第8話
揺さぶられてぼんやりしていた意識を取り戻すと、世界は紅い夕陽に照らされて色づいていた。どうしたんだっけと思う頭を上げると、シモンが私を覗き込んでいる。しかも切羽詰まった表情でだ。私が意識を取り戻したらしいのに気付いた彼はほっとした安堵の息を一つ吐き、それからひょいっと私を横抱きにする。ちょ、いきなりお姫様抱っことか何事。何かを言おうとして髪に絡んでいたミントの匂いに気付く。そっか、そうだ、庭に出て倒れて、私。
「ちょっシモンどうしたの?」
「城に連れて行く」
「誰を」
「お前を」
「なんで」
「倒れていたんだろう。原因を突き止めない限り安心できない。具合が悪かったのか? 何か持病でもあったのか? 何故言わなかった。心臓がつぶれるかと思ったぞ」
その本当に切羽詰まった様子に、どうどうと馬にするように胸を押す。むっとしたシモンにちょっと睨まれて、私はへらっと笑ってしまった。門前にはまだ城の馬車がいる。あれに乗せるつもりなんだろうけれど、必要はない。
「全然具合悪くないし大丈夫だよ。ちょっと立ち眩みみたいなの起こしただけで、それも日中ハーブの世話ばっかしてたからだろうし、偶然偶然。大丈夫。どこも悪くない」
「ならばそのクマは何だ?」
「へ?」
「こちらに来てから濃くなり続けるばかりの、お前の眼の下のクマは何だ」
それは別に。
ただちょっと寝不足なだけで。
大したことは、ない。
ちょっと眠れないだけで。
それを家事で誤魔化してるだけで。
磨き上げられていく床と反比例していくような。
そんな、大ごとでは。
けっして、けっして。
ぎゅぅっと頭を肩に寄せるように抱き締められて、思考は無くなる。
「気付かないと思っていたか。毎日顔を合わせる度、お前は家事に逃げる。本当はここにいるのが辛いんだろう。自分の元居た場所に帰りたいんだろう。それがままならないから、お前は眠れない。かと言って努力でどうにかなるものでもない。そして倒れた。本当はもう、限界なんだろう」
お父さん。
お母さん。
お祖母ちゃん。
ぼっと火が出るように顔が熱くなって、目からぼろぼろ涙が出てはシモンの軍服に染みこんでいく。今まで思い出さないように射殺してきたたくさんの頭の中の風船が、突如巨大になった。家族の顔。クラスメートの顔。大きくなったなら射るには簡単になるはずなのに、逆に出来なくなっていく。考えないように小さなうちに潰していた芽は、突如花開いた。これはもう射殺せない。涙として出すしかない。そうしても、どうにもならない。大きくなるばかりで頭の中自体が風船みたいだった。割れてしまったそれは、治らない。鼻水が出て来る。ティッシュが無い。
寄せられた身体の間にある突っ撥ねていた手が震えていた。買い与えられた黒いワンピースの袖でずびっと出て来る鼻水を拭う。止まらない。涙も鼻水も止まらない。
「俺は家族がいたことが殆ど無いからよく解らないが、お前は多分つらいんだと思う。だから一度城の魔術師を訪ねよう。もしかしたら人為的にお前を帰す方法が見付かるかもしれない」
ぽんぽん、と頭を撫でられて、私はこくんっと頷いた。確かに限界なんだろう。つらいんだろう。こんなに家族を恋しく思ったのは初めてだ。修学旅行で初めて親から離れた時の感覚とは比べ物にならない。私は多分、つらくて疲れている。つらさに疲れている。
「ごめんなさい」
「何を謝る」
「迷惑かけて。せっかく帰って来たところだったのに」
「掛けられたのは心配だ。そこを勘違いすると、お前はまた追いつめられるぞ。俺なんぞのことを気に掛けるより、自分の方を心配しろ。それが良い」
四つの年の差は意外と大きかった。私はそんな事を思いながら、馬車に乗せられて城に向かって行く。とんぼ返りになってしまった事を詫びるよりも、早くこの嵐のような激情をどうにかしなくてはならないだろう。深呼吸して落ち着いていると、くすっとシモンに笑われた。頭が冷えるとマグマみたいに固くなって、恥ずかしかったけれど、その意外と居心地の良い腕の中から逃げるつもりにはなれなかった。
「現状ではその娘を元居た場所に戻す方法はありませんな」
城の魔術師にはっきり言われると、また結構胸に来るものがあるな、と思った。
「論理的に説明してやって貰えるか?」
「御意。まず世には平行世界と言うものが大量に散らばっている、と言うのが何百年もの魔術師たちの観測結果の一つです。そしてそれらは細分化されているのも分かっている。例えばある独裁者が生まれなかった世界線。例えば魔法の概念がある世界線と、ない世界線。同じ境遇で育っても男女が違ったり年齢が違ったりする世界線。その中からその娘のいた場所を特定するのは、非常に困難な事です。いたずらに送り込めば平行でいられなくなった世界線同士が対消滅することもある。自然の魔法やいたずらがそれらに該当しないのは、例えば四大元素のようなものがすべての世界で共通の物だからです。――解りますかな?」
老齢の魔術師に問われ、私はなんとか理解できていることを示すようにこくんっと頷いた。よろしい、とちょっと笑われて、案外人懐っこい顔をしていたのが解る。十日前は王様の前だったからきっちりしていたのかな、なんて。
「つまり現状、あらゆる要素が同じ世界を見付けても、ほんの少しでもずれがあったら平行世界は吹き飛ぶと言う事か」
シモンの言葉に、魔術師は頷く。
「そして巻き込まれるのはこの世界かも知れない」
「だから矢栖理をいたずらに次元から放り出すのは危険、か」
「はい」
頷かれて、私は肩を落としそうになるのを必死で堪えた。でもシモンはぎゅっと隣に座った私の肩を抱きしめてくれたから、ちょっとだけ張っていた気を緩める。そうするとまた涙が出そうだったけど、その感情は小さいうちに消した。情緒不安定になっている場合ではない。取り敢えず出られないなら、この世界で出来る事を探さなければ。そう例えば。
「魔術師って、私でもなれませんかね?」
「矢栖理?」
怪訝そうな目が前と横から同時に浴びせられて、いや、と私はまだ腫れぼったい瞼を指で擦る。意味はない。ないことに意味がある。意味のない事をすることに意味がある。例えば時間稼ぎとか、自分の思考を纏めたりとか。
「私も魔術の勉強をすればどうやって自分の世界に帰れるか分からないかなって」
「無理じゃよ嬢ちゃん、魔術師は生まれる星の位置が決まっておる。嬢ちゃんでは無理じゃ」
「生まれから決まるのかあ……それじゃ難しいなあ」
「そうだ。お前は今まで通り俺の家に居れば良い。――それに」
「それに?」
「寂しいなら俺が家族になってやる」
くすっと笑われて、もー、と私は肩に置かれたシモンの手をぺちっと叩いた。冗談にしてはちょっと間が良すぎて逆に嫌だ。でも心の隙間に忍び込んで来たものは、純粋に嬉しかったと思う。こんな世界で一人ぼっちの私を庇護下に置いてくれている人だから、まあ優しさはあるんだろう。家政婦だけどね、やってることは。ああそう言えば玄関のドア開けっ放しじゃなかったっけ。早く帰らないと。
帰り道に仕立て屋に寄ってドレスを一着買った意味に気付かない程、私はちょっとシモンに心を許しすぎていた。
気付くのは次の日である。
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