第9話
「矢栖理。昨日買ったドレスを着て来い」
朝食を下げる段になって突然そう言われ、へ、と私は声を漏らした。眼の腫れはなく、昨日はちょっとした食堂で夕食を済ませ――だから今朝は昨日の夕食の予定だったサンドイッチを出した――早めに寝たから頭もしゃっきりしているけれど、ちょっとこの騎士団長様の言う意味が解らない。早く、と急かされて慌てて部屋に向かった。お布団はもう干してある。今日も良い天気だ。お出掛けは今まで買ってもらった黒のワンピースを主に使っていたけれど、いきなりドレスとは。買ってもらった萌黄色のドレスに手を通すと、するっとした心地が気持ち良かった。お高いものはそれなりの素材で作られている。日本の中学生はドレスに親しまないからよく解らないけれど、それでも上物なのは分かるぐらいだった。馬子にも衣裳と言うのだろうか、立て付けてある鏡を見る。お化粧してないからちぐはぐだった。なんかおかしい。
靴も昨日買ってもらったちょっとヒールのある物にすると、なんとか裾を引きずることにはならなくて、ほっとした。矢栖理、と玄関ホールから聞こえる声にはぁい、と答えて、一応手で裾を上げてとてててと走って行く。こういう時にハイヒールは不便だ。シンデレラが残していった気持ちも分かる。
それはともかく、だ。なんだってこんなものを着なきゃならないんだろう。私も城に連れて行くつもりなのかな。でもだとしたら何故? ホームシックな娘は面倒見きれないと王様にでも報告するのかな。それはちょっと寂しいけれど、また今度はバルコニーから落ちでもしたら大ごとだろう。そうならないために部下かどこかの家に払い下げにするか、城で働かせるか、そうするのは自然な選択肢だった。まして私は昨日魔術師になりたいと発言もしている。城に居れば魔術師の言動は観察できるから、その為かも。
でも案外しらけているものだな、なんて私は考える。予想通りに馬車に乗せられ隣に座ってちょっとのんびりしたとことこと言う蹄の音と僅かな上下をお尻に感じながら、まあ十日やそこらで築かれる連帯感情なんて大したことないよな、なんて。こっちはそれなりに頑張ったつもりだし、実際気の置けない仲になりつつあるんじゃないのかな、なんて考えていただけに。このドレスも、買ってもらった時はひらひらふわふわだーなんて喜んでいたんだから、今鳴いたカラスが何とやら、だった。それも今日の登城を見越しての事だったんだとしたら、飛んだ間抜けだ、私は。昨日は泣き疲れたのかすっかりよく眠れてクマも少しだけど薄くなったのに。
キィ、と御者さんが馬を止めると、昨日は薄暗くてよく覚えてなかった城の門がででんと鎮座している。階段さえなければ馬車がそのまますっぽり入って行けそうな門だな。シンデレラ繋がりで修学旅行で言ったテーマパークを思い出す。あそこにはシンデレラ城があった。混んでて入ったことはないけれど、あれよりずっと実用的なお城なんだろうと思う。戦争もしてたって言うからか、離宮みたいなものもあって、そっちは穀物倉になっているらしかった。備蓄は大事だ。うちでも非常食や持ち出しセットは作っていた。なんせ火山列島出身なもんだから、いつ何が起こるか分からなくて。
ドアをくぐってシモンは衛兵の人に何かを申し付ける。行くぞ、と言われてドレスを掴んだまま足を速めると、謁見の間に通された。好々爺然とした王様が座っているのを一瞬だけ見て目を伏せ、シモンがするように跪く。あ、ドレスの裾。まあ良いか、やむをえまい。
「剣ばかりふるっておるお前の方から謁見を申し出るとは珍しい事だな、シモン。何か報告する事象が出来たか」
「報告と言うより、お許しを願いに来た次第です」
「ほう、何か」
「矢栖理を」
やっぱり私か。
絨毯敷きの床なのに、底冷えするような錯覚がある。
「矢栖理を私の婚約者として正式に発表させていただきたいのです」
…………。
ゑ?
「ちょ、シモン」
思わず声が出たけれど、シモンはこっちを向きもしなかった。ざわざわとしているのはを王に侍っているんだろう貴族の方々、大臣や魔術師さんや神官さん達。魔術師の方を思わず見てしまうと、笑っていえーい、とピースサインされた。あるんだこっちにも。そして意外と軽いな魔術師。昨日との印象が大違いだよ。
しかし騎士団長の地位にあるだろう人が突然自分の意志だけでこんな胡散臭い娘を娶ろうなんて、それこそ貴族さんたちが許さないだろう。証拠に騒めきが大きくなって私はじろじろ観察され、針の筵だ。本当何言ってんだシモン。
もしかして昨日言ってた家族になるって、そう言う意味だったの? お兄さんとかお父さん代わりじゃなく? だとしたら私はちょっと間抜けていたぞ。いくら射殺せない感情に支配されていたとしても、あまりにも不理解過ぎだ。でもだっていきなり婚約って。それってあれでしょ、いずれは結婚に至って子供を持ったりするかもしれないって事でしょ? 聞いてないよ。いや聞いてたけれど理解してなかったよ。なんだって私なんかにそう同情しちゃうのシモン。騎士団長として、脇が甘いよ。ちゃんと説明してくれなきゃ分かんない。でも私が何か言える雰囲気じゃない。ふむ、と王様が息を吐く声で一旦声は収まる。私は無礼かもしれないけど王様を見た。彼もこちらを見下ろす。ブンブン頭を振って同意じゃないことを伝えるんだけど、軽く流されてにっこりと笑われた。
いや本当に。聞いてないです。知らないです。私の意志は何処にもないです。すっぴんドレスと言う辱めすら受けています。聞いてない。聞いてないよシモン!
「矢栖理の食事は美味かったか、シモン」
「はい」
「家事も行き届いているか」
「はい」
「だが矢栖理を妻にすればお前はそれらをすべて失うぞ」
「老後に取っておきます」
取っておきますじゃないよ。いや料理とか家事がお気に召していたのなら嬉しいけれど、今はそう言う場合でも無くて。すべて失うってどういう事? 騎士団長の妻になったら庭いじりも出来なくなるってこと? 聞いたことある、昔の貴族が手袋をしていたのは家事をする必要が無いからだって。私もそこに組み込まれたら確かにシモンはそれらすべてを失うことになるのだろう。私が女主人になったら絨毯は変えさせると思う。きったねぇもん、あちこち酒の染みが付いてて。
否否、そうじゃなく。家事もしなくなったらぐーたらな私は何をすれば。本を読む? レース編みをする? お茶会を開く? どれも押し付けられるのは嫌いだ。それに私はこの世界に友達と呼べる人がまだ一人だっていない。シモンはあくまで雇い主。ご主人様だ。でもそうじゃなくなるとしたら、私はこの視線の中に飛び込んでいかなきゃならないと言う事で。怖いわ。もうちょっと私が幼かったら良かったかもしれないけれど、十五歳で、多分こっちの世界では適齢で、そんな世界に飛び込むなんて恐ろしすぎるわ。
くっくっくと笑った王様は、おちゃめに私にウィンクをして見せる。
「シモンがここまで言い切った娘は初めてだな。どれ、ちと頼めんかな、矢栖理よ」
「え、え」
「シモンと添い遂げることを考えてやって欲しい。何、こちらの世界にどのぐらいいるのかは分からないが、今のところ予定は未定の不確定なのだ。身の振り方を考えて置くと言うのもお前には必要だろう。もし決意が固まったら、また登城しておいで。今日はいささか、急な話だったようだからな」
言われて私達は謁見の間を辞し、ふらふらと家路についた。
ミントと戦う余力は、なかった。
――ここらが私の異世界暮らしのターニングポイントである。後で考えると。
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