうん唸りながらコーヒーメーカーからコーヒーが落ちるのを待ち、牛乳も冷蔵庫から出しておく。そして気付いた。不揃いなグラスしか置いてないこのキッチンから、どうやって気の利いたコーヒー牛乳が出せるのだろう。うんうん唸りながら頭を抱えていると、矢栖理さん、と呼ばれた。

 振り向くとペリーヌさんがいる。その手には五脚のティーセットがお盆に置かれていた。

「これ、お土産のつもりで持って来たんだけれど、使えるかしら」

「地獄に仏です!」

「ホトケ?」

「えっと、神様です! ご主人様ったら拘りが何にも無くて人を持て成せる環境じゃないんですよこの家……!」

「うふふ、でも随分綺麗になっていてびっくりしたわ。あの玄関が埃一つないなんて驚いちゃったもの。あら、これがコーヒーの匂いなのね。良い香り……先に庭で待っているわね、わたくし」

「は、はいっ!」

 受け取った茶器に砂糖を入れ、コーヒーを注いでからミルクを入れる。くるくる掻き混ぜた優しい色を持って、私は庭に出た。

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